黒金のジャガーノート

ヤン・ヒューリック

第一章 蛇姫と神鳥

プロローグ

 もしも地獄があるならば、おそらくこのような場所なのだろうと男は思った。


 腐敗した死体、鮮烈な血があちこちに飛び散り、そしていくつかの薬剤が混ざりあい、これ以上もこれ以下も存在しないほどの悪臭がする。


 あまりにもひどい匂いに、たまらず男は用意したガスマスクをつけた。


「あなた……」


「君もつけた方がいい」


 パートナーである女性にもガスマスクを渡すと、二人は地獄へと踏み入れる。


 ブーツ越しに割れたガラスの音がザクザクと響き渡る。ペンライトだけの心もとない明かりではあるが、それでもここを照らすには十分だ。


 日の光が届かない場所ではあるが、日の光を浴びてもいいような場所ではないのだから。


 無機質なテーブルと、ガラスの柱、そして足元に落ちているフラスコやビーカー、試験管の破片が飛び散っている。


 地獄と呼ぶにはいささか人工物に溢れすぎてはいるが、地獄という概念もまた、人が作った概念であるならば、ここを地獄と呼んでも間違いではあるまい。


「ひどいわね」


 パートナーがそんなことを口にしたが、そう言いたくなる気持ちはわかる。ガラスの柱のような水槽の中には、奇怪な生物らしき姿があった。


 人間の胎児のような形をし、培養液と思わしき液体の中に浮かんでいる。


 ホルマリン漬けの死体を連想させるほどにおぞましいが、一番おぞましいのは、この生物とも言えない物体を作り出した存在だろう。


 すでに、機能を停止した中で生きていられるはずもなく、生物としての終わりを迎え、生きているという言葉をも理解する前に物言わぬ死体となり果てている。


 生命を冒涜し、蹂躙している者でなければできない行為だ。


 気づけば、いくつもの培養液が入った大型の水槽の中に、同じような奇怪な物体になり果てた生物の姿があった。


「試験体か」


 ふとそう呟いたのは、この水槽にそんな文章が書かれていたからだが、果たして何のための試験体だったのかが気になったからだ。


 命を作り出そうとする目的のために作られ、生きているとは言えないような姿で生かされているだけの存在。


 見慣れてきたと言うほど達観する気持ちにはなれないが、むごいと声に出していうほどではない。


 だが、彼らは何のために生まれてきたのかと問いかけたい気持ちはあった。


 全ての水槽の中にある試験体、無機質な管理番号で名付けられ、日の光を浴びぬままに生きて死んでいく。


 そんなことを考えながら周囲を見渡すと、ペンライトだけの光の中で、うっすらと光が漏れている壁があった。


 隠し扉になっているのか、その壁の近くにある取っ手を掴む。あまりにも手応えがなく、力を込めて開けたためか扉は勢いよく開いた。


 派手な音と共に開いた先には、他の試験体とは明らかに違う水槽が一つ。


「きれい」


 パートナーの言葉に男もうなづいてみせた。


 失敗作として放置された試験体とは違う、白く透き通るような肌をし、眠ったままの胎児があったのだから。

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