第49話 月、満ちる

 春の終わりが顔を見せ始め、しかし、夏にはまだ幾分も早い半端なの闇は随分と明るかった。

 雲を蹴散らし堂々と輝く月の光が琥珀族の地を浮かび上がらせている。

 しかし、星々の煌めきと共に浮かぶその月は、よくよく見ると僅かに端が欠けている。満月になるにはもう一日早い、月ですらも半端なよるだった。

 小さな一室に灯された蠟燭の灯りは二人の男の横顔をゆらゆらと照らし続けていた。

 先に静寂を破ったのはナジウだった。ナジウは低い声でイファルに問うた。

おさにも言わぬつもりか」

「伝えてある、あの方は全てご存じだ」

 ナジウは眉を跳ね上げて驚愕の声を上げた。

「どういうことだ! では、なぜ今この地はこうも普段と変わらぬのだ!」

 イファルは表情のない目でナジウを見ながら言った。

「それが姫様を逃がす条件だからだ」

「なっ……」

 言葉を失ったナジウは呆然とイファルを見つめていたが、やがて、ふつふつと湧き上がる怒りに身を震わせ始めた。

「お前……天秤にかけさせたのか……この地のあるじに、娘とこの地を……」

「そうだ」

 その瞬間、ナジウはイファルの胸倉に掴みかかった。

「なんとむごいことをしたのだ!」

 怒りを抑えようともせず、怒鳴り声を上げたナジウを見上げながら、イファルは数日前のヒョウリとのやり取りを思い出していた。


 イファルは狩人かりびとの屋敷を発ってからすぐ、この地の長であるヒョウリの元へ鷹を飛ばしていた。

 ヒョウリは初め、人の言葉を話す鷹にたいそう驚いていたが、話が進むにつれて真剣な表情に変わり、口を挟むことなく最後までイファルの話に耳を傾け続けた。

 イファルの話を聞き終えたあと、ヒョウリが下した決断はごく簡潔なものだった。

「動かぬことを選んだ植物は、その血を絶やさぬ為に鳥に種を運ばせることがあるのです。そうして、種は遠い地で根を張り、いつしかそこに血を咲かす……絶えぬのならばそれでよい。どうか我らのユクを運んでください」

 そう言い切ったヒョウリの顔には、絶望の色も怒りの色も浮かんでいなかった。

 ただそこにあったのは、おのが一族の行く末を悟ったあるじの顔だった。


 ヒョウリとのやり取りを語り終えると、イファルは静かに言った。

「長もこの道を選ばれた。これしか手立てがないのだ」

「……」

 ナジウはゆっくりとイファルの胸倉から手を離すと、束の間目を閉じて、大きく息を吸った。

「あいわかった」

 覚悟を決めたようにそう呟くと、すっと立ち上がり、襖に向かって歩き出した。しかし、襖に手をかけたところで足を止めると、真っ直ぐ前を見つめたまま静かに口を開いた。

「俺がお前を災いと呼んだわけを知っているか?」

「……」

「お前が番小屋にたどり着いたあの日の晩、俺は劫火ごうかに焼かれ無残に消えゆくこの地の姿を詠んだ……その劫火の中にお前はいたのだ。燃え盛る炎に囲まれ、黒煙を巻き上げながら崩れゆく屋敷を背に、お前は真っ直ぐ立っていた」

 ナジウはそこで一旦言葉を切ると、ぐっと眉根を寄せながら目をつぶった。

「お前は……守っていたのだな」

 イファルは何も答えなかった。

「すまなかった」

 小さく呟かれたナジウの言葉にイファルは僅かに首を振った。

「間違ってなどいない、俺は狩人かりびとだ。この地からすれば災いに変わりない。それに、俺が守るのはこの地ではない」

 襖にかけたまま止まっていたナジウの手にぐっと力が入る。

(この男が何を守ろうとしているのか分かっている)

「引き受けた……太陽神の加護がその身にあらんことを。武運を祈る」

 ナジウはそう言うと、そのまま静かに出ていった。


 ナジウが去ったあともイファルはその場にじっと座り続けていた。

 屋敷は静まり返っている。目を閉じて周囲に意識を巡らせたが、誰の気配も感じられなかった。

 その静けさと共鳴するように、イファルの心の内は不思議なほどに凪いでいた。

 どのぐらいそうしていただろうか。こちらに向かってくる気配を感じて、イファルは目を開けた。

 襖が勢いよく開いたと同時に飛び込んできたのは、一人の下男げなんだった。――いや、イファルの計画通りに下男のころもを纏ったユクの姿がそこにはあった。

 どうやら、ナジウが上手く下男の宿舎から衣をくすねてきたようだ。

 しかし、イファルはユクに続いて入ってきたナジウをぎろりと睨みつけた。

 何故ここに姫様を連れて来た。これは計画になかったはずだ。

 イファルの言いたいことを悟ったのか、ナジウは少しだけ申し訳なさそうに顔をしかめた。

 そして、ナジウが何か言おうと口を開いた瞬間、ユクはイファルに詰め寄った。

「なぜわたくしだけが逃げねばならぬのですか」

 それは、戸惑いと微かな怒りの混じった声だった。

 ナジウから全て聞いたのだろう。――イファルは、偽りなくありのままを伝えてくれ、とナジウに頼んでいた。

「お伝えした通りです」

「一族を見捨てて得たせいに何の意味があるというのですか」

 そう言って、真っ直ぐにイファルを射抜いたその視線は、呪術に苦しめられながらも堂々とイファルを迎えたあの日の瞳と重なった。

 あの時と変わらぬ気高き瞳が、そこにはあった。

「それに……」

 続けて紡がれたユクの声は震えていた。

「事情を知った今、イファル様を置いてこの地を離れることは出来ません」

 ユクは声の震えを止めようと必死に呼吸を繰り返した。

「このような結末は望んでおりません。自由に生きよと申しましたが、これではあまりにも勝手過ぎます」

 そう言って、ユクは唇を噛み締めながら小さく首を振った。――美しく伸びた金色こんじきの髪はもうユクの胸元では踊らない。

 男を真似てばっさりと切られた髪は、この先、彼女がこの地の姫だったと語りはしないだろう。

 そんなユクの姿を見ながら、イファルは静かに問うた。

「姫様は人をあやめることが出来ますか?」

 途端に、ユクの顔がこわばったのが分かった。

「出来ぬはずです。争いを好まぬ琥珀族が我ら狩人かりびと一族の手から逃れられることなど、万に一つもありはしないのです」

「けれど……」

 それでも何か言おうと開かれたユクの口元は未だに小さく震えている。

「いいえ、今の貴方に出来ることは生きのびること、ただそれだけです」

 ユクはぎゅっと顔を歪ませた。

 盛り上がってきた涙をこぼすまいと、ぐっと口を引き結んで歯を食いしばる。

 喉が締め付けられて声が出ない。呼吸すらもままならず、落ち着こうと鼻から大きく息を吸った。

 膝の上では、固く握りしめられた拳がぶるぶると震えている。

 身を震わす程のこの想いは、悲しみなどではない。何も出来ぬと突き付けられた己の無力さが堪らなく悔しかったのだ。

 一室はしんと静まり返っていた。

 やがて、イファルはナジウに視線を移すと、目顔で襖を指した。

 ナジウは静かに頷くと、そっとユクの腕をとった。

「行きましょう姫様。一刻を争います」

 そうして、力なくナジウに連れらていくユクの背に向かって、イファルは一言だけ呟いた。

「名をありがとうございました」

 こらえ切れず、ユクは声を押し殺して泣いた。

 せめて、この夜のしじまに己の嗚咽が響かぬよう、手で強く口元を覆いながら泣き続けた。





 月は満ちた。

 昨夜の欠けた部分は平然と埋まり、綺麗な円を描いて天に浮かんでいる。

 イファルは主殿の屋根上から眼下に広がる琥珀族の地を静かに見下ろしていた。

 遠く方では、どこまでも雄大な牧草地が広がっている。

 二人はもうあの牧草地を超えただろうか、ナジウのことだ、きっと上手くやるだろう。

(ただ遠くへ……)

 この地の悲鳴が届かぬほどの遠い地で、いつかその美しい花を咲かせることを願う。

 イファルはぐっと帯を結び直した。

 着慣れぬ月詠みの衣装はいささか重たかったが、支障はない。最後に風よけの布を目元まで引き上げるとすっと顎を引いた。

 一目では分かるまい。

(さあ、お前たちの獲物はここだ)

 その時、視界の端で勢いよく火の手が上がったのが見えた。

 それが始まりの合図だった。

 火を知らせる半鐘はんしょうが、カン、カン、カン! と狂ったように打ち鳴らされ、やがて、眼下は騒然となった。

 燃え広がっていく炎、逃げ惑う人々、黒煙を巻き上げながら崩壊していく家屋。

 今、この光の地は影によって落とされようとしている。

(ゆこう)

 イファルは大きく息を吸った。

 その時ふと、イファルの脳裏に思い出が蘇ってきた。

――人とは〈想う生き物〉だと思うのです。

 そう言って微笑んだユクの顔が、あの庭の景色が鮮明に蘇ってきた。

 目を焼いた夏の日差しや金色こんじきの髪を揺らしたあの風の匂い、枝から飛び立った夏鳥の力強い羽ばたきや池に流れ落ちる水の音……。

 イファルはそれらを思い出しながら、自嘲気味に小さく鼻を鳴らした。

 死地に向かうこの瞬間に、どうしてあの日を思い出すのか。

 暫く逡巡し、ふと何かが繋がった。

(……ああ、そうか)

 あの日理解出来ずにいたユクの言葉の意味を、今ようやく理解した気がしたのだ。

 イファルはゆっくりと目を閉じると、最後の想いを静かに心の内で紡いだ。


 我が名はイファル

 化物けものと呼ばれ忌み嫌われた者なり。

 屍の上に生まれ落ち、多くのたっとき鮮血を浴びて地に堕ちた者なり。

 の命の終わりに心も動かぬ血濡れた〈化物けもの〉が我がさがなり。

 されど、今宵だけは……堕ちた化物けものに名をくれた、ただ一人の娘の為に。


 イファルは、ぱっと目を開いた。



――我、人に昇る。

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