クトゥルー神話の成立

 前回はクトゥルー神話の定義を書きましたが、今回は「クトゥルー神話の成立」についてです。

 成立の過程と定義との関係みたいなことも考えたいと思います。


 クトゥルー神話は《細部のクロスオーバー》からはじまった、と言えると思います。

 物語におけるクロスオーバーというのは、スーパーマンとバットマンの共演のように、有名なキャラクター同士の共演を指します。

 ラヴクラフトが行ったのは、自分の小説でC・A・スミスの創造したツァトゥグアの名を使うといったことで、これもクロスオーバーの一種ということはできると思いますが、有名キャラクターではなかったわけですね。

 『ウィアード・テイルズ』1931年11月号に発表されたスミスの「サタムプラ・ゼイロスの物語」に、登場したツァトゥグアが、じつは三か月前の同誌で、すでにラヴクラフトの「闇に囁くもの」で使われていたことにどれだけの読者が気づいたでしょうか。

 とくに気に留めなかった読者も多かったと思われますが、気づいた読者にとっては世界観が広がる、そんな遊びだったのだと思います。


 そのような《細部のクロスオーバー》が複数の作家の間で交わされるうちに、なんとなく一つの神話世界といったものが形成されていくことになりました。それを《シェアドワールド》と呼ぶことはできると思いますが、通常のそれとは違うのは「管理者がいない」ということですね。

 つまり《細部のクロスオーバー》から《管理者のいないシェアドワールド》へ、という形で発展してきたのが《クトゥルー神話》なのです。

 ロバート・ブロックやオーガスト・ダーレスが神話作品を書き始めた時には、もうシェアドワールド(という言葉はなかったにせよ)へ参加するような意識だったのではないかと思います。その後、リン・カーターやブライアン・ラムレイなどが、シェアドワールドを引き継ぐように作品を書いていると言えるでしょう。(一方で、現代の作家でも《細部のクロスオーバー》という形で作品を書くという例もあります。)


 しかし、クトゥルー神話が《管理者のいないシェアドワールド》なのだとすると、問題になるのは「作品間で設定に矛盾が生じたらどうするのか?」ということではないでしょうか。

 もっとも単純な答えは「所詮はフィクションなので気にしなければいい」というもので、じっさいこういった面もあると思います。

 あるいは、ラヴクラフトの文章にも「名状しがたきもの」とか「あり得ない角度」といった描写があるように、〈神話〉というものはもともと科学や論理を超越した世界を描いているので、矛盾はあって当然なのだという考え方もできます。

 とは言え、あまり矛盾が積み重なっていってはシェアドワールドとしての世界観も成り立たなくなってしまうでしょう。

 にもかかわらず、今なお神話作品が書き継がれているということは、神話世界それ自体に矛盾を吸収する仕掛けがあるのではないかとも考えられます。

 私の考えではそれは、「この世界では過去の作品は、《作中作》として存在する」ということだと思います。あるいは「新しい作品が書かれるごとにメタレベルへと繰り上がっていく」と言いかえることもできます。

 といっても何のことだかわかりづらいかもしれませんから、具体的な例を挙げます。

 ダーレスの「ハスターの帰還」の作中で言及されるラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」がその例です。

 他にも羽沢向一『魔海少女ルルイエ・ルル』では登場人物が風見潤の『クトゥルー・オペラ』を読んでいるという場面もあります。

 つまり、新しい作品の登場人物は、過去の作品を《作中作》として自由に利用できるというわけです。だとすれば個々の作品間でいくら矛盾した設定が書かれようと、その中から使えるものだけを選んで使えばいいので問題は生じないわけです。


 このことにはどういう意味があるのでしょうか。「ハスターの帰還」の中で「クトゥルーの呼び声」は『ネクロノミコン』などの魔道書と同列の、神話世界を知るための資料として登場します。元来フィクションであるものが資料になるのは、それが《夢の記録》であるためと言えると思います。じっさいラヴクラフトには夢をそのまま小説にした作品があることが知られています。

 そして「クトゥルーの呼び声」は、夢や妄想と神話世界のあいだの連関を明らかにした作品として重要なのです。


 では、以上を踏まえて《クトゥルー神話の定義》との関連を考えてみたいと思います。

《管理者がいないシェアドワールド》であるクトゥルー神話では、個々の作品は《夢の記録》のようなものであり、《魔道書》と同列の資料として存在している、というのがここまで述べてきたことです。

 《魔道書》や《夢の記録》としてのフィクションは、物語の主人公(TRPGで言うところの〈探索者〉)が神話世界を知る情報源として接することになるものです。そうした情報を得た〈探索者〉の目の前でクトゥルー神話的な怪異が展開されれば「ラヴクラフトの小説は本当だった」とか「『ネクロノミコン』に書かれていたことは本当だった」となるわけです。

 このことを定義らしくまとめたものが前回述べた「魔道書の記述の実現」ということです。

 主人公が〈探索者〉型ではない物語もあり得ますが、その場合でも読者自身が〈読む〉という行為でその物語内の世界を〈探索〉していると言うことは出来るのではないでしょうか。

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