第28話 転換点

 主のいなくなったスイートルームを見渡すと、そのただただ広く、高級な調度でしつらえられた空間が、途端に空虚なものに思えてしまう。

 この部屋に滞在している間は家事仕事をする必要はないことはわかっているけれど、使用人の娘として生まれ育てられた性分がそれを許さず、手持ち無沙汰になると下腹部の違和感にヴィクター様のことばかり想ってしまう。


 半ば上の空のままベッドの上の乱れたシーツと着替を終えた衣類を片付けた後、キッチンに立って紅茶を淹れ、朝食にとっておいたスコーンをかじってカップに口をつける。


「はぁ…… 私は――」


 ――どうしてしまったのだろう?

 琥珀色の液体に映る自分の顔を見て溜息とともに思わず漏らしてしまった独り言に、とっさに口をつぐみ首を振る。


 何かする事を探さなくては。


 空虚な室内を見回して自分の鞄に目をやると、ブリジットから下着の注文を受けていたことを思い出す。普段ならサラ奥様に積極的に会いに行きたいとは思わないけれど、少なくともこの部屋に閉じこもってヴィクター様のことばかり想うよりは、あの人の気まぐれなわがままや皮肉交じりのジョークに付き合う方が、いくらか心が休まるかもしれない。


 身だしなみを整え、荷物をまとめた鞄を持って飛び出すようにホテルを出て、泥と獣と石炭の燃える匂いの混じる空気を吸う。大通りには様々な種類の馬車が渋滞をなし、雑踏には肌の白い人黒い人黄色い人が身なりも様々に交じり合って喧騒を奏でる。

 ここは十九世紀の世界の覇者、大英帝国ヴィクトリア朝が誇る世界最大の都市、帝都ロンドンだ。

 見上げれば石造りの建物に切り取られた四角い空が真っ青に抜ける。あと十数年もすれば、この青空も真っ黒なスモッグの天蓋に覆われるのだろう。

 人混みを掻き分けるように石畳の通りを歩いて十数分、ブティックや劇場やホテルが立ち並ぶ高級商業地区に入ると、ひときわ豪華に装飾された馬車が列を作り、人混みの中にきらびやかな衣装を身にまとった男女が目立ち始める。

 その通りの一角、一つの建物の前に立つ見慣れた執事に目を留める。サマーホリデーを目前に繁忙期を迎えたサラ・エドワーズのブティックで接客を務めることになった父のダニエル・ミラーだ。目配りの利く父もすぐにこちらに気づき、笑顔で迎えてくれる。


「お父様、おはようございます」

「おはよう、ルーシー。ここに来るとは珍しいね。奥様に用事かい?」

「はい、アシュベリー夫人から注文を賜りましたのでお届けに参りました。サラ奥様はお忙しいご様子ですか?」

「ああ、それはもう。彼女の愚痴を聞かされる身にもなって欲しいものだよ!」

「ふふ、それはご愁傷さまです」

「今はちょうどサロンを開く前でハンス君とご婦人が来られているだけだから、ご機嫌もいいと思うよ。さぁ、どうぞお入り」

「はい、ご苦労様です」


 取り上げるように私の鞄を持った父が扉を開き、ブティックに足を踏み入れると、華やかなバラの香りが漂い、カタカタと軽快に足踏みミシンを漕ぐ小気味の良い音がかすかに聞こえる。


 サラ奥様らしい慎ましくも華やかな草花の装飾で統一された瀟洒な内装のサロンには、小柄ながら目を引く存在感を漂わせる見慣れぬ黒いドレスを身にまとった銀髪の貴婦人サラ奥様が、落ち着いた淡いブラウンのドレスを着た金髪の貴婦人エリザベス・シモンズと穏やかに談話し、その傍らにはハンス氏がソファに座って糸のように細い眼を少し開いて新聞を読んでいる。


「いらっしゃいませ。ハンスさん、エリザベス奥様。サラ奥様も、おはようございます」

「ああ、おはようさんです。昨日はおおきにしてもらいまして、早速夫婦でお邪魔しとります」

「ルーシーさん、お久しぶりです! お元気にされていましたか? 姉がわがままを言って困らせてはいませんか?」

「リズ、それはどういう意味かな?」


 姉のサラ奥様とは正反対の、育ちの良さを感じさせる愛想の良いおおらかな調子で仰る妹のリズ奥様の冗談に、サラ奥様も愉し気に応える。


「私の方は相変わらず元気にしております。サラ奥様には良くしていただいておりますよ。エリザベス奥様もご機嫌麗しいようで何よりです」

「そうか、それは惜しいことをした。もう少しわがままを言って困らせれておけば良かったな」

「サラ奥様、ご冗談が過ぎます」

「そうですよ。姉様は折角貴族の家に嫁がれたのですから、もっと貴族夫人らしくなさってください!」

「その話はもう方々で聞き飽きたよ。金色のお姫様。まぁ、それもこの夏までだ。フィルが爵位を賜れば、私は晴れて自由の身となれる」

「お嬢とまた一緒に商売ができると思うと嬉しゅうて涙が出る思いですわ」

「あなた、私の姉様になんて言葉遣いをなさるのですか!」


 ぷぅと頬を膨らませてたしなめるリズ奥様をよそに、二人はマイペースにビジネスの話を始める。


「また一緒に、ですか?」

「ああ、よう聞いてくださいました。ルーシーさん! 今年のサマーホリデーを明けて、お嬢をバーネット商会の経営陣に迎え入れようと思うとるんですわ。今その話をしとったところです」

「奥様が…… バーネット商会に戻られるのですか?」

「ああ、そうだ。意外に思うか?」

「正直に申し上げますとそのように。詳しくは存じ上げませんが、バーネット家とは確執があると伺っておりましたので」

「過去の話だ。父は経営を追われ、バーネット家は没落し、そしてリズはここに居る。そんなことよりも未来のことを思うべきだろう」


 サラ奥様はそう仰りながら、ちらりとハンス氏の方へ視線を遣ると、ハンス氏はをれに応えるように新聞を置いて天井を指さすように人差し指を立てる。


「あー、近く合衆国で大規模な内戦が起こり、おそらく奴隷制が廃止されることになります。そないなりましたら次の百年の世界の覇権は合衆国が握ることになるでしょう。大英帝国をはじめとする欧州列強は富と覇権を求めて世界中に災いの火種をばら撒き過ぎました。インドが反乱を起こしたように、遠くない将来にその大きな代償を払わされることになりましょう。アーサー卿が生前に仰っていた通りですわ」


 ハンス氏は独特のイントネーションで流暢に語り、私の反応を見るように目を開く。

 確かに、世界情勢はアーサー卿が予言されていたとおり、私の知る歴史の年表とぴったり合致して進んでいる。ハンス氏はその時流に乗って事業を拡大する考えなのだろう。


「合衆国には莫大な生産力と需要、自由と豊かさを求める情熱に溢れてます。奴隷制が廃止されましたらそれはさらに加速するでしょう。バーネット商会が取扱う繊維製品の価格はインドと合衆国の両方のプランテーションから安価な木綿の大量供給を受けて今も下がり続けとりますが、今後の世界情勢を受けて調達も価格も不安定になり、それが落ち着く頃には供給過剰になって更に大暴落するものと見とります。それに対して衣服というのは人の数だけ需要があり、一朝一夕に大量生産できるものでなく設備投資と人材育成、ノウハウの蓄積が必要になりますさかい、そないに価格が下落するもんではありません。これから工業化が更に進めば庶民が豊かになって機能性と装飾性を両立する優れたファッションを求めるようになります」


 いつもの作り笑顔を張り付けたような表情を崩されることなく滔々と述べられるハンス氏に、サラ奥様は薄笑いを浮かべながら冷ややかな視線を送り、リズ奥様は諦め半分のうんざりとした表情でため息を吐かれる。


「つまり、サラ奥様と協力して合衆国で衣料の総合商社を立ち上げられるおつもりなのですね」

「その通りです。いや、話が早くて助かります」


 ハンス氏が息継ぎをするタイミングで口を挟むと、満足気な様子で答えられ、テーブルに乗った紅茶のカップに手を伸ばされる。

 きっと仰りたいことは言い終わったのだろう。


「サラ奥様、アシュベリー夫人から注文を承っております」


 紅茶を啜り再び新聞を広げるハンス氏とその隣に座られるリズ奥様を横目に、鞄から注文書を取り出しブリジット・アシュベリーの名前を確認してサラ奥様に手渡す。


「ああ、君が発案した下着か、あれはかなり良くできている。こちらのサロンでもなかなか好評だぞ。下着の機能性は女を自由にする。ふふ、色々な意味でな。君の下着はバーネット商会の合衆国への進出とともに、これからの世界のスタンダードになるだろう」

「……ありがとうございます」


 歴史はこうして変えられる。

 妖艶に細められるブルー・グレーの瞳にその事実を実感し、背筋に冷たい衝撃が走る。


「ところで、辺境伯閣下とは良い仲になっているそうじゃないか。ハンスから聞いているぞ。詳しく話を聞かせてもらおうか?」

「……クロムウェル閣下とは雇い主と使用人の関係でしかございません。それ以上のことは守秘義務がございますので、お話できることはありせん」


 ハンス氏に抗議の視線を送ると、何食わぬ顔で新聞に視線を落とし、リズ奥様は屈託なく微笑を返される。


「そうか、上手くいっているようで何よりだ。エドワーズ家の将来も安泰だな」

「それでは、用事が済みましたので、これにて失礼いたします」


 これ以上ここにいても碌なことにはならない。

 いつもより深くお辞儀をして返事を待たずに踵を返した。

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