全知無能の翻訳家ナツメの憂鬱

高柳神羅

第1話 翻訳家になる前のナツメの災難

「いたぞ! あそこだ!」


 全速力で走る俺の背後で、剣に槍にと物騒な得物を握り締めた若い男女の集団が大声を上げている。

 此処は……何処なのだろうか。全く見覚えがないどころか、初めて目にするものばかりがそこかしこに転がっているこの場所が、少なくとも日本……地球上の何処かではないことだけは何となく理解したのだが。

 何故追いかけてくる野良犬を撒くために逃げ込んだ空き地のプレハブ倉庫が異世界にある塔の中と繋がっていたのかとか、異世界なのに普通に言葉が通じて文字が読めるのかとか、その辺のことは今はどうでもいい。うっかり異世界に迷い込む話なんて昨今腐るほど存在しているし、言葉に不自由しないのは異世界転移転生モノとしてはお約束のことだし。御都合主義、の一言で片付くことなので深く考える必要はない。

 それよりも重要なのは──


「『ニル』は絶対に渡すな! 殺してでも奪い取れ!」


 今もなお俺を捕まえることを諦めていないあいつらからどうやって逃げ切るか。その手段を手に入れることだった。

 ……一応俺自身の名誉のために言っておくが、俺は物盗りをしたわけでも追って来るあいつらの手柄を横取りしたわけでもない。

 これは成り行きというか、事故というか、……とにかく俺にも何が何だかさっぱりなのだ。

 偶然行き着いた場所にミラーボールみたいな物体が飾ってあって、その前に記念碑みたいな石の台座が置かれていて、その表面に刻まれていた文字を読んだら、この状況に陥ってしまったのだ。

 ファンタジー好きの憧れ、ルーン文字に何となく形が似ている文字が何故か理解できることに舞い上がって、つい文章を声に出して読んでしまった……ことが唯一のやらかしと言えばやらかしになるのかもしれないけれど。だが、俺が実際に行動したことといえばそれくらいだ。

 あの文章を音読した結果どうなるかなんて露ほども知らなかったし、あいつらがを御所望だって言うんなら、俺は別にこんなのはいらないから勝手に持って行ってくれって感じだし。そもそもが何なのか自体、俺は知らないし。問答無用で殺そうとする前に事情を説明してくれよ。それなら俺も逃げたりなんてしないから。

 ……でも、向こうは俺の話なんて全然聞いてくれないし、何より武器ぶん回して鬼の形相で雄叫び上げてるのが怖いし。それに──


「オトーサン」


 ──まだ辛うじて二十歳になっていない俺を親父呼ばわりして胸にひっしとしがみついているこの女の子が、俺がどんなに引き剥がそうとしても離れようとしてくれないのだ。

 見た目は三歳とかそれくらいの幼女なのに、この馬鹿力は何なんだってくらいに握力も腕力も強くて、俺の力じゃ全然歯が立たない。まるで万力で挟まれてるみたいな感覚だ。この世界の人間って皆こんな怪力の持ち主なのか? それとも、この子だけがそういう特別な力か何かを持っているのか?

 俺を追って来る連中は『ニル』がどうとかって言ってるし……そもそも『ニル』って何なんだ? この子の名前か何かか?

 まぁ、あのミラーボールの中から出てきた時点で色々普通じゃなさそうな感じは薄々としていたけれどな。


「待ちやがれぇぇぇ!」

「待ったら殺すだろうがせめて人の話くらい聞けよ!」

「オトーサン」

「俺はお前のお父さんじゃないっての! いい加減離れてくれよ! 俺が追っかけられてるの、お前のせいなんだぞ!」

「オトーサン」

「……あぁぁもぉおおおお!」


 とりあえず逃げる! 考えるのはそれからだ!

 俺──棗理杜りとは、日本から異世界に迷い込んで早々に怪力幼女の父となり、現地人に命を狙われるお尋ね者となってしまったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る