第5話 伊東巳代治の遺産

 その日、大久保利通の孫である大久保利謙おおくぼ としあきは珍しい客と会った。

 

 明治憲法を作った一人・伊東巳代治いとう みよじの孫・伊東治正いとう はるまさ伯爵である。


「やあ、いらっしゃい」


 利謙と一緒にいた尾佐竹猛おさたけ たけきが明るく治正を迎える。

 鈴木安蔵すずき やすぞうも知り合いらしい態度をしていた。


 貴族院史編纂の仕事をしていた三人は仕事の手を止め、治正はその席で利謙に『憲法研究会』に入ってくれないかと依頼した。


 しかし、利謙はそれを辞退した。


「すみません。私は近世史が専門で、畑違いですので……」

 

 治正はそれでも是非と依頼し、考えておいて欲しいと伝えて帰っていった。


 貴族院史編纂の仕事を再開し、その帰り、利謙の師である尾佐竹は『憲法研究会』への入会へを勧めた。


「せっかくだから君もどうだ。伊東巳代治文書という貴重な史料も、会の運営資金も全部を伊東伯爵家が出してくれる。悪い話ではないと思うが」

「資料も資金も全部ですか。すごいですね、伊東伯爵家は」


 理財の才があった伊東巳代治は莫大な資産を残した。


 その資産は息子である太郎に受け継がれたのだが、太郎は巳代治の死後、数年もしない内に亡くなってしまい、まだ二十代の治正が伯爵家もその資産も受け継いだのだ。


 そして、治正はその資産を憲法史研究に使うことにした。


 研究となると何年も継続してお金が出ることになる。

 その一切を伊東伯爵家のお金でまかなうというのだ。


「鈴木君が持ち掛けたのだとは思うが、なかなかにあの若き伯爵は挑戦的なことをする。面白いと思わないかね」

「そうですね。随分と思い切ったことを……」


 『憲法研究会』の発足の話が出たのは昭和16年。

 日本の雰囲気が大きく右傾化していた頃である。


 大日本帝国憲法、教育勅語、軍人勅諭。


 それらを「研究」するなどということは、学術的な事業といえど、許されるものではなかった。


 伊藤博文の史料や、金子堅太郎の談話などはあったが、憲法の成立過程を研究し、批判や検討をするなど、あってはならないことだった。


 関係資料についてはタブー扱いである上に、こういう史料は現代と違い、そうそう開示してもらえるものではない。

 人づてに頼んで頼んでちょっと見せてもらえるものだ。


 しかし、この会では伊東巳代治や大日本帝国憲法の成り立ちに関する全資料を参加する学者たちに提供するということだった。


 二十五歳の若き伯爵・伊東治正の行動は、かなり開明的で挑戦的なものだった。


 治正にそれを持ちかけた可能性の高い鈴木は、マルクス主義的な考えを持っているので、何かしらの意図があるのかもしれない。


 だが、大日本帝国憲法の制定過程を研究分析できるなど、またとない機会である。


 公然とやれば、某所に引っ張られるような研究だが、治正が会長ということになれば、伊東伯爵家の文書整理という名目で集まることも出来る。


 尾佐竹猛はもちろんこの『憲法研究会』の中心メンバーとなって、有名な憲法学者たちを集めることにしていた。


 利謙は悩んだ末、『憲法研究会』に参加した。

 これが利謙と近代史を結び付けた最初だったかもしれない。

 

『憲法研究会』ではさすがに名前がまずいと言うことで、『憲法史研究会』と名前を変え、事務局は伊東伯爵家に置き、研究会の会場は華族会館を使った。


 華族会館は一種の治外法権のようなもので、警察が手出しできない場所だったのだ。

 

 天皇機関説事件の後、表舞台に出なくなった美濃部達吉もこの会に参加して、講演をしていた。


 後に『明治憲法成立史』を書く稲田正次いなだ まさつぐもこの会に参加していた。


 明治憲法の研究資料が現代にも残ったのは『憲法史研究会』のおかげなのである。


 利謙は後にこう語っている。


「それにしても伊東家が投じた費用は大変なものです。会費は取りましたけど、そんなものじゃ追いつかない。伊東伯爵家の財力があったからできたんです」 


 

 

 

 


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