一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(3-1)



   3



 夜を迎え、硬いベッドに入る。目を閉じれば疲れ切った体は直ぐにかんし休息を受け入れた。

 二年前に終戦してからだろうか。この頃、アルマは毎晩悪夢を見る。

 夢の中で、兄が帰ってくるのだ。扉を開けた先に血と泥を被った兄が立っていて、アルマを見下す。体中の肉が裂け、えぐれ、あるいは砕け、傷口にはえの卵を産み付けられたその姿。漂う死臭に夢だとわかっているはずなのに、心が現実だと認識してしまう。


「なんだ、そのみっともない恰好は」


 兄の口から落とされた言葉に、まるで氷柱つららで喉を裂かれたような恐怖がアルマを襲った。兄はアルマの肩を摑むと、指を食い込ませて、真っ赤になった目を破けそうなほどに見開いた。


「俺が──俺が戦争に行っている間!!! お前は何をしていた!?」


 見ろ、この指を! と兄がアルマの眼前に欠損した手を突き付けた。その拍子に卵が撒き散らされて、二人の足元に乳白色の粒がぼとぼとと落ちていく。


「こんな、こんな指じゃあ、もう医者にはなれない……! わかっていた。でもお国のためにと耐えて耐えて耐えて、俺は立派に成し遂げた、名誉の死を! だのにお前は──お前は!」


 兄は泣いていた。夢だからだろう、アルマには、それが絶望の涙だとわかった。やがて兄の顔はうじに埋め尽くされ、その姿は砂の城が崩れるように消えていった。

 残ったのは、耳障りな羽音を立てる蠅と乳白色の卵が散乱した玄関。

 いつもなら、そこで夢が終わった。目覚めてまた一日が始まる。だが──今回は、目が覚めなかった。不思議に思っていると、足元の卵が一斉にし、蛆が蠅に育ち飛び立った。家の外ではない、中へ──


「……!!」


 家。父が残した、かび臭い小さな家。きしきしと鳴る床、洗い物の溜まったシンク、枯れそうな観葉植物。それらが飾られた室内へ蠅たちを追って視線を転じさせると、ベランダから入った日の光を背に一緒に洗濯物を取り込んでいる母と妹の姿が見えた。


 ──だめ。

 ──二人だけは!

「止めて!!」


 叫んで駆け出した。振り乱した髪の先で笑う二人がこちらに視線を向けたと思った瞬間、夢は終わりを迎えた。



 目覚めた場所は、ベッドではなく、テーブルの上だった。顔を上げると手には糸のつながった針と丸いしゆうわくが取り付けられた布。どうやら、内職中にうたた寝していたようだった。

 は、と息を吐いて、椅子の背凭れに寄りかかる。悪夢の内容は毎度変わらなかったが、今日のは特に酷かった。母と妹が出てきたことなんて、初めてのことだったのだ。二人だけは。二人だけは、はずなのに。


「……」


 母の言う通り──父の遺産を考えれば、仕事なんてこの内職だけでいい。当分はこれで食いつなげる。けれど、町の住民から時折与えられる暴力に対するうその理由がほしかった。山向こうの町で行う決して安全ではないプレス工場での仕事は、そういった点で実に役立った。たとえ体力のほとんどを費やされ、ときに頭が痛み足元がおぼつかなくなっても。

 刺繡はツイタチソウの半分を描いてテーブルに放置されたままだったようだ。続きをしようとしたところで、妹が遊びにやってきた。手に毛布を持っている。


「なにしに来たのかな、可愛いお嬢さん」アルマがからかうように言うと、妹は「おねえちゃん寝てたでしょ」と言ってアルマの膝に毛布を置いた。

「……毛布持ってきてくれたの?」

「だって寝るときは毛布がいるでしょ?」

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。もうたくさん寝たから」


「ふうん」妹は納得しているようなしていないような態度で鼻を鳴らした。それからアルマの膝の上によじ登り、よいしょと腰を下ろし、手元をじっと見詰めた。妹ももう八歳近くなるから中々重い上視界がかなり妨げられるが、アルマはそれを許し、刺繡を再開した。


「おねえちゃん」


 妹が顔を前に向けたままアルマに呼びかける。


「ん?」

「おにいちゃん死んじゃったの?」


 針の動きが止まった。アルマは注意深く呼吸を重ね、「どうして?」と訊いた。


「おかあさんが泣くときって、誰か死んじゃうときでしょ。おにいちゃん死んじゃったの? だからまた兵隊さんが来たの?」

「……うん。父さんのときと、同じ。死んじゃったときに持ってた持ち物を、届けに来たの」


 乾いた舌でなんとか音を出した。「ふーん」と、また不明瞭な返事。

 妹は兄に会ったことがない。彼女が生まれる前に、兄が徴兵されたためだ。

 油が撒かれた床に火の付いたマッチ棒を落とせば瞬く間に炎が広がるだろうが、そうでなければ小さな焦げ跡がつくだけで火種は消える。同じように、悲しみ苦しむほどの思い出がないのなら、手の平で覆うほどの涙は出ない。妹の感情は筋が通っている。

 では、自分は。確かに遊んでもらった記憶は少ない。兄に対して抱いている感情は良いものばかりではないけれど、それでもなにかしらの情はあったはずだ。それなのに──。


 ──あの手紙を読めば、なにか変わることはあるのだろうか。


 妹を膝に乗せたままで椅子に座りそうやって窓の外を眺めて悩んでいると、妹が「おねえちゃん続きチクチクしないの?」と布と針を危なっかしく持って問いかけた。それをするりと取り上げ、「やるよ」と上から顔を覗き込む。妹は、アルマが刺繡をする姿を見るのが好きだった。

「おねえちゃん、れいだけど、縫うのは遅いのね」最近ますます達者な口を利くようになった彼女はアルマと母とを比べてそんなことを言った。


「私、指が長いんだもん」

「貸して!」

「だめ、危ないから。刺繡は八つになってから。もうちょっと待ちな」


 むくれた妹は膝から下りて台所の方へ行ってしまった。その内戻ってくるだろう。アルマは視線を下に落とし、どうすれば兄の遺品を受け取れるか──『弟』の代役を立てるか、あるいは──考えながら、ツイタチソウを黄色の糸で縫っていった。

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