第35話 見なかった話

 文香さんは、その日初めて婚約者の実家を訪れた。


 家族の暖かい歓迎に、緊張していた彼女はほっと胸をなでおろした。


 挨拶を終え、そのうち酒宴が始まったが、文香さんは疲れのせいか、日付が変わらないうちに眠くなってきてしまった。


 それに気づいたお母さんが、彼女を客間に案内してくれた。六畳間で、すでに蒲団が一組敷いてある。南側に小さな窓があって、障子が閉まっていた。お母さんはその窓を見ながら、


「もしかしたら、寝てる間にここから声がするかもしれないけど、見ないでね。絶対よ」


 と言った。表情は優しいが、有無を言わせない雰囲気がある。彼女も少し酔いが覚め、改まって「はい」と答えた。


 気になったものの、疲れには勝てない。お風呂に入ると、文香さんはすぐに眠ってしまった。




 文香さんはふと目を覚ました。まだ部屋の中は暗い。もう一度寝ようと目を閉じた時、障子の方から、


「ふミかさぁン」


 というしゃがれ声がした。


 お母さんではない。まるで言葉を知らない生き物が、音だけ真似しているようだった。


(見ないでね。絶対よ)


 文香さんは寝たふりをした。


 しかし、呼ぶ声は止まなかった。がりがりという音もする。耳をふさいでいるうち、彼女はいつの間にか眠ってしまった。


 次に目が覚めると、外が明るくなっていた。もう何も聞こえない。迷った末、恐る恐る障子を開けてみた。


 ガラス窓には爪でひっかいたような縦に長い傷が、何本もついていた。




「怖かったけど、見なかったから大丈夫」


 文香さんはそう思っている。


 彼女はくだんの婚約者と結婚し、今は彼の実家で暮らしている。

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