8話 勝ちヒロインとランチデート2

「……待って!」


 しかし、そんな兎和とわを止めたのは姫乃ひめのの珍しい大声。

「帰らなくていいよ。いてくれていい……わたしは気にしないから、全然」

「え、あかんよ。悪いやん。ねえ?」

 兎和は中腰のままチラリと僕の顔色と窺うが、

「大丈夫、本当に大丈夫だから……わたしは。夏もいいでしょ?」

 姫乃は妙に強い口調で着席を促す。

「まあ、姫乃がそんなに言うなら、いいけど」

 僕が不承不承頷いてしまうほど強く。

「えー、そうなん? なんで? 人見知りやのに。もしかして餌付け成功しちゃった? チョロイわー、姫しゃまの胃袋」

 人見知りとか餌付けとかチョロイとか! いるから、本人目の前に!

でも本当に、姫乃はどうしたんだろう。昼ご飯を食べただけでもびっくりなのに、自分から他人を輪の中に入れようとするなんて。しかも相手はあの兎和だ。むしろ忌避してもいいくらいの存在のはずなのに。

今日の姫乃は機嫌がいいのだろうか? 

いや、逆だな。むしろ姫乃の心のバロメーターは兎和の登場から緩やかに下り始めているように見える。

「じゃあじゃあ、次は何食べる? 女子に褒めてもらったら嬉しいわー。なっちゃん何食べてもうまいって言うからつまらんねん」

「あ、あの、兎和ちゃん……」

「ん、どしたん?」

 姫乃はレモンティーのストローを咥えたまま、おずおずと机の上を指さした。

「その……お弁当って、兎和ちゃんが作ってるの?」

「せやでー。朝ごはんと昼ご飯はうちの担当です。居候やし。気ィ遣ってんねん」

「そう……」

 誇らしげに眼鏡を指で押し上げる兎和、その横で姫乃のレモンティーがパックの中でぶくぶくと音を立てた。

 ああ、やっぱりだ。姫乃は気分を害している。

 レモンティーは姫乃にとって猫のシッポである。全く仕事をしない表情筋に代わってシンプルに感情を表してくれる。レモンティーがぐいぐい減る時、姫乃は喜んでいる。パックの縁を人差し指で擦る時、姫乃は何かに迷っている。そして、レモンティーがブクブクと泡を立てる時は猫がシッポを左右に振る時と同じ、すなわち姫乃はイライラしている。

 多分、弁当だ。姫乃は兎和の作る手作り弁当を気にしていらっしゃる。

 マズったな。確かに、自分の彼氏が他の女の作る料理を毎日のように食べているという状況は面白いものではないだろう。もっと早く気付くべきだった。なんとかしないと。

「あ、あの、でもさ、別に毎日ってわけじゃないよな。俺が作る時もあるし、な?」

 取りあえず、兎和にアイコンタクトを送ってみるが、

「ふざけんな。見たことないわ、なっちゃんがキッチンにいんの。朝昼ずっとうちやんか。なんやったら晩御飯も作る時あるし」

 当然届くはずもない。くそう、いつもは以心伝心なのに、なんで間に姫乃が挟まると兎和はこんなに鈍くなるのか。

「そうなんだ……一日全部、手作りで……ぶくぶくぶく」

 おお、煮立っとる。レモンティーがパックの中で煮立っとるよ。

「うんうん、そうそう。感謝しーや、なっちゃんの体はほぼ全部うちの料理で作られてんねんから」

「……ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく」

 勘弁してください、兎和さん! 

感謝してます、普段の炊事には感謝してますが、破裂しそうなんです。パックが破裂しそうなんです。てゆーか、やっぱり帰ってください。

「あ、そうや。明日、おじさんもおばさんも遅いらしいからうちが晩ご飯作るけど、なっちゃん何か食べたいもんある?」

それ今聞く必要ありますか⁉ 今じゃないと思います! 今ここで一緒に住んでる感を強調するのは絶対に違うと思います!

「と、と、兎和、やっぱもう帰ろう。多分友達も待ってるだろうからさ。な、帰ろう、早急に」

「えー、なんでよ、まだ食べてる途中やんか。てゆーか、なっちゃんこそ早く食べーや、アクアパッツァ」

「兎ー和ー!………無理だから、彼女の前で手作り弁当食べるとか……」

「え? ……あ」

 言えばわかる兎和姉さんは、小声で僕に耳打ちされると即座に顔色を変えた。

「あ、あー! そっかそっか! ち、違うよ、姫しゃま。これは別に愛妻弁当とかじゃないから! 愛……姉弟? そう、愛姉弟弁当やから!」 

 そして素早く傷口を広げにかかる。

「愛……姉弟? ……ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく」

「お、おおおおい、兎和? 何言ってんだよ、ほんとに……ははは」

「あわわわわ、ホンマに違うから。うち料理が好きやから趣味の一環みたいな感じ? なっちゃん一杯食べてくれるから作り甲斐があるって言うか、嬉しいって言うか、食べてる顔が可愛いって言うか……」

「兎和さーん、ちょっと落ち着こうか? いったん深呼吸しとこう」

 どさくさに紛れてなんか出て来てるから。出しちゃいけないものが出て来てるから。

「食べてる顔が……可愛い……」

 あ、止まった。

ぶくぶく止まった。なんで? 怖っ。

「……がじがじがじがじ」

 めっちゃストロー噛みだしたし! 見たことないやつ出て来たぞ。どういう感情なの、これ? 

「じゃあ………うち帰りますー」

 ここでかよっ! 

 こっこっでっかっよっっ!

待って、帰らないで、お姉ちゃん。今はだめだ。事情が変わった。こんな状態で二人にしないで。

「ほ、ほなねー。百三郎だけ置いとくから。仲良く食べるんやよー。ほなねー」

 嘘だろ、マジで帰ったよ。

信じらんねー、かき乱すだけかき乱して本当にお帰りになっちゃった。

「………………」

「………………」

 そしてこの静寂である。

バッキバキに尖った静寂が家庭科室に満ちて行く。すごいな、なんと表現力豊かな沈黙だろう。どうしたらいいんだ、この空気。一回もしたことないのにケンカした後みたいになってんじゃん。

「あ、あの、姫乃……? と、兎和のさっきの発言についてなんだけど……」

「だ、大丈夫……がじかじ……夏のことは……ぶくぶくぶく……信じてるから……がじぶくがじぶくがじぶくがじ……」

「ああ、そう……」

 なら、よかった。大丈夫なのならよかった。なんかがじがじぶくぶく聞こえるけど、大丈夫なんだったらとにかくよかった。

「じゃ、じゃあ、取りあえず、食べようか弁当。昼休み終わっちゃうし」

「そうだね。食べよ。えっと、愛姉弟弁当……だっけ?」

「げぶふっ」

 うん、知ってた。大丈夫じゃないことは知っていた。だって何も解決していないだもの。大丈夫なはずがない。

「や、やっぱやめとくわー。なんかお腹いっぱいだしー」

「うそ……ごめん。こんなこと言うつもりじゃなかったの。食べて」

「いやいやいや。これはもう、いやいやいや」

「食べて、もったいない。本当に美味しかったから。こんなに美味しい玉子焼き初めて食べた」

 兎和はそう言って、蓋の上に残された黄金色の百三郎を見つめながらちゅうとストローを鳴らした。

「……すごいよね、兎和ちゃんは。明るくて人気者で可愛くて、料理もできる……一緒に暮らしてても楽しいでしょ?」

「お、おー、いやー、まあ、どうだろう。うるさいけどな、あいつ」

 どう答えていいかわからなかったので、否定とも肯定とも取れるイントネーションでそう言ってみる。

「ねえ、やめて。本当に気にしてないから。さっきも全然……怒ってなかったよ?」

「そ、そうか、ならよかった」

 どうやら姫乃はレモンティーに感情が表れるという癖に自分で気付いていないらしい。嘘がヘタなのはお互い様だ。

「んー」

「どうした?」

 再び蓋の上の玉子焼きを見つめながら兎和が唸り声を漏らした。

「玉子焼き……どうしよ。兎和ちゃんお箸持って行っちゃったから」

「ああ、そうだな。いいよ、置いといて。僕食べるし」

「ううん、わたしが食べたいの」

「そうなの? じゃあ……」

 こうするしかないか。箸で玉子焼きを摘まみ上げる。そのまま、ついさき兎和がやったように、姫乃の口元へとひょいと運んだ。

「――ええっ!」

 ら、姫乃の顔が爆発した。

「どうした、姫乃?」

「ど、どうしたじゃないよ! 何をするの、急に」

「なにって………姫乃が食べたいって言うから」

「でもでもでも、それって、あ、あ、あ………あーん……でしょ?」

「……そうだけど」

「無理!」

んなバカな。やってたじゃん、ついさっき。

「さっきのは女同士だったから! 男女でそれやっちゃったら、それってもう………」

それってもう?

「……恋人みたいだし」

「えっとー、そのー」

「そうだけど! 恋人だけど! うー…………恥ずかしいよぉ」

 うーわー、かーわーいいー。真っ赤な頬を両手で覆いながら、ふるふると顔を振る姫乃。

「恥ずかしいっつったって、他にやりようがなくないか?」

「うう……そうだけど」

 姫乃は指の隙間から上目遣いで僕の顔を見上げると、

「……じゃあ、あーん」

 観念したようにゆっくりと手を下ろして口を開いた。

「…………………………………………」

「…………………………………………」

「…………………………………………」

「……………………………………あの」

「え?」

「……待ってるんですけど」

「おお、ごめんつい」

 つい、姫乃のあーん顔に見とれてしまった。

こんなにぱかんと口を開けるんだな。なんだろう、この感じ。無防備というか、危なげというか、思わず舌の上に硬貨でも乗せたくなるというか、とにかくじっと見つめていると胸がザワザワする。

「夏? まだ? ……恥ずかしい」

「ああ、ごめんごめん。なんか緊張しちゃって」

「やめてよ、なんで緊張なんかするの……」

 そう言って眉を顰める姫乃も多分緊張しているのだろう、唇が微かに震えている。 

「てゆーか、姫乃ってアレだね、目ぇ瞑るんだね。あーんする時」

「……開けた方がいい?」

「どっちでもいいけど」

「じゃあ、瞑る」

「そうか。じゃあ、行くよ」

「うん」

 バカみたいだ、どうしてこんなに手が震えてしまうのだろう。僕は大暴れする心臓の音が聞こえないよう慎重にそうっとそうっと玉子焼きを、姫乃の鼻に運んだ。

「冷たい!」 

「ごめん、手が震えすぎた!」

「うう、ちゃんとやってよぉ」

「うん、やるから。ごめん。僕がこうするしか、食べる方法がないんだもんな」

「……そうだよ」

「わかった、任せてくれ。今度こそ」

 もちろん、食べるだけでいいのなら箸ごと渡してしまえばすむ話だ。

それ以前にここは家庭科室なので、そこら辺の引出を引けば箸でもフォークでもスプーンでも売るほど出てくる。家庭科部の姫乃がそのことに気付いていないはずはないので、これはもう、そういうことなのだろう。

『……恋人みたいだし』

姫乃が言った言葉通りのことなのだろう。姫乃はそういうつもりで口を開いているのだろう。

もう一度玉子を箸で摘まみ上げた。兎和の作る玉子焼きはふるふるで柔らかくてしっとりと艶めいている。

「はい……」

「……ん」

 ふるりとした黄色い卵が、姫乃の薄い唇に触れた。白い歯がぷつりと玉子の層を噛み切る。なんとなく兎和に先を越されたと思ってしまった僕は、頭がおかしいのだろうか。

「……美味しい」

「うん」

「……さっきより」

「……まだ残ってるけど食べる?」

「食べたい」

「うん」

 今度は、姫乃は目を閉じなかった。じっと僕の眼を見つめ返して口を開く。

「ふふふ」

「なんだよ」

「ううん………恥ずかしいね」

「そうだな」

 それでも姫乃は目を逸らさない。薄らと微笑みながら、頬以上に赤い唇をゆっくりと開いた。


「ごっめーん! うちお箸持って行っちゃってたわー!」

 ついでに扉もどばーんと開いた。


「ごめんごめん、凡ミスやったー。箸なしにどうやって食べろっちゅーねんなあ? 大丈夫よ。うち、こういう時のために割り箸ごっそりストックしてるねん。よかったら一本使―――わんでもいいみたいやね、これは。ホンマにやってしまいましたー、ごっめーん」

 そして一方的な関西弁をまくしたて、またどばーんと音を立てて扉は閉まる。

 衝撃で玉子焼きが床に落ちた。


 本当にあの野郎…………わざとやってんじゃないだろうな。

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