第40話 長谷岡夫妻

「お邪魔します」



長谷岡ハセオカ氏は初老の礼儀正しい紳士といった印象だった。

ほどなくして私の母親と長谷岡ハセオカ夫人が居間から顔を出した。

夫人は長谷岡ハセオカ氏の顔を見るなり、



「あんた!今さらなにしにきたのよ!」



と、なじった。




長谷岡ハセオカと申します、うちの家内がご迷惑おかけしてます」



長谷岡ハセオカ氏は夫人の罵倒に動じず、深々とお辞儀をした。



「なによ、こんなときだけノコノコと!」



長谷岡ハセオカ夫人は駆け寄り、長谷岡ハセオカ氏を小突いた。





「さ、帰るぞ、こちらさんに迷惑だろう」



そんなことされても相変わらず長谷岡ハセオカ氏は顔色ひとつ変えなかった。



「なによ、外面ばっか良くしちゃってさ、あなたって人は私が困ってもちっとも向き合ってくれなかったじゃないのよ!!」



夫人がそう言うと、長谷岡ハセオカ氏はため息をついた。



「現役時代は仕事仕事で家庭をかえりみることができなかったのは、悪かったと思ってるよ」



玄関先で言い合いにでもなるのかと不安に感じていたら、母親が口を挟んだ。



「あの…、ここで話すのもなんですから、どうぞ上がってください」



「いえ、ご迷惑おかしてしまうと思うので」



長谷岡ハセオカ氏は断ったが、途端に夫人がヒステリーを起こしはじめた。



「なにが迷惑なものですか!こちらは大事な一人息子がいなくなったばかりなのよっ!」



最初のひとことは聞き取れたのだが、その後に続いたセリフはわめき散らしながらだったため、よく聞き取れなかった。

それこそ、「キーッ」という擬態音のようにしか聴こえなかった。



「よさないか、人様の玄関先で」



長谷岡ハセオカ氏がなだめるも、夫人は落ち着く様子がなかった。



——いっそ義文ヨシフミ氏が海外へ逃避行すること話したほうがいいのかな?——-



という考えが頭をかすめた。

いいや、そんなこと言った日にゃ、長谷岡ハセオカ夫人はさらにパニくるかもしれない…。

私は言葉を飲み込んだ。



「おばさま…ごめんなさい、私よっちゃんが心に決めた人いるの知らなくって…」



陽子ヨウコちゃんが一番立場がないんだろうな、私にと思って紹介した人は彼女持ちでまさかの駆け落ち、そしてご近所さんである長谷岡ハセオカ夫人には期待を持たせてしまっていたり…。

でも、そもそもが長谷岡ハセオカ夫人が反対なんてしなければこんなことにはならなかったのに、それをわかっていないようだった。


陽子ヨウコちゃんが謝っても夫人は反応せず、相変わらずわけのわからないことをごねて長谷岡ハセオカ氏は対応に手こずっていた。



「もう帰ろう、な」



長谷岡ハセオカ氏は頑張って夫人をなだめるも、うだうだとごねて動こうとしない。



「こんなはずじゃなかったのに」



今度は急に泣き出した、こうなるともうお手上げだ。



「奥さん」



ここでうちの父親が声をかけた、こういった面倒なことから逃げそうなタイプに見えたので、私は少し驚いた。



「子供というものは、なかなか我々親の思うとおりにはいかないものですよ」



この言葉に長谷岡ハセオカ夫人がキッと顔をあげる。



「お宅様になにがわかるもんですか!」



「ええ、たしかに各家庭が抱える悩みなんて、他人には理解できるものじゃありませんよ、けどですね、たとえ自分が産み出した子どもでも、人格もちがえば生き方もちがうものなんですよ…まぁ男の私が言うのもなんですけどね」



ここで母親が間髪入れずにフォローし出した、まるで相手に反論させないかのように…。



「そ、そうですよ!我が家は女の子二人ですけどね、上の娘なんて一度も我々親に紹介もしないで勝手に結婚を決めてしまうし、下の娘はご存知のようになかなか嫁にいきませんし…」



私は最後のひとことにグサリときた、事実なのだけど好きこのんで独身でいるわけじゃない。



「なぁ、母さんはいつだって自分の思い通りに事を運ぼうとしてきたよな?」



再び長谷岡ハセオカ氏がなだめはじめる。


「ボクはね、家庭が円満に回るならそれも良しとずっと見守ってきたつもりだったんだよ」



これに対しなにか反論するんじゃないかって予想に反し、夫人はさらにわっと泣き出した。

長谷岡ハセオカ氏は夫人の肩にそっと手を置いて言葉を続けた。



「ボクが仕事仕事で家庭を顧みないでいたら、気づいたらキミは義文ヨシフミ中心の生活になってて…子供のうちはそれで問題なかったかもしれないが、あいつももう気づけばもう四十代、いい大人だ。常識で考えたらとっくの昔に独立していてもおかしくない。いなくなって寂しいだろうが、これからは我々夫婦水入らずですごすしかないだろう、な?」



「なによ、今さら遅いのよ…」



正直こういう話は自宅で話し合ってもらいたい内容だ。

私はまだ未婚だからわからないことだけど、旦那さん側がワーカーホリックになるあまり夫婦仲に亀裂が入ってしまう話をよく耳にする。

結婚を考えている私、もしも夫となった人が仕事が忙しすぎたらどうなるのだろう?

具体的な想像はできないけれど、寂しいような気もした。



「奥さん」



再びうちの母親が長谷岡ハセオカ夫人に声をかけた。



「私たち世代の夫は、だいたい会社に尽くすのが当たり前な仕事人間ばかりでしたよね?企業戦士という言葉もあったくらいですし」



そんな言葉、どこかで聞いたことがあるような気がする、もはや死語?

この母親のセリフがきいたのか、長谷岡ハセオカ夫人がガバと顔をあげた。



「そう、そうなのよ!こっちが困ったことになっても仕事、仕事で…ほとんどなんでも自分一人で解決しなきゃならなかったのよ!」



悩みを抱える人の接し方はとにかく話を聞いて否定しないことだ、ということを思い出す。

それを教えてくれたのは、母親だったかもしれない。

同意を得た長谷岡ハセオカ夫人、少しは落ち着けばよいのだけど…。

次に口を開いたのは、長谷岡ハセオカ氏だった。



「なあ…仕事が忙しかったとはいえ、これまでのことは本当に悪かった。義文ヨシフミが行きそうな所や心当たりありそうな場所、一緒に探そう、な?」



さっきから長谷岡ハセオカ氏の発言が神経逆撫でしているようだったので今度の発言は大丈夫なのかヒヤヒヤしたが、夫人は幸い受け入れたようで長谷岡ハセオカ氏の腕にしがみつき号泣した。



「大切なたった一人の息子だったのよー!!」



長谷岡ハセオカ氏は夫人の背中を優しく撫でながら、



「まだ望みはあるさ、こうしている間にも探したほうが早いよ。君がもう少し落ち着いたらおいとましよう、な?」



長谷岡ハセオカ氏は今度はさっさと帰るよう促すような発言はしなかった。

本音をいえば早くお引き取り願いたかったが、この対応は正解な気がした。

やはり功を奏したようで、夫人は徐々に落ち着いてきて、嗚咽はおさまり静かに涙を流しているだけの状態になった。

その間うちの両親に陽子ヨウコちゃんに私は一言も発しないで彼らを見守っていた。


「行くか?」



囁くような長谷岡ハセオカ氏の問いかけに対し夫人は無言で頷く。



「どうもお騒がせいたしました、この件につきましてはまた日を改めてお詫びさせてください」



長谷岡ハセオカ氏は深々と頭を下げた。

それに対しうちの父親がすかさず



「いえ、お気になさらず」



と、返した、続けて母親も間髪入れずにこう伝えた。



「そうですよ、まずはゆっくり気持ちを落ち着けて息子さん探しをされてみてはいかがでしょう?」



「いやいや、本当にご迷惑おかけしましたので…」



ここで長谷岡ハセオカ夫人が再び声をあげて泣きはじめたのでギョッとした、また埒があかなくなるのでは!?と、不安になる。



「おばさま、もう行きましょう、こうしてる間にもよっちゃん探したほうが早いのではないかなと…」



陽子ヨウコちゃんも咄嗟にフォロー。



「さ、帰ろう」



長谷岡ハセオカ氏は夫人の肩に腕を回す。こうして声をあげて泣きはじめた夫人を長谷岡ハセオカ氏と陽子ヨウコちゃんの二人で、抱えるように我が家を後にした。


彼らが去った後、しばらく私たち親子は呆然とし、その場から動くことができなかった。



——はああ、なんだか疲れちゃったな…——



動き回ったわけでもないのに、心身ともに疲れ果ててしまった。




















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