芝浦刀麻は誰よりも世界の閉塞からの解放を望んでいる。

 ※思いっきりネタバレのあるレビューとなりました。未読の方や気になる方は作品を読んでからをオススメいたします。

 天上杏さんのツイッターで「氷上のシヴァ」は朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」形式なんだと呟いていたのを見かけたことがありました。
「桐島、部活やめるってよ」はバレー部の部長だった桐島が部活をやめることをきっかけに、同級生5人の日常に変化が起こる、というもの。

「氷上のシヴァ」で当て嵌めると芝浦刀麻という「氷の妖精」や「氷の神」と呼ばれる少年の存在によって、彼の周囲にいる人間の日常に変化が起こる、物語と言うことができます。

 ちなみに、「桐島、部活やめるってよ」の桐島について、社会学者の大澤真幸が面白いことを書いています。少し引用させてください。

「桐島は、部活をやめただけではない。その日以降、学校にも現れない。映画では誰もが強烈に、桐島の帰還を望んでいる。

 中略

 映画においては、どうして桐島はあれほど強烈に待たれているのか? 桐島の存在が、彼ら、他の生徒たちが「救済されうること」を保証しているからである。どこからの救済か。もちろん、学校に象徴される世界の閉塞からの救済(解放)である。」

 という大澤真幸の文章を前提に「氷上のシヴァ」を考えてみると、芝浦刀麻の呼ばれ方の一つ「氷の神」が個人的にしっくりときます。
「氷上のシヴァ」は芝浦刀麻という神様に対して、供物を捧げるような物語だったと思います。
 神様に何を望むのかは、その人の自由ではありますが、信仰の先にあるのは「世界の閉塞からの救済(解放)」とも受け取れる為、桐島=芝浦刀麻と思って読み進めました。

 ただ、最後の登場人物、霧崎洵だけが、この供物を捧げるような物語構造から抜け出し、一人の神様として芝浦刀麻と渡り合おうとします。
 それ故に霧崎洵の目を通して芝浦刀麻を見ると少し不気味で、最後の章はどこからが現実で、どこまでが非現実なのか、を押し測るのが難しくなります。
 神様同士の物語となってしまう、そんな印象です。

 個人的には第一章の山崎理紗が好きだったのですが、最後の霧崎洵の章に来ると、彼女は信仰に取り憑かれてしまったようになっていて、ぞくっとしました。

「桐島、部活やめるってよ」の桐島は、その存在によって他の生徒たちを救済する物語になっているのだけれど、「氷上のシヴァ」の芝浦刀麻は他者を救済できる彼(神様)そのものが、もっとも救済を求めている、という構造になっています。
 そして、神様を救えるのは神様しかいない。

「氷上のシヴァ」の最後にある「翌日読んでもらいたい、ちっともささやかじゃない後書き」を読むと、「私はまだ刀麻の回収に成功していない」と書かれています。 

 物語のラストの霧崎洵と芝浦刀麻のやり取りや、シーンは美しくさえありますが、救われたのは確かに刀麻というよりは、洵の方でした。
 そういう意味では芝浦刀麻は「氷上のシヴァ」に漂い続けるのか、他の作品で回収されるのか、今後注目したいと思います。

 最後に天上杏さん、長々としたレビュー申し訳ありません。
 もしかすると、まったく見当違いなことを書いているかも知れません。
 生暖かい目で読んでいただければ幸いです。

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