第六話

 父との忌々しい決別から数ヶ月経ったある日、普段の生活を取り戻していたロイを嘲笑うように、父は、シャイロットという名の地獄の使者をロイの元へ送りこんだ。

 男は、突然呼び出され戸惑うロイを、冷酷さの滲むギョロリとした目で凝視し、一枚の紙を手渡してきた。そこに書かれていたのは、20ポンドという身に覚えのない大金と、何よりも大切な母と妹の名前。


「あなたの父親は、私からお金を借りて失踪しました。借金の形として妹さんとお母様を頂きに来たのですが、一応お兄様にも了承を得てからと思いましてね」


 無論、そんな話は受け入れられず、ロイは必死に、自分達がジャックの借金を背負う義務などないと反論したが、裏社会で暗躍してきたシャイロットの籠絡に、ロイが勝てるはずもない。

 絶望するロイに、シャイロットが示した母と妹を助ける唯一の方法は、ロイが二人の身代わりとして借金の形になる事。ロイが迷わず承諾すると、シャイロットは直ちに手はずを整えた。


 この時代の職人達は、親方、職人、徒弟と厳格に身分わけされたギルドという組合に所属しており、徒弟は親方に認められて初めて職人になれる。職人は、さらに出世し親方になるため、遍歴の旅に出て修行をつむ義務があるのだが、シャイロットはその制度を利用したのだ。


 次の日、ジョージ親方の元へ、身なりのいい一人の男が現れる。

 男は、ロイの父、ジャックが失踪していた期間、ロンドンから遠く離れたマンチェスターで、ジャックの仕事の世話やお金の工面をしていた親方の代理人だと名乗り、ロイがジャックの借金を返せるように、今すぐロイを徒弟から職人にしてあげて欲しいと嘯いた。

 少しでもおかしな態度をとれば、母と妹を売り飛ばすと脅されていたロイは、男の話しを黙って受け入れるしかなく…。ジョージ親方は、ロイを気遣いながらもまんまとその話を信じ込み、男は、母と妹の前でも全く同じ話しをした。

 こうしてロイは、父ジャックの借金を返し、靴職人としてさらに修行を積むため、マンチェスターの親方の元へ働きに行くという名目の元、家族の前から姿を消すことになったのだ。



『ロイ、苦労をかけてごめんね。でも、あなたならきっとすぐに認められて立派な親方になれるわ』


 家を出て行く時、何も知らない母が自分にかけてくれた言葉を思い出し、ロイは、流れそうになる涙をこらえる。

 家族も、世話になった恩人も全て騙しロイがやってきたのは、彼らが住む場所から目と鼻の先。テムズ川を超えた北岸、劇場や娼館が立ち並ぶ歓楽街サザークの、アポロンというインだった。

 

 表向き、パブと宿泊施設を兼ねているこの場所では、少年による売春が組織的に行われている。男色は売春どころか性行自体が重罪だが、だからこそ、男娼の値段は女性よりも高く、特に10代の少年は高額な値段でやりとりされていた。そう、シャイロットの狙いは最初から、年のいったマリアや、まだ女というには幼すぎるソフィではなく、17歳になったばかりのロイだったのだ


 蜘蛛の巣にかかった獲物のようにシャイロットの罠に絡みとられ、男娼に身を墜としたロイは、今日、初めての客をとるためと屈辱的に身体を洗われる。そして、膝丈までしかない白い布を纏ったような衣装を着せられ、他の男娼達と共に並ばされていた。


「ほう、初めて見る顔だが中々美しい子だね」


 部屋に入ってきた客に突然声をかけられ、ロイは思わず体を強張らせる。すると、隣にいたユーリが、先ほどまで話していた時とは別人のような甘美な声を出し、親しげにその客にしなだれ掛かった。


「ギルバート様、今日は俺に会いに来てくれたんじゃないんですか?」


 でっぷりとした体型の気の良さそうなその客は、すぐに頬を緩ませ謝り、ユーリの体を抱き寄せ、仲睦まじげに三階へと上がって行く。


『大丈夫、慣れちまえばどうってことない。

たまに男娼になら何してもいいと思ってる変態や乱暴なのもいるけど、いい金蔓になってくれるお人好しもいるから、そうゆうのに常連になってもらうと楽に稼げるよ』


 二人の背中を見送りながら、ロイはユーリの強かさに脱帽した。だがロイには、自分がこの仕事に慣れ、男に媚を売ることができるようになるとは到底思えない。それでも、家族のためにはこうするしかないのだと自分に言い聞かせ、己の服の裾を強く握りしめたその時


「リリー、指名だ」


 店の主人に適当につけられた仮名で呼ばれ、ロイは覚悟を決めて、客の側まで歩いていく。極度の緊張で、客の顔をまともに見ることができず俯いていると、突然無遠慮に顎を掴まれ持ち上げられた。そこで初めてロイは、男が自分にむける、情欲のこもった視線を目の当たりにする。


「震えているね。今日入ったばっかりなんだって?主人から聞いたよ。怖がらなくて大丈夫。時間を忘れるほどたっぷり可愛がってあげよう」


 男の言葉に鳥肌が立ち、ロイの恐怖は頂点に達する。今すぐこの手を振り払って逃げ出したい衝動に駆られながらも必死に耐え、ロイは初めての客と共に客室へと向かった。



 男に手を引かれ入った部屋の中には、肘掛け椅子と、簡素な部屋に似つかわしくない大きなベッドがこれ見よがしに置いてある。

 思わずベッドから目を逸らし、ふと壁際にある窓を見やると、夜になってもまだ日が落ちることのない空が、ロイの状況など素知らぬ顔で、美しく広がっていた。


「どこを見てる!早くしろ!」


 部屋に入った途端、男は態度を豹変させ、乱暴にロイの腕を掴みベッドに放り投げる。


「まず服を全部脱げ、そしてそのまま私の前で足を広げるんだ」


 そう強い口調で命令し、ベッド正面の肘掛椅子に座る客の目には、自分の手の中にある獲物をこれからどういたぶろうかという残酷な加虐心がはっきりと現れていた。屈辱と絶望に打ちひしがれ、ロイが中々服を脱げずにいると、男は自らもベッドに上がり込み、嬉々とした表情でロイを押さえつける。


「何をモタモタしている!すぐに言うことを聞けない悪い子にはお仕置きが必要だな」


 至近距離まで近づいた男の唇がロイの頬に触れ、酒臭い息がロイの鼻を掠めたその瞬間、酒に溺れ、地獄へ突き落としてやると自分達に言い放った父の顔が脳裏をよぎり、ロイの中で何かが弾けた。


「グア!」


 気がつけば、男は悲痛な叫び声をあげ股間を押さえて蹲っている。ロイは反射的に、男の急所を力任せに蹴り上げていたのだ。

 そこから先は無我夢中だった。ロイはベッドから跳び降り、目に付いた肘掛椅子で窓を錠前ごと破壊すると、助けを求めるように、人一人通れるほどの小さな窓から身を乗り出す。

 三階から見下ろす景色は思った以上に高く、ほんの一瞬だけ怯んだが、この場から逃げ出したい衝動がロイを突き動かした。


「待て!」


 ロイを捕まえようと伸ばされた男の手をすり抜け、ロイは意を決して窓から飛び立つ。

 抗いがたい重力に引かれ、ロイの身体は地面に着地し、その衝撃のまま勢い良く膝から倒れこんだ。それでもすぐに立ち上がるため、土に手をつき顔をあげると、目の前で見知らぬ青年が、驚愕の表情でロイを見下ろしていた。


「お前、人間?」

「?」


 青年の言葉への疑問を問いかける暇もなく、騒ぎに気付いた店の主人が、何事だと階下のドアから走り出てくる。


「リリー!お前!」


 店の主人がロイを見つけ、怒りの表情でこちらへ来ようと歩を進めた次の瞬間


「行くぞ!」


 ロイは見知らぬ青年に手を掴まれ、全速力で走り出していた。

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