第2話 出発当日 その1

2020年8月12日(水) 午前9時44分 大阪市内某所


真夏の湿気にまみれた寝苦しい夜が明けた。


ねぼけ眼をこすりながら薄緑色のカーテンを開ける。その瞬間、助走をつけてとびこんできた陽光が部屋いっぱいに突き刺さる。あまりのまぶしさに一瞬目がくらんだ。


「絶好の旅日和だ――」


きょう僕は旅にでる。

全行程で800㎞にもおよぶロングトリップだ。

電車を乗りつぎ、ロードバイクを走らせ、地元の秋田へ帰る。


出発予定時刻は午前11時55分。最寄駅発の電車に乗る。

出発までにはまだ2時間ほど余裕がある。本当は昨晩準備をするはずだったのだが、連日の仕事の疲れからか、気づくと机に突っ伏して寝てしまった。

準備といっても、おもな持ち物は着替えくらいだ。急がなくても大丈夫。


日焼けしてすっかり黄ばんだリモコンを手にとり、テレビの電源をつける。

すらっとしたモデル体型の気象予報士が週間天気を伝えているところだった。


「今日の最高気温は36度。大阪は今年一番の猛暑日になる見込みです。熱中症にならないよう、こまめな水分補給をこころがけてくださいね。」


優しく語りかけてくるような声音が心地よく、ずっと聞いていられそうだ。


ニュースキャスターが本格的な夏の到来を告げた頃から、大阪は日ごとに最高気温を更新し続けていた。気温の上昇とともに身に着けるものは一枚、また一枚と少なくなり、家ではパン一で過ごすようになった。


人が訪れることはめったにない。うちを訪ねてくるのはAmazonの宅配業者くらいだ。何よりも、体をしめつけるものが何もない開放感に病みつきだった。


40Lのパニアバッグに荷物をつめていく。数日分の着替えとロードバイクの予備チューブを数本、そして電車で読むための小説を数冊、無造作に投げいれた。まだまだバッグには余裕がある。


途中でお土産を買っていかなければならない。実家、父方、そしていとこの分。そのため、ある程度のスペースは確保しておきたい。さらにこの気温だ。ロードバイクで走っている間、喉がかわくだろうから飲み物はぜったい忘れられない。


これから数日をともにする相棒はBRUNOのVENTURA 2017年モデルだ。どこか昔なつかしさを感じるレトロな外観に一目ぼれだった。20インチの小ぶりなタイヤと、ほかでは見られない独特のフレーム形状がとても愛らしい。


真夏の青空をそのままプリントしたかのようなあざやかなブルーの車体は、こんな晴れた日によく似合う。ずいぶん乗り回したせいか、ところどころに塗装の剥げや汚れが見られるが、これがまたいい。長年履きこなし、色落ちしていくことで渋さを増していくジーンズに似た魅力を感じる。


前輪を外してフレームに結び付け、輪行袋に入れる。なかなか慣れずに苦労したこの作業も今ではお手のものだ。あっという間に大きな荷物が完成した。一緒に風をきって走るその時が来るまで、相棒にはここでゆっくり休んでもらう。


机に置かれた腕時計に目をやる。時刻は午前11時36分。


そろそろ出発しなければ――。


荷物が多いので、駅へはいつもより時間がかかりそうだ。


留守中に枯れてしまわないよう、パキラに普段より多めに水をやる。6年前、100円ショップで買った時にはほんの10㎝ほどだった背丈が、今ではゆうに40㎝を越えている。ふっと吹いたら落ちそうなほどよわよわしかった葉っぱも、今ではだいぶおおきくなった。


「よし、いくかあ――」


ここから駅までは約15分。駅に着いても若干の余裕はある。


「うんしょっと――」


右肩に輪行袋、左肩にパニアバッグをかつぎ、駅までの道のりを足早に歩く。

肩にかかる負担が左右でちがうため、体のバランスを保つのがなかなかに難しい。


夏休みで外出している人たちが多いせいか、大通りはいつもよりもにぎわっていた。やたらとカップルの姿が目につく。仲むつまじく手をつなぎ、時おり見つめながら笑いあう。彼らとすれちがうたび、なんだかちょっぴりうらやましかった――。


遠くの空では、大気圏にむかって手をのばした入道雲がゆっくりと流れている。


荒波のような人ごみをすりぬけて、駅へと無事に着いた。窓口の駅員に青春18きっぷを渡し、判を押してもらう。


ホームにはまばらに人がいるのみだった。この暑さを逃れて、クーラーの効いた部屋で過ごしているのだろうか。


額から吹き出した汗をタオルでぬぐうが、次から次へとあふれ出す。


「今日はマジで熱中症に気をつけないとな――」


中学生のころ、たおれた時があった。当時、僕はサッカー部に所属していた。夏休みのある日、隣町の中学校との練習試合があり、にらみつけるような太陽のもと、グラウンドを一心不乱に駆け回っていた。


すると突然急に視界がぼやけた。「あれ?なんだかおかしいな?」と思った途端、記憶がぷつりと途絶えた。目が覚めると、保健室のベッドの上に横たわっていた。どうやら試合中に熱中症で倒れ、保健室まで運ばれたらしい。さいわい症状は軽く、ポカリスエットを飲み、氷水でおでこを冷やしたら体調はよくなった。そんな経験があって以来、熱中症には人一倍気を付けるようになった。


あがった息がととのい、汗もひいてきたちょうどそのとき、電車の到着を告げるアナウンスがホームに響いた。太陽の光を乱反射しながら、銀色に光る車両がホームに入ってくるのが見えた。


キキィ―――――


甲高いブレーキ音をまきちらしながら、電車がとまる。

降りてくる人は誰もいない。


「ふぅ――」


旅のはじまりを確かめるように深く息をはき、大阪行きの電車へ飛び乗った











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