第5話 舞踏会

 サラ奥様が客室に戻り、舞踏会のためのドレスへと着替えられる。艶やかな黒の生地に黒い糸で草花の刺繍が施された旗袍にフィル様と揃いのデザインのアクセサリー。このようなドレスで舞踏会に出入りできるのは、パリで成功を収められ、上流階級に顧客の多いサラ奥様ならではだ。

 準備を終えてレストランで夕食を取り、ボールルームのあるフロアへ降りると、豪華に着飾った紳士淑女達が廊下に列を作っている。フィル様は「わぁ」と目を輝かせ、サラ奥様はうんざりしたような薄笑いを浮かべてその様子を眺め、廊下にできた長い列に並ぶ。

 しばらくして列が進みボールルームへ入ると、高い天井に幾つもの巨大なシャンデリアが幻想的に輝き、きらびやかなドレスと厳格なマナーに様々な思惑を隠した人々が巻き起こす独特の熱気と喧騒に包まれる。


「マダム・サラ! 今日は貴女も来ていらしたのね」


 入場してフロアを見渡し、居場所を探すうちに、熟年のご婦人がサラ奥様を呼び止める。


「ご機嫌麗しゅう。ハーディング伯夫人。今日もお美しくいらっしゃいますわ。そちらのネックレスは私どものものですね。よくお似合いでいらっしゃいます」

「うふふ、本当によく褒められるの。あの気が利かない主人でさえ褒めてくれるんだから、貴女にお願いしてよかったわ。 ……あら? そちらの可愛らしい紳士様は?」


 ご夫人の好奇の目に、フィル様は笑顔を返してサラ奥様の隣に立つ。


「ご機嫌麗しゅうございます。ハーディング伯夫人。エドワーズ家の嫡男で次期当主のフィリップ・エドワーズです。母の仕事を褒めていただきありがとうございます」

「まぁ! ごきげんよう。トーマス・ハーディングの妻のヘイリーよ。本当にお母様にそっくりね。将来が楽しみですわ」

「あはは、それは光栄です」

「それではこれにて、貴女をお見かかけして主人を放ってご挨拶に来たものですから。おほほ、ごめんあそばせ」

「ええ、またブティックにお顔を見せにいらして下さい」


 フィル様はご婦人の背中を見送った後、笑顔でこちらに振り返る。幼い頃から純粋培養に近い環境で育ったフィル様が社交界にうまく適応できるかの不安は杞憂に終わりそうだ。


「ルーシー、僕達も皆様にご挨拶しに行こう。誰から行けばいいかな?」

「そうですね。まずはこの場の皆様のご様子をよく観察して下さい。一番奥の長い列は主催のパーセル伯爵夫妻、あちらの人だかりが主賓のアシュベリー伯爵夫妻です。ご挨拶は主催の方と序列の高い方から、としたいところですが、そういう方はご挨拶の列ができているので、まずはご挨拶しやすそうで序列の高い方からお伺いしましょうか」

「もしかして、全員の名前覚えてるの?」

「全員ではありませんが、有力な方のお名前と爵位や称号は一通り覚えております。この場ではご主人様の序列が一番低くなりますので、行動にはお気をつけくださいね」

「うぅ…… うまくできるかな?」


 私の釘を刺す一言にフィル様は顔をしかめ、それを見たサラ奥様が目を細める。


「なに、大したことはない。普段通りにしていればルーシーがフォローしてくれるさ」

「はい、おまかせ下さい」


 フロアを見渡すと若い紳士が集まる一角、その中心で三十代半ばの身なりの良い紳士が神経質そうに顔をしかめて社交界のマナーをレクチャーしている。


「そうですね、あのサーストン子爵は格下の方の作法に大変厳しいお方で、ご挨拶しておかしないと後から何を言われるかわかりません。まず先にご挨拶を済ませておきましょう」

「ふふ、生まれ持った地位しかすがるもののない男の涙ぐましい処世術だ。あんな小物が何か言ってきても放っておけば良いだろう」

「奥様、おっしゃるとおりですが、それを表に出さずお付き合いすることも社交界には必要なことです」


 わざとらしく声を上げる奥様に、人差し指を唇に当てるジェスチャーをして声を潜める。


「うん、なんとなくわかるよ。行こう。ルーシー」

「はい、ご主人様」

「せいぜい苦労なされよ。未来の男爵殿。では、私は私でお客様にご挨拶してくるよ」

「はい、母様、また後で」


 サーストン子爵の講釈の合間を見計らい、若い紳士たちの合間を縫って、フィル様が果敢にご挨拶に伺う。


「ああ、君があの没落貴族のエドワーズ家の嫡男か。アーサー卿のことはご不幸だったね。 ……おっと、失礼。毎度毎度妙な格好をして現れるご夫人のお陰でなんとか立て直したんだったか。君の方から挨拶に来るとは、お若いが少しは心得があるようだ。しかし、パリで成功を収めたからと言って、そのような格好をして出入りされてはこちらの社交界の格式が疑われる。全く、近頃の若いものと来たら――」


 サーストン子爵からご挨拶ついでのお説教を受けるうちに大時計の鐘が鳴り、司会が祝辞を述べ、主催者と主賓の紹介をした後、カドリールの演奏が始まる。

 主催のパーセル夫妻と主賓のアシュベリー夫妻が組を作って一礼し、軽やかな演奏に乗ってダンスを始めるのに続き、出席者それぞれが組を作ってフロアへ並ぶ。

 その隙を突いてサーストン子爵の説教から逃れてフロアを見渡す。男女ペアの二組で踊るカドリールはデビュタントを迎えるうえでの一つの障害になるところだけれど、人見知りをしないフィル様には関係ないようだ。


「こんばんは。ご機嫌麗しゅうございます。エドワーズ家の嫡男のフィリップ・エドワーズです。よろしければご一緒にカドリールをいかがですか?」

「あ、ああ、よろしく。オットー・ジョンソンだ」

「こんばんは、お美しいお嬢様。ご機嫌麗しゅうございます。エドワーズ家の嫡男のフィリップ・エドワーズです。よろしければご一緒にカドリールをいかがですか?」

「え? ええ…… よろしく、お願いします…… エリナ・シモンズです……」


 私が誘えそうな人を探しているうちに、既に身近に居た気の弱そうな紳士と浮かない顔をしていたご令嬢を誘っている。


「こんばんは。ご機嫌麗しゅうございます。フィリップのお目付役のルーシー・ミラーです。よろしくお願いいたします」

「あはは、この通り、まだ紳士見習いなもので、ご無礼をお詫び致します」


 フィル様の人懐っこい笑顔で場は和み、硬い表情をしていた二人が笑みを浮かべる。四人揃ってフロアに出てカドリールを踊り、二人とお別れして再び挨拶回りに戻る。

 メヌエットが演奏される中、主要な方々へのご挨拶回りをほぼ終える頃に曲が終わり、次の曲目の演奏が始まる。


「ポルカだ! ルーシー、踊ろう!」

「ご主人様、紳士が女性を誘う時はどうなさるのでしたか?」


 ぴょんと飛び上がってこちらを見るフィル様に注意すると、少しはにかんで身体を正面に向け、視線を合わせて手を差し出す


「それでは、お嬢様、僕とポルカを踊っていただけますか?」

「ふふ、はい。よろしくお願いいたします」


 手を取り合ってフロアに躍り出て、くるりと回る。華やかで軽快なポルカのリズムに乗って、合わそうとするまでもなくステップがピタリと一致する。兎のように跳ね、風に舞う花びらのように軽やかに身を翻すフィル様と一緒になってフロアを駆け回ると、ボールルーム中の視線がこちらに集中する。


「ルーシー、回って」


 ポルカが佳境に入り、フィル様の合図に合わせて繋いだ手を頭上に掲げ、フィル様のリードに身を任せてその場でくるくると回転し、曲の終わりと同時にピタリと止まる。

 花が開くように広がったドレスの裾が再びつぼみのように閉じると、フロアから拍手が沸き起こる。


「はぁ、はぁ、楽しかったね、ルーシー」

「ふぅ…… はい、楽しく踊らせていただきました」

「ふふふ、良い宣伝になる。二人とも良くやった」

「私としてはこのように目立つことは避けたいのですが……」


 四方に一礼し、サラ奥様の元に戻って、ポルカを見てご挨拶にこられる人たちの応対をしていると、鈴の鳴るような冷たく透き通った「失礼」の一声とともに人だかりが二つに別れ、久しぶりに出会う見慣れた貴婦人がヒールを鳴らしながら目の前に歩み寄る。


「ルーシーさん、ここは貴女のような方が居て良い場所ではありませんわよ」


 ボリュームのあるブロンドをアップにまとめ、白いレースで装飾された真紅のドレスはデコルテが大きく開かれ、透き通るような白い胸元にはペンダントに付いた大きなルビーが光る。ブリジット・アシュベリー伯爵夫人が、澄んだブルーの瞳を持つ大きな目を細め、普段通りの勝ち気な笑みを浮かべてまっすぐにこちらを睨みつける。

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