第33話 影を纏う金貨

 女は客の入らぬ静かな写し屋で、薄汚れた古紙に筆を走らせていた。

 開け放した門戸の向こうからは、商人たちの威勢のいい客引きの声や幼子のはしゃぎ回る声が聞こえている。

 その喧騒を聞き流しながら、するすると慣れた手つきで古紙に文字を埋めていく。

 ふと、手元に大きな影が落ちて、何事かと思い顔を上げた。

 音も無く現れたその客を見て、女は驚きと好奇心の入り混じった声を上げた。

「随分と珍しいお客だね、あんたが直々にこんな小さな所に来るなんて」

「ああ、ルガウ街道がいどうの方にはラダンがよく使う者がいるらしいからな、出来れば静かに動きたい」

 男は落ち着いた口調で答えた。

 しかし、その口調とはうらはらに、氷のように尖った寒々しい眼光に射抜かれた瞬間、女は一瞬ぶるっと小さく身を震わせた。

「……それで、狩長かりおさ様がこんな小さな写し屋に何の用だい?」

 女は男の放つ雰囲気に飲まれまいとぐっと背を伸ばして、強い口調で訊ねた。

「ああ、金色の瞳を持つ赤子を探して欲しい」

 女はユホウの言っている意味を理解すると、一瞬目を見開いた後、怯えるように首を振った。

「それは……私ら天鼠てんそしゅうはそれに手を出さない約束のはず――」

「誰と交わした約束だと思っている」

 ユホウは女の言葉を遮るように静かに言った。

 女は暫く黙ってユホウを睨み付けていたが、やがて、大きなため息をついて目を逸らした。

「分かったよ、その代わり金は通常の倍にしな」

 女が渋々といった様子で後ろを振り返り、手を叩こうと腕を上げた瞬間、手打ちの音よりも早く奥の木戸が静かに開いた。

「ご依頼承りました」

「……ヨヌアか。大きくなったな」

 ユホウは奥から現れたヨヌアの姿を見て、驚いたように声を上げた。

「久方ぶりです、ユホウ様」

 ヨヌアは床に両手をついて深々と頭を下げた。

「あんたがこの子をここに連れてきた時は気でも狂ったのかと思ったが、腕は確かだから随分と評判がいいよ。まあ、相変わらず人形みたいで気味悪いがね」

 女はわざとらしく肩をすくめながら、ヨヌアの方を顎でしゃくってみせた。

「仕方あるまい、目の前で親が殺されたんだ。深く傷を負った心がまだ癒されていないのであろう」

 ユホウはヨヌアを気遣うような柔らかい声で言った。

(……よく言うよ。それをやったのは、あんたたち狩人かりびとだろうに)

 女は心の内で呆れたように呟いたが、しかし、それを決して口にはしなかった。


 王帝オムサが同盟諸国に支配の手を広げ始めた頃、北の大地は混乱を極めていた。

 平穏を保つ為にと交わされていた国同士の条約はオムサの前では意味を成さず、何の前触れもなく始まった侵略に同盟諸国は完全に不意を突かれた形となった。

 また、狩人たちの参入も相まって戦場は瞬く間に火の海と化していった。

 あの頃のオムサの戦には情けも容赦もなく、戦う意思を持たない者がいたとしても決して逃しはしなかった。そればかりか、追い打ちを掛けるように、そこにあるもの全てを焼き払うように常に命じていた。

 わめく者も泣き叫ぶ者もいなくなった静かな戦場で、ただ炎炎と燃えさかる火の海と黒煙が立ち昇る地獄絵図はオムサの名を各国に轟かせるには十分だった。

 ヨヌアはその時ユホウが拾ってきた戦争孤児だ。

 なぜユホウがヨヌアに手を差し伸べたのかは分からない。

 しかし、全身から血の匂いを放ちながらも、涙跡の残る幼子の小さな手を握っていた姿は、無情に命を狩り取る死神の姿ではなく、慈悲のある一人の男の姿をしていたことをよく覚えている。

「これで足りるだろう」

 ユホウは女が思っていたよりも多くの金貨を台の上に置いた。

 いつもなら嬉しいはずの金貨が、この時だけはドス黒い影を纏った汚物にしか見えなかった。

「……まいどあり」

 女は渋顔を浮かべながら、不服そうにぼそりと呟いた。

 金を払い早々に立ち去ろうとするユホウを見送ろうと、店先までついてきたヨヌアに向かってユホウは穏やかに訊ねた。

「どうだ、上手くやっているか?」

「はい、お陰様で。最近では谷に棲む民ラガ・コテルを探しているという旅人の依頼をこなしました」

 ユホウの目に一瞬、鋭い光が宿った。

「ほう、随分と珍しい依頼だな」

「色々と情報が混濁しており苦労しましたが、何とか見つけし、役目を果たすことが出来ました」

「……谷に棲む民ラガ・コテルに会ったのか?」

「いいえ、遠目から姿を確認しただけです」

「そうか、よくやったな。リラ谷は遠かっただろう?」

「……いいえ? クヴ谷です」

 ヨヌアはユホウを見上げながら、訂正するように小さく首を振った。

 すると、ヨヌアの華奢な肩にふわりと大きな手が置かれ、ユホウの口元が僅かに吊り上がったのが見えた。

「そうか、お前はあれを見つけ出したのか。腕をあげたな」

 ヨヌアにはその言葉の意味が分からなかったが、自分に向けられたユホウの笑みを見て、小さく頭を下げた。


 写し屋を後にしたユホウは、流れるような動きで薄暗い路地に身を滑り込ませると、部下を呼んだ。

「いるな?」

「ここに」

 姿は見えないが、気配はすぐ傍ではっきりと感じられた。

 ユホウは前を見つめたまま、低い声で言った。

「クヴ谷に向かえとアッカに伝えろ。鼠が一匹嗅ぎまわっている」

「御意」

 部下は何を訊ねるでもなく、ただ一言そう言うとすぐに気配を消した。

 残されたユホウは路地裏の虚空をじっと見つめたまま、頭の中にタルの盤を思い浮かべた。

 敵味方の駒が綺麗に並ぶ盤上に、突如異質な駒が一つ現れた。

(……どんな駒かは知らぬが邪魔はさせぬ)

 ユホウは目を細めると、頭の中でその駒を弾き飛ばした。

 どんな目的で彼らに会いに行くのか知らぬが、狩りの邪魔をした者がどういう末路を辿るのか、それは獣の世界でも同じことだ。それに、獲物が同じであれば尚の事、強者がそれを食らうのが自然の摂理である。

 ユホウはふっと口元を緩めると、大きく跳躍し、ルガウ街道からあっという間に姿を消した。

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