一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(3-4)
後日、アルマンは山向こうの工場で夜勤に出た。
工場の人間はアルマンの事情を知らない。それをずっと心地よく感じていたけれど、今は少しだけ、ここを辞めようかと考えている。心配性な母のことを考えると長い時間離れていることは心苦しかった。家で家族と過ごすか、町で働かせてもらえる場所を探してみようか──そこまで考えて、アルマンは苦笑した。なるほど確かに、自分は結局のところ苦しい道を選んでしまう傾向があるらしい。
夜が明け、アルマンは工場の外に出た。夏の太陽はまだ
そこに、
「アルマちゃん」
一人の男性が、歩くアルマンの隣に駆け足で並びながら声をかけた。欠けた片耳。西部で徴兵され兵士として勤めていた男性で、工場でいつも昼の時間帯に一緒に働いていた。確か名前は──
「……ええと」
「ウィル! ウィル・レヴァノ。なあ、山向こうから来てるんだろ? 俺もそっちなんだ。一緒してもいいか? 作業のことでさあ、ちょいと訊きたいことあんのよ」
そんなの仕事中にすればいいのにと思いながらも、アルマンは頷いて返した。ウィルは
「なあ、ところでさ」
二人が別方向に向かう分かれ道の数十メートル手前で、ウィルは軽い調子で切り出した。
「いつも昼とか午後の早くとか変な時間で帰っちまうけどさ、なんかあるのか?」
あまり重要な風ではなかった。本当に、なんとなく訊いたのだろう。
ただアルマンにとってその理由を噓偽りなく答えることは、非常に言葉に詰まるものだった。故に足を止め、彼がこちらに注意を向けるのを待った。ウィルは急に立ち止まったアルマンを見て、不思議そうに片眉を上げた。
「……どうした?」
「……誰もいない時間帯に、更衣室を使いたかったの」
ウィルは目を泳がせ、それから気まずそうに後頭部を搔いた。おそらく、体になにか傷跡があるとか、そんな風に受け取ったのだろう。以前ならばそう思われることは好都合だと感じた。けれど今は、胸に枯葉を詰められたような罪悪感が募るだけ。
「それは……」
「男なんだ。女の恰好をしてる。十三のとき、徴兵を逃れたくて。それからずっと女のフリをしている」
これ以上にないほどに簡潔な回答を述べた。言い切ってから、アルマンは自分の声が震えていたことに気付いた。掠れた言葉尻を舌で転がして、相手の反応を待つ。
ウィル──戦争で耳を削られた彼は、脳内でアルマンの言葉を
「……どうして、そんなことを?」
「……母親と妹を、戦争に行ってではなく……家の中で、直ぐ傍で、守りたかった」
緑葉が濃い臭いと木漏れ日を撒き散らしながらざわざわと揺れた。
どれだけ非難されてもいい。明日にはこの話が工場の人間全員に知れ渡り、また一つ居場所を失うかもしれない。けれどこれが自分の本当だ。見失ってしまっていた、選んだ道。
ウィルは目を見開き、歯を嚙み締めるとアルマンに向かって一歩大きく踏み出した。そして、細い肩に摑みかかる。殴られる、そう思い反射的に顔を背けたとき、
「──その手があったか!!」
まるで研究者が生涯に一度の
「ははあ~~なるほどねぇ! いやよく思いついたな、
パチーンと指を鳴らし合点したと言いた気に深く頷くウィル。アルマンは面食らってしまって、肩を揺らされながら目を丸くした。
「あ? どうした?」
「……いや……普通、怒るものでしょう」
「なんで? 俺と君の人生、関係ねえし。家族を守りたかったってのもわかる。戦争に行こうが、家にいようが、どっちも苦しくて
なんともないように言ってからしきりに感心したように「盲点だった」「いや、でも俺が同じことしたらすぐバレるな」と頷き続けるウィル。アルマンは、ぎゅうと唇を嚙み締めた。与えられた肯定に、兄が生きて帰ってきたら、きっとこんな風に「なるほど、その手があったな」と笑ってくれただろうと思った。
──兄さん。
──母さんは体調を崩しがちだけど。妹はまだ小さいけれど。
──私もまだ、苦しいことは多いけど。
けれど──こうして気持ちをわかってくれる人を、一人見付けた。
それはなんてささやかで、しかし震えるような幸福だろう。
──生きていこう。生きなければ。
──寂しくても、辛くても。
──自分が選択したことを後悔しても、苦痛に思っても、誇りを持たなければ。
──そうすることだけが、歩んだ道に報いる方法なのだから。
これから先、苦痛と後悔に全ての時間を費やされようとも、与えられるぬくもりだけは手放さない。守り続けてみせる。この決意だけは真実だと、彼女は確信出来た。
けれど、思うのは。亡くなってしまった彼のこと。
妹や母──守るべき人たちの中に、兄もいてくれれば。
兄が、帰ってきてくれたら──アルマンは、木漏れ日が散る視界を閉じ、心の中でそう呟いた。
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