第9話

 注文がひと段落し、稔が食器を洗っている間、葉月は俯いたまま、時折フロアの様子を窺った。食事を終えそうな客を見つけては、稔に食後のコーヒーを淹れるように促し、空いた皿はすぐに片付ける。それは注文を受け、ただ運ぶよりも気の抜けない時間だった。ミスを帳消しにできるような働きができているのか、それだけが気がかりだった。


 奥に座っていた檜山が立ち上がり、伝票を手に取った。葉月は稔に声をかけ、自分は邪魔にならないように壁際に体を寄せた。

「いつもありがとうございます」


 稔が言い、代金を伝えると、檜山がバッグから財布を取り出した。

「今週はやるだら? 準備はできてるから、また人数をよこして」

 何の話をしているのだろう、と葉月は二人の会話に耳をそばだてた。受けた稔も特別驚く様子はなく、お釣りを渡すのに合わせて返答をした。


「ええ。わかりました。出欠確認はしているので、よろしくお願いします」

 檜山とのやりとりは続き、何やら打ち合わせをしている風だったが、その内容まではわからなかった。軽く手を上げて店を出ていく檜山の背中を見送る。


 葉月はそのやりとりに興味があったが、すぐに別の客に呼ばれ、その機会を逸してしまった。入れ替わりやってくる客を捌き、落ち着いたと思えば時刻は十四時を過ぎていた。


「そろそろ休憩にしようか。まかないってほどでもないけど、サンドウィッチでいいかな」洗い物を片付けながら、稔が言った。カウンターでナプキンや灰皿をいじっていた葉月は、「はい」と返事をした。


 さすがに座って待っているわけにもいかず、稔が準備をしている間に思いつく一通りのことをやり、残りの時間は所在なくカウンターの隅に立った。


 稔が自分のために作ってくれている。葉月は場違いな想いが胸に降り立つのを感じた。意識のし過ぎだと自分でも思う。仕事の合間であっても、プライベートな時間ではないのだ。しばらくは自分の呼吸音と、稔の上着が擦れる音だけが聞こえた。


「お待たせ。カウンターで食べて。その間にお客さんが来たら僕が対応するから、ゆっくりしていて」

 稔はサンドウィッチの皿を出し、アイスコーヒーをコップに注いだ。店のメニューと同じ、タマゴサンドとハムレタスサンドだった。傍に添えられたピクルスがいかにも喫茶店のサンドウィッチらしい。


 アイスコーヒーを一口飲み、その味わいに葉月は思わず顔を上げた。氷で冷やされてもなお、コーヒーの香りは湯気で沸き立つそれと遜色がなく、透き通るような光をコップから放っていた。

「一昨日と違うの、わかった?」カウンターの隅で、稔が声を弾ませた。


「はい。すごくコーヒーっぽいです」どこまでも幼稚な感想に、葉月は言いながら恥ずかしくなった。味を聞かれているのに、ふさわしい言葉が出てこない。

「コーヒーだからね」稔は昨日と同じように笑顔になり、「淹れ方を変えてみたんだ」と続けた。


「アイスコーヒーに種類とかあるんですか?」

 冷たいコーヒーであるからには、お湯で淹れたコーヒーを冷蔵庫で冷やしているくらいだと思っていた。カフェで目にする光景を頭に思い浮かべ、そういえば昨日冷蔵庫を覗いた時にはそんなものはなかったことに気づいた。


「まあ。色々とね。今までは水出し、簡単に言えばコーヒーの粉を水につけてゆっくり抽出していたんだけど、それは深煎りのコーヒーを濃い目に淹れて、それをサーバーごと冷やしているんだ」


 急に始まったコーヒー講座に、葉月の頭はくるくると回転した。稔の口から滑らかに流れ落ちる言葉を拾い切れず、葉月はストローに口をつけた。


「コーヒーって難しいんですね」

 喫茶店やカフェに入ればコーヒーを頼むとはいえ、それは家で飲む緑茶と同じく、そういう味の飲み物に過ぎない。作法や目的によって、使う道具も手法も変わってくるということに葉月は新鮮な驚きを感じた。目の前にあるこの飲み物が、漫然とただそこにあるのでない、見えない奥行きを内包したものだということを、葉月は改めて思った。


「難しいね」稔は再び笑顔になる。それは先ほどの笑いとは違い、噛み締めるような憂いを感じさせた。「だから面白い部分もあるけど……。でもそうやって飲んでみて、違いがわかるって大切なことだよ」


「すいません。コーヒー全然詳しくなくて」

 葉月はどうやって会話を続ければいいのかわからなくなった。知識の量が違い過ぎる。稔の前では、何を言っても的外れのような気がしてならなかった。


「そんなこと、気にすることないよ。誰でも、最初は何も知らないんだ。そこがスタート。山瀬さんのスタートラインはここ。でもそれでいいんだ」

 稔の言葉は思いがけず胸の深いところにすとんと収まった。この場所がスタート。この店から、新しい自分が始まる。その予感が、葉月を奮い立たせる。


「頑張ります。あの……、ずっと気になってたんですけど、さっきの、檜山さんですよね。二人で何かするんですか?」

「知り合いなの?」

「前に父を運んで、いえ送ってくれたことがあって」


「そっか。檜山さんが農家を経営しているのは知っているかな。実は僕も喫茶店の他に農業もやってて、檜山さんの畑を借りて農業教室を開いているんだ」

「そんなこともやってるんですね」


「家庭菜園と農業法人の中間って感じなんだけど、そこで採れた野菜はそれぞれの家庭の食卓だけじゃなくて、ちゃんと農協にも卸したりして。これも地域活性のひとつになればと思って」


 そうやって話す稔は、コーヒーを語る時とはまた違った熱意を放っていた。稔が何をしているのか、もっと知りたかった。

「それが週末にあるんですか?」


「本当は毎週なんですけど、この間の土日はまつりの準備とかでどのご家庭も忙しくて、今度が二週間ぶりなんだ」

「どんなことしてるんですか?」


「そうだな。口で言うのはなかなか難しいから、来てみる? 今度の日曜日なんだけど」

「いいんですか?」


「バイト代も少しは出せるし、僕の手伝いをしてもらえると助かる。朝はちょっと早いけど、みんなでランチも食べられるし、面白いと思うよ」

「わかりました。楽しみです」


 喫茶店と農業というのは、何か共通点があるのだろうか。葉月の興味は尽きない。言葉を続けようと口を開きかけて、ドアの開く気配に振り返った。


 男性客がひとり入ってきた。稔は接客に向かい、葉月は手をつけていないサンドウィッチを一口頬張った。レタスのシャッキっとした歯ごたえが瑞々しく、このレタスも稔が育てたのだろうか、と葉月は想像した。

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