第10話 放たれた狩人

 アウタクル王国よりはるか北方、王宮と離れを繋ぐ長い渡り廊下を、音も無く滑るようにして進む一つの影があった。

 王族のころもでもなく、上級・下級どちらの官吏かんりの衣でもなく、新月の夜にふさわしい黒い衣を纏った長身の男が、足早に、しかし、癖付いた独特の摺り足で音と気配を消して歩いていた。

 男は渡り廊下の途中でふわりと地面に降り立つと、点々と埋まっている石畳の先にある、うっそうと生い茂った茂みに素早く体を滑り込ませた。

 茂みはすぐにひらけ、目の前には、こじんまりした石造りの低い建物が姿を現した。

 この王宮の土地には相応しくない手入れのされていないその建物は、辺りの茂みと同化し、一見物置小屋か何かのような佇まいだ。

 男は建物の扉の前で立ち止まると静かに意識を広げ、辺りを慎重に探った。

 風が止み、鳥も虫さえも鳴かぬ暗夜の中で、自らの心臓の鼓動だけがいやに耳についた。

 少なくとも自身の周辺には誰の気配も感じないのを確認し終えると、ふっと息を短く吐き、ゆっくりと口を開いた。

「婆様、ラダンが参りました」

 ラダンと名乗った男はそう言うと扉の前で片膝をつき、誰に見せるわけでもなく右腕で両目を覆った。

「堅苦しい挨拶はいい、お入り」

 中から聞こえたしゃがれた老女の声を聞き終えたあと、ラダンは気付かれない様に小さくため息をついた。

(ここに来るのは何年ぶりだろうか……)

 ふと、幼い頃父に連れられてこの建物を訪れた時のことを思い出した。

 能面のように表情が変わらない老女を初めて目にした時、全身に冷水を浴びせられ極寒の寒空の下に放り込まれたような、背筋の凍る恐怖を抱いたのを覚えている。

 そこから婆様と父が何を話していたのかは覚えていない。

 しかし、幼いながらにここは気軽に立ち寄っていい建物では無い事だけは理解した。

 ラダンは覚悟を決めたように顔を上げ、すっと立ち上がると扉を開け、奥へと足を踏み入れた。

 風通しの悪い建物の中はとても薄暗く、夜目の利くラダンであっても目を凝らさなければ物が認識出来ないほどの灯りしか灯っていなかった。

加えて、むっと立ち込める香草の匂いが鼻をつきラダンはきつく眉間に皺を寄せた。

 ひと際大きく円を描いている橙色の蠟燭の灯りを目指して奥へ進むと、四畳半程の小さな部屋の上座に老女は胡坐をかいて小さく座っていた。

「お久しぶりです婆様。我ら狩人かりびと御魂みたまをお導き頂き――」

 ラダンが言い終えないままに、老女は眉一つ動かさずにラダンの挨拶を手で遮った。

「心無い前置きはいらぬ。天からのお告げを受けた。我らの成すべき事を今からお前に託す。しっかりと胸に刻み、確実に遂行せよ」

 そう言うと老女は、傍らにあった珠がつらなった長い輪を顔の前まで持ち上げて、両の手で挟み込むとゆっくりと鳴らし始めた。

 珠がこすれる音は徐々に早くなり、次第に大きくなっていく。それと同時に老女はぼそぼそと何かを口ごもりはじめ、その発せられていた音は次第にラダンでも聞き取れる言葉に変わっていった。

「南の国に兆し有り、幼子金色こんじき抱えて生を授ける――」

 聞き取れる言葉もあれば、所々どこの国の言葉なのか分からないような言葉も交ざっていて、ラダンは決して聞き逃さないように静かに耳を傾けた。

「再び過ちの道を辿らぬよう、われらの使命はただ一つ、金色の種は狩らねばならぬ」

 最後にそう言い終えると、老女はゆっくりと目を閉じて、長い珠輪たまわを自身の膝の上に置いた。

 束の間、沈黙が二人を包んだがどちらとも押し黙ったまま、その静寂に身を委ねていた。

 やがて、老女は一つ長い息を吐き、ラダンを見据えて口を開いた。

「ついに時は来た。悪しき種は狩り、我が主に献上せねばならぬ。近々、金色のまなこが生まれるぞ。放たれた狩人は静かに獲物に近づき、決して逃がしはしない。それがお前の――我ら狩人の使命だ」

 そう言い放った老女の瞳の奥に、一瞬鋭い光が宿ったのをラダンは決して見逃さなかった。

(この年になっても尚、狩人の眼光は衰えないものか……〈鴟梟しきょう〉の異名で恐れられた狩人は今も健在ということか)

 ラダンは表情を変えずに心の中で呟いた。

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