第14話 魔法

 

 リンクに足を踏み入れると、一瞬で汗が引く。カーディガンを羽織ってもまだ寒い。

 六限が終わって急いで来たから、まだ人はまばらだ。


 氷上で足慣らしをしていたとーまは、私の姿を認めると、見てて、という風に軽く頷いた。


 氷上に、私の音楽が流れ出す。

 それは、ばらまかれた、と言った方が正しかった。

 掴みのストリングスの音が粗くて、反射的に顔を顰めた。

 イントロの数秒間、とーまは目を閉じたまま悠然とリンクを回っていたが、ビートの合図、一発目のハイハットを捉えた瞬間目を見開き、一気に加速した。

 ……こんなに速いの。私は青ざめた。

 追い風に乗るどころか、まるで自らが風だ。

 そうだった。とーまは、氷上のスプリンターでもあるんだ。

 捉えたはずのエッジがすり抜ける。

 これじゃ音の隙間を持て余す。BPMを130台に乗せないと。


 私の逡巡をよそに、とーまは鋭く二度のターンを決め、豪快にトリプルアクセルを跳んだ。

 ターンで場面の移行を示唆し、ジャンプで飛び移る。

 軌道が架け橋を描いた。

 あまりのジャストタイミングに戦慄する。

 ……今日聞いたばかりで、どうしてこんなことができるの。

 空っぽだなんて。とーまは、ちゃんとイマジネーションの源泉を持ってる。


 それにしてもリンクが広い。

 フレーズ全部が、もっとダイナミックに舞ってほしい。

 もっと奥行きを使わなきゃ。氷上に、風景が立ち上がるような立体感を。

 ギリギリを攻めたはずなのに、まだ余地が残っていることに唇を噛む。

 それでも、とーまの足は止まらない。


「この曲、あなたが作ったの?」

 ふいに後ろから声を掛けられ、私は振り返った。


 すらりと背の高い、ものすごい美人が立っていた。胸にIDを提げている。

 榛名学院スケート部インストラクター、朝霞美優。

 とーまのコーチだ、と直感した。

 涼しげな目元に吸い寄せられたまま、はい、と答えると、先生は艶然と微笑んだ。


「ありがとう。本当に、待った甲斐があったわ。……あの子ね、音楽に合わせて演技をするってことができなかったのよ。まるで回路が欠落してるみたいに」

 張り詰めた顔で、朝霞先生は呟いた。

 私はにわかには信じられなかった。

 目の前のとーまは、水を得た魚のように滑っていたから。


「それでも、ショートは無表情を逆手に取るようなプログラムだから良かったの。けど、フリーもそうするわけにはいかないでしょう。……私達は、闘わなくちゃいけないから」

 そう言って、先生は氷上に目を遣った。

 瞳の奥で青い光が燃えていた。

 闘志の炎。煽るように、とーまは舞う。


 ビートが消えてウワモノだけになり、シットスピンに移行する。

 スクラッチ音の竜巻に、回転が重なる。

 全ての音が束になって蘇り、一斉に爆ぜる。

 とーまは巧みなステップで氷上を駆け抜け、シンセサイザーの響きに乗るようにハイドロブレードのポジションを取った。


 ふいに朝霞先生が、ねえ、と口を開いた。

「今の所、一番盛り上がるでしょう。ここはステップシークエンスっていう、エッジワークを存分に見せる場面だと思うの。……敢えて、メインのメロディーを外すってことはできるかしら? ずっと鳴っていた主題が、クライマックスで消えることで、かえって浮き彫りになる。イメージとしては、刀麻君の身体そのものがメロディーとなって、氷上を駆け抜けるような……」


「それ、すごくイイですね」

 思わず食い気味に言った。

 どうして思い付かなかったんだろうというくらい、最高のアイディアに思えた。


「……ほんと? 気を悪くしてないかしら」

 先生は片眉を上げて私を見る。

 私は大きくかぶりを振った。

 なぜだろう。この人に口を出されるのはちっとも嫌じゃない。

 それどころか、もっと話してほしいと思う。

 感じたこと、浮かんだ閃き、丸ごと私に教えてほしい。

 とーまのスケートは、インスピレーションを掻き立てる。

 私達は、同じ光に魅入られている。


 突然終わりを告げる音楽。余韻は一切残さない。

 とーまは指揮者のように音の残像を両手で掴み、ぴたりと止まった。

 嵐は一点で収束して消えた。


 朝霞先生は、別人だわ、と溜息をついた。

 別人だよ。大野先生の言葉がフラッシュバックした。


「あの子、今度こそ本当にフィギュアスケーターになれるかもしれないわね。そういう意味では、あなたの音楽は魔法よ」

 そう言い残し、先生はとーまの方へと滑っていった。

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