第2話

「それ貸して。先に車に入れておくから」篤子が腕を伸ばし、キャリーケースの取っ手を掴んだ。

「ごめん、ありがと」

 篤子は後ろ手にケースを持つと、がらがらと音を立てて歩き始めた。葉月はあとを追う。その背中の向こう側にクリーム色の車があった。


「まだ乗ってたんだ」

 葉月は思わず駆け寄った。大学に入る前から家にあるその車は、左ハンドルのドイツ車だったが、ツーシーターで、二人しか乗れない代わりに二人では広すぎる空間が確保されていた。シートを目一杯後ろに引くと、それなりに身長のある葉月でも足を伸ばして座ることができた。


 バックドアを開け、キャリーケースを入れる。さすがに、今日は足を伸ばすことはできないらしい。

 シートに腰掛ける。すぐに篤子も運転席に座り、キーを回した。思い出したようにエンジンが回転を始め、車が走り出した。


 ショッピングセンターに向かう道は、夕暮れ時とあって混雑していた。右折専用車線に並ぶ長い列につく。右手にショッピングセンターの外観が見える。交差点を曲がると、ブランドのロゴがかかった壁面に夕日が反射した。


 駐車場に車を停めると、篤子は「じゃあ、私は先に行くから」と言い残し、駆け足で仕事場に向かった。とっくに休憩時間は過ぎているのだろう。このおおらかさは東京では味わえない。申し訳ないと思う。主に母の職場の仲間に対して。

 葉月は車を降りて、軽く伸びをする。駐車したのは従業員入口のそばで、広大な駐車場の西の端だった。ここからではショッピングセンターの全景は見えない。白く塗り固められた壁材が目の前に迫っていて、右手の駐輪場がかろうじて覗けるくらいだった。


 そこで、駐輪場の奥から高校生が歩いてくるのが目に入った。懐かしい制服に目が留まり、葉月の通っていた高校の生徒だと一目でわかった。高校生の時は、自分もブラブラと店の中を見て回った。そうして暇を弄んでいた高校時代から、約十年が経つ。制服姿の女子生徒は、気だるげに通路を歩き、壁の向こう側へ姿を消した。気づけば、葉月はその背中に沙也加を重ねていた。そうだ、ここには沙也加とよく来ていた。二人で買い物をして、そして——。


 葉月は記憶の中の景色を探した。ショッピングセンターの斜向かい、片側二車線の通りが出会う交差点の脇に、その姿を見つけた。買い物に飽きると沙也加と一緒にコーヒーを飲んだ喫茶店だ。それがさらに高校時代の葉月の姿を想起させる。まるでドリッパーに湯を注ぐように、目の前の風景が頭の中で溶け合い、琥珀色の液体となって葉月の中に蘇ってきた。





 高校生という時代を、葉月はずっと湖の底で過ごしていた。光の届かない湖底から、遥か頭の上にある水面を仰ぎ見ては、その眩しさに目を細めるばかりで、とにかくそこから動くことができなかった。 


 それは、沙也加と一緒にいても同じだった。教室で前日のテレビの話をしていても、バス停まで並んで歩いていても、葉月の心は常に光の当たらないところにあって、沙也加の放つ温かい光を避けていた。


 当時、二人の間ではひとつの賭けが行われていた。どちらが早く意中の男性と付き合うことができるのか、それを競っていた。早い方がそれなりの値段のするカップアイスを奢るという他愛ないものだったが、逆に言えば、とかく恋愛に関しては臆病な二人だった。


 沙也加は陸上部に所属していて、運動のできる男子と一緒にいる時間も多いのに、そういう男子にはあまり興味がないようだった。

「結局さ、子供っぽいんだよね、みんな」


「そうなの? 三輪くんなんて、落ち着いてて、好きって子結構いるのに」

 高校二年生だっただろうか。その頃になると、クラスの違う男子の情報もある程度耳に入るようになり、男子のヒエラルキーが自ずとできてくる。勉強がそれなりにできて運動部所属というのが上位に来て、次に頭が良くて話が面白い人がくる。その三輪という男子生徒は、陸上部短距離のエースで、学年順位も二十番というのだから、それこそ文武両道の模範と言ってもいい人だった。


「ちょっと大人しいのを落ち着いているって言ってるだけだって。三輪くんは口下手だから、わざと話さないようにしてるんだよ」

「寡黙なんでしょ。いいじゃん、そういうの」

「それじゃあ、つまらないでしょ。こっちがテンション上げて話しかけても、『ああ』と『そうだね』だけじゃ、会話が成り立たない」


 沙也加が校庭で小鳥のように三輪に話しかける様子を想像し、その光景があまりにも自然に思い浮かぶことに、葉月は苦笑した。

「沙也加様はそれがご不満だと」

「ご立腹」


「要するに年上がいいってことなの?」

「最低五歳は上じゃないと」

 そういう話を、ショッピングセンターの化粧品売り場でするのだから、今から振り返ると恥ずかしいことこの上ないのだが、そうして場所もわきまえずに好きなことが言えるのが十七歳という時代だった。


「そういうの、あの人の前で言ってみたら?」沙也加の魂胆を知る葉月は、バッグから鏡を取り出して前髪を気にするそぶりを見せた沙也加を茶化す。

「やだよ。嫌われちゃうじゃん」沙也加は鏡から顔を上げようとしなかった。


 沙也加は表情をころころと変える。さっきまで滔々と十代の主張を繰り返していたのに、あの人の話をした途端不機嫌になった沙也加を、葉月はどこか冷めた目で見つめた。

 そうして、ショッピングセンターをぶらつき気が済むと、沙也加はついでだといちいち断って、斜向かいの喫茶店に寄った。


 その喫茶店というのが、目当ての人物が働いていた場所だった。背が高く、短髪で爽やかな印象の男性だった。黒いバリスタのエプロンがやけに様になっていたのを覚えている。沙也加はいつも自分から会いに行くくせに、注文を取りに来るその人に話しかける勇気もなくて、葉月の肩越しに眺めるのが精々だった。


 葉月はそこに行くたびに、いつかその人の隣に立ちたい、と思っていた。その男性のことを話す沙也加にそっけない態度を取っていた一方で、自分も淡い憧れのようなものを感じていた。沙也加の見立て通り五歳年上なら、当時は大学生くらいだったろうか。高校生の葉月たちからすれば五歳の差は決定的な隔たりを生む。沙也加も葉月も、そうして遠目で眺めるか、あるいはレジに並ぶのが関の山で、目を合わせたり、話しかけたり、ましてや親しくなるなど、想像の範囲を出ることはなかった。





 今更、何が変わるわけでもない。交差点に立ち、葉月は自分を諌めた。期待をしてはいけない。それは葉月が東京に出て身につけた処世術のひとつだった。期待は失望を生む。それならば、何も考えない方がいい。


 そうして自分に言い聞かせる必要があるほどに、葉月は期待していたのだろう。アルバイト募集中のチラシが貼られたドアを開け、店の中に入った瞬間、出迎えた店員の顔をまじまじと見つめ、すぐにそんな自分が恥ずかしくなった。


「おひとり様ですか?」茶色の髪を無造作に伸ばした青年が伏し目勝ちに顔を向けた。その言葉に内心傷つく自分に苦笑しながら、葉月は小さく頷いた。恐らくは大学生だろう。そのふわふわとした雰囲気は、葉月がずっと昔に失ったものように思えた。席に案内される。すでに来た意味は失われた。七年経っているのだ。当時大学生だとすれば、今は三十歳前後。とうに辞めてしまったのだろう。

「アイスコーヒーをください」そう答えるのがやっとだった。

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