ロマンスは移ろいゆく時代とともに

藤屋順一

序章 二人の紳士

第1話 ルーシーとフィリップ・エドワーズ

 窓からは明るい午後の庭からの光が射し込み、古めかしいハードカバーの本が整然と書架に並ぶ書斎を照らす。大人が使う大きな机の椅子にはふんわりとした猫毛の少年が座り、真剣な眼差しで机の上の紙を見つめ、ペンを走らせる。書斎を照らす柔らかな光は少年を包み、特徴的な銀色の髪とブルーグレーの瞳に輝きを与えている。

 その幻想的な風景に心を奪われるうちに、少年がペンを止めてふぅと一息つき、宝石のような瞳を私の方に向ける。


 私、ルーシー・ミラーはエドワーズ男爵家に代々仕える使用人の家系であるミラー家に生まれ、物心ついた頃から侍女としての教育を受ける一方で、私ではない私の記憶を思い出すようになった。幼いころは朧げな夢だったそれは、徐々にはっきりと明確な記憶として思い出すようになり、今では自分の前世なのだと確信している。それはきっと、今よりも遠い未来の異国に生きた私の悲劇の物語なのだろう。


「ルーシー、終わったよ」

「はい、フィル様。見せていただけますか?」

「うん、どうかな?」


 手を差し出すと、エドワーズ家の次期当主フィリップ・エドワーズ様が、先程までペンを走らせていた紙をこちらに渡しながら、少し首を傾げてはにかむ。紙には幾つかの図形が描かれ、文字と数式が流麗な筆致で書き込まれている。

 前世の記憶を辿ると十五歳位で習う内容の数学の問題だ。式と数字を一つ一つ確認すると計算も過程も間違いなく、最期の答えの数字には自信満々の下線が引かれている。

 そして、その下の余白には『愛してるよ。ルーシー』のメッセージ。どこで覚えてくるのかは解らないけど、この天使のような十歳の少年は八つ年上の私に対してあの手この手の可愛らしい悪戯を仕掛けてくる。


「はい、正解です。計算も過程も間違いありませんね」

「やった!」

「でも、一番最後の答えはいただけません」

「むぅ。僕は本気だよ。大きくなって家を継いだらルーシーをお嫁さんにしてあげるって決めてるんだ」

「ふふ、ありがとうございます。ですが、フィル様、良いですか? あなたはいずれ亡きお父上の爵位を継いで男爵となられるお方です。このエドワーズ家の子はフィル様しかいらっしゃらないのですから、その時は良い家柄の貴族の令嬢とご結婚なされるのが、この家にとっても、領民にとっても、一番幸せなことなのですよ」

「それは、ルーシーにとっても?」


 フィル様は言い終わるのを待たず、心を読むかのように私の瞳を覗き込んで問いかけてくる。本当に天使のように美しく、悪魔のように賢い子だ。


「……はい、私にとっても、です」

「ふぅん」


 心中を悟られないようにそのブルーグレーの瞳をじっと見つめ返して応えると、フィル様は不満げに目を細められる。


「さて、次は歴史のお勉強ですよ」

「え〜 まだ勉強するの? こんなに天気が良いんだし、お外で遊ぼうよ」


 訝しげに見つめるフィル様を無視するように書架から国史の本を取り出すと、フィル様は更に不満を漏らし、頬をぷうと膨らませる。


「魅力的な提案ですが、そうは行きません。アーサー卿のためにもフィル様には立派な紳士になっていただかなくてはいけませんから」

「父様のため?」

「はい、『私達の子を頼む』と遺言で。アーサー卿はなくなる直前まで、その時はまだ奥様のお腹の中にいたフィル様のことを心配しておられました」

「そっか…… 父様のこと、もっと聞かせてくれる?」

「そうですね。私といたしましても、フィル様にはお父上がどんな方だったか知っていただきたいと思います」


 フィル様は椅子に座り直し、姿勢を正すとまっすぐに私の瞳を見つめる。


「さて、どこからお話しましょうか――」


 フィル様のお父上、アーサー・エドワーズ男爵は穏やかで頭の良いお方ではあられたが、大層なお人好しで、領民への税を軽く、施しを厚くするうちに殆どの財を失い、ご両親から受け継いだわずかばかりの領地も親族に移譲することになり、最後には田園広がる郊外に建つ邸宅と住み込みで仕えていた私達家族だけしか残らなかった。

 不幸はそれだけにとどまらず、元々身体の弱かったアーサー卿も床に伏せりがちになり、私の両親は使用人として働く一方で屋敷の庭の一部を畑とし、母は縫い子として街のテーラーで働きエドワーズ家の家計を支える始末ではあったが、それでも私たちはアーサー卿の人柄と代々男爵に仕える家系の誇りもあり、そんな生活に幸せを感じながら慎ましく暮らしていた。

 アーサー卿は私を娘のように可愛がり、特別な記憶を持っていることも見抜かれ卿自らが私の教育に力を注いでくださった。ブロンドの癖っ毛、青い瞳に優しい眼差し、通った鼻筋に痩せた頬、穏やかな笑顔がよく似合う。私のご主人様で、恩師で、多分、初恋の人……

 目の前で目を輝かせながら私の話に聞き入る少年は疑いようもなく、そんなお父上と少々風変わりな奥様の血を色濃く受け継いでいる。


「フィル様は、本当にアーサー卿によく似ていらっしゃいます。まるで生き写しのように、大きくなられるごとにそう感じます」

「ほんとに!? 僕もお父様のように立派な人になれるかな?」

「それはもちろん。私が保証いたします」

「ルーシー」

「はい、なんですか?」

「大好きだよ」

「ふふふ、はい、私もフィル様のことが大好きです」


 真剣な顔で聞くフィル様に笑顔で答えると、天使のように頬を薔薇色に染めて満面の笑みを浮かべ、それから訴えるようにじっと私の目を見つめられる。


「ねぇ、ルーシー。やっぱり、パブリックスクールに行かなきゃダメかな?」

「はい。フィル様にはこの家では学べない貴族としての教養や経験が必要です。エドワーズ家は、少し、家庭的になり過ぎました」


 私が毅然として言う言葉に、フィル様は表情を曇らせる。


「この家はこのままで良い。勉強やお作法はルーシーが教えてくれるし、母様もこの家が気に入ってる。学校に行く必要なんてどこにもないよ」

「エドワーズ家がどうあるべきかは、フィル様が貴族の世界を学んで爵位をついでから決めるべきことです。それに、スクールに入られることは奥様の意向でもあります」

「スクールに入ったら、三年もルーシーに会えなくなる。そんなの嫌だよ」

「今のフィル様は多くのことを学び、経験し、成長しなければいけない貴重な時間をお過ごしです。それを私のような者のために犠牲にすることは許されません」

「僕はルーシーも、おじさんもおばさんも、ただの使用人だなんて思ってない」

「……はい、わかっております。それでも、私達をただの使用人として扱わなければいけないこともあります」

「そんなことできないよ! だって僕はルーシーを――」


 大きな瞳から涙をこぼして訴えるフィル様を見て、私も涙をこらえていた。フィル様に涙を見せることは許されない。これ以上の言葉を言わせないように頬を濡らすフィル様を抱きしめ、その顔を胸に埋める。


「お別れするのが辛い気持ちは、私も一緒です。どうか、お聞き分け下さい」


 胸の中で嗚咽を漏らすフィル様の頭を抱き、柔らかい銀髪に指を通して撫でると、ドレスの胸のあたりに熱い涙が滲みて心臓が締め付けられる。私自身も悲しみに耐えながら、そのままじっと嗚咽が止むのを待つ。


「奥様はフィル様をスクールに入れた後、海を渡ってパリで仕事をされるそうです」

「母様がパリへ? なんで?」

「こちらに来られて、古いものに慣れすぎてしまったと仰っていました。パリは花の都と称される世界の文化の中心地。世界中で生み出される最新の美が集められ、今日美しかったものも明日には古いものに変わる。つまり、奥様は今のままで満足されるつもりはないということです」

「ルーシーは、反対しなかったの? 母様はこの家の当主だよ」

「私には奥様のお気持ちがよくわかりますから」

「僕には、全然わかんないよ」


 フィル様が私の胸に顔を埋めたまま呟く。


「実は私も、フィル様がいらっしゃらない間、この家を離れることにしました。今、カレッジに紹介してもらって他の貴族のお嬢様の家庭教師兼侍女として働けるように手続きしています」

「えっ!? ルーシーまで、この家を出ていっちゃうの?」


 がばっと顔を上げて、泣き腫らした目でじっと私の目を見つめる。


「奥様も私も、フィル様の為、エドワーズ家の為、そして自分の為に、未来への一歩を踏み出そうとしています。どうか、フィル様も勇気をもって一歩を踏み出してください」

「……わかった」

「もちろん、フィル様が戻ってこられたときには、必ずフィル様のお側にお付きしますから、ご安心下さい」

「絶対、約束だよ」

「私がフィル様との約束を破ったことがありますか?」

「ない。けど……」

「それでは……」


 目の端に涙を溜めて不安げに目を伏せるフィル様が堪らなく愛おしく、その目尻にそっとキスをする。


「わっ!? ルーシー!?」

「お約束のキスです。奥様には内緒ですよ」


 それから数ヶ月後、フィル様は目を潤ませながらパブリックスクールへ向かう馬車に乗られ、サラ奥様は大量の荷物とともに海峡を渡る船に乗られ、私は両親に別れを告げ、侍女兼家庭教師としてカレッジに紹介されたご令嬢がお住いのメリル子爵家の邸宅へと向かった。

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