第14話 きみはたった一人の男の子



 蝉のうるさい合唱を聴いていると、ああ夏なのだと思う。七日で尽きる運命を背負った命がそれでも懸命に叫んでいる。何を言っているのかはわからない。でも彼らの生きた証なのだから彼らの好きに叫んでいて欲しい。彼らは七日しか生きられない。それ以上の長い期間を生きられる私たちは、果たして幸せなのだろうか。

 

 気づいたら、あっという間に、この街は変貌していた。街の住民は「バケモノ」が一体なぜ短期間に多数出現するのか、その理由を各々探り各々の解釈を実行し始めていた。私はそれを携帯端末のニュースで見ながら、人ごとのように眺めていた。まず標的になったのは街外れの繁華街だった。正体不明の「バケモノ」が出現しないあの区域はあからさまに怪しいと、街の人々は疑問に思ったらしい。繁華街にはこの街の娯楽、カラオケやゲームセンターなどが一か所に集約している。この街を作るにあたって、娯楽とは管理されてこそ娯楽たりうるという言説が、当時一般的だったらしい。私も、なんとなくそう思う。繁華街は当然のように閉鎖された。繁華街が閉鎖された日、「バケモノ」が現れた。レオくんはそれを倒した。この街の行政が「バケモノ」を使役しているのだという噂も立った。市役所に人が押しかけて、デモ集会のようになった。この街の市長が群衆の目の前に現れた。泡草耕造。泡草ハナエの父親だった。ネット上に流れるデマを彼は否定したが、そのような不安を生み出したことを詫びていた。しかし終始脈絡のない回答に民衆の溜飲は下がるはずもなかった。暴徒の男がペットボトルを投げると、それは市長の耳を掠めた。男は獣人委員会に連れ去られ、厳重注意を受けたそうだ。その夜に「バケモノ」は発生した。もちろんレオくんは戦い、一瞬で勝利した。

 

 民衆はレオくんの強いことを受けて、歓喜に沸いた。レオくんは民衆の不安を一身に受けて、ますます称賛されるようになった。しかし、インターネット上の「ノケモノリサーチ」に寄せられたコメントにはレオくんがもっと早く来ていれば、窓ガラスが割れなかったと、彼を詰る言葉も書かれていた。私はそれをレオくんが不意に見ることがないように、そっとその言葉を運営に報告し、削除させた。


 日を追うごとに、出現する「バケモノ」を討伐する彼を、詰るコメントは一つ二つと増えていく。私はそれをレオくんが寝た真夜中に、虱潰しをするように削除している。削除すればニュースのコメントにも取り上げられることはない。それが私にできる精一杯のように思った。まるでアイドルのマネージャーのようだなと、コメントを運営に報告しながら、マネージャーの実際さえ知らないのに私はそう妄想した。一昨日は5件削除した。今日は12件削除した。私に対する誹謗中傷も確かにあった。レオくんがただ一人生活を共にする女。私に対しても様々な憶測が飛び始めているらしい。私は私の名前を検索されないように非検索語録に登録しなければならなかった。レオくんは悪くない。私も、きっと悪くない。「バケモノ」が現れるこの世界が悪いのに、どうして私たちは苛まれるのだろう。夏の暑さは暗澹たる気持ちに追い討ちをかける。「バケモノ」は今日も現れる。もう日常だった。


 「暑いです」

 「そうだね。暑いね」


 レオくんのライオン尻尾は萎れっぱなし。日光が強すぎるせいで瞳もろくに開けられない。細い目つきで世界を睨んでいる。


 「太陽がもうちょっと優しかったらいいのに」


 私は暑いのが嫌いだ。暑さに耐えかねて、不満をぶつぶつ言う。レオくんは黙ったままだ。額には汗が浮かび、いくつもいくつも浮かんでは下に向かって流れていく。シャツに入り込むと時おり何故かびくりと震える。


 「どうしたの」

 「汗が冷たいんです」


 冷たい。この暑さで汗が冷たいとは思えない。私だってひどい量の汗をかいているけど、相変わらず暑い。レオくんは大きな麦わら帽子を目深く被っている。傍目から見てなんだか恥ずかしそうなのは、その麦わら帽子に青くて大きいリボンがついているからだ。

 私のお下がりである。新しいものを買ってやろうともしたが、何故かレオくんは私のお下がりが欲しいと言うのだ。男の子なのに。


 「服屋に行けば、もっとかっこいいのが沢山あるよ。ライオンの帽子だってあるんだから」

 「あなたのじゃなきゃ嫌です」

 「頑固者ね」


 教えてもいない。そうするように強制してもいない。でもレオくんはなぜかこの世界にある他の服を自分から求めようとはしない。出会った時のように横縞の服ばかり着て、ズボンも茶色のものだけ履くのだ。夜。彼が風呂に入っている間、その服を洗濯にかける。服を洗濯しているうちはなんと彼は裸で居ようとするので、私はせめてパンツとシャツとパジャマくらい着なさいと怒らなければならない。風邪を引くことすら考えられないのか。私がパジャマを買ってくると、何故かレオくんはそれを嬉しそうに着る。だのに店に行っても自分で選ぼうとはしない。必要最低限のものしか求めない。私のお財布には優しいのだが、どうしてそんなに無欲なのか。


 「どうして、この世界には色んなものがあるのに見ようとも、求めようともしないの」

 「ぼくにはやるべきことがあります。ぼくはライオン紋の王子様なのです」


 何を言っても聞いてくれない。心の中を開いてくれない。本当は色んなものを欲しいと思っているんじゃないのと、私はそう勘ぐってしまう。


 でも、暑い中でもコンベアーに乗って図書館に行くとそれは顕著にわかる。彼のうちに秘めた好奇心は図書館に行くと解放される。

 レオくんはアロハシャツを着て車椅子で応対するシリウスさんに、元気よく挨拶すると熱心におしゃべりをする。世界の色んなことについて知りたがる。鉱物とか、宇宙とか、自然現象とかについて何にも知らないのに熱心に考えて質問する。シリウスさんは業務の途中でも彼のお話に乗ってくれる。受付の仕事を手早く済ませて、レオくんとのお話に夢中になっている。まるで子どもが二人いるみたいだ。


 「きみは何が知りたい。何を求めてどのように生きていたいのかな」


 シリウスさんはレオくんが興奮すると、嬉しそうに問いかける。でもレオくんはいつも


 「ぼくは星を掴むのです」


 この一辺倒なのだ。

 それを聞くたびにシリウスさんは泣き出してしまう。クーラーの効いた室内でもちょっと温度が上がったような気分になる。


 「星など、お前が掴むようなものではない!私たちが掴み損ねたガラクタなんぞ!」


 シリウスさんをお見舞いに行ったあの日からもう数ヶ月経った。あの頃はまだ春だった。

 桜も咲いていたのに、私はお花見だって忘れていた。「バケモノ」がいつやってくるかわからなくなって、学校だって休校になってしまった。


 「これ、貸してください」


 聞き覚えのある声に、はっと後ろを振り返る。泡草ハナエがいた。青いワンピースを着ている。

 シリウスさんは彼女の細い目をじっと見ている。ハナエは何も答えないが視線をずらしてレオくんを見る。


 「ライオンくんは図書館が好きなのか」

 ハナエはそうレオくんに声をかける。レオくんは嬉しそうにうなづく。ハナエはそれを見るとにやりと笑う。

「何故そう思うのかな」

 レオくんはその質問に口籠った。そうしてなぜか下を向く。俯いてしまったのだ。


 「今はわからなくてもいい。きみがいつか、はっと気づくことがあるさ」


 ハナエはそう言ってまた笑った。

 何故なのだろう。ハナエとシリウスさん、そしてレオくんとの間には、不思議な連帯が生まれている。私はなんだか蚊帳の外にいるような気分だ。心がしんと雪に降られたように冷たくなる。


 ハナエが借りたのは、星座についての本だった。彼女はその知識について全てを知っているはずだ。わざわざ本なんて読む必要はないはずだ。

 不思議そうにする私に、ハナエは口を開く。


 「カナコ、知ったことが全てではないんだ。天球儀は私が動かさなきゃ、ずっと止まったままだ。」


 天球儀。ハナエの本の表紙に描かれている平面の空。金色の、本当は座標もばらばらな星と星を見かけだけで繋いだ、はかない幻。

 何も答えない私に、ハナエの語気は何故か強くなった。


 「きみは、届かないと知っていても夜空の星に手を伸ばしたことが、一度だってあるのかい」

 「あるよ」


 何故か反射するように答えていた。

 でも、届かなかった。

 レオくんに助けてもらったあの日、私は身動きのできない竜巻の中で、ハナエたちのいる世界に私も行きたいと願った。しかし変わらなかった。私には世界は変えられないのだと、その時何となく思い知らされたのだ。

 ハナエはその言葉にいつものポーカーフェイスを崩す。驚いたような、それでいて悲しんでいるような目の奥に、何か言いづらいものが渦巻いているように感じる。


 「きみは鍵を持っている。でも使い方がわかっていない。私から言えるのはもうそれくらいかもしれない」


 ハナエは何故かそんな遠回しに言う。

 何を言っているのかわからない。言葉の中の意味のつながりが読み解けない。シリウスさんみたいだ。明晰な彼女が何故そんなことを言うのだろう。


 ハナエはレオくんの前にしゃがんで、星座の本を目一杯開いて見せる。星座の絵にレオくんは夢中だ。星座の大きいものには一つ一つ物語がついていて、太陽が通る黄道の十二星座はあまりに有名なものばかり。レオくんはその中の一つ一つをでたらめに指す。ハナエはそれに的確に答えてゆく。何だ。レオくんに見せるためだったのか。私は納得ができた。


 「これは何ですか」

 「これは、小獅子座という星座だよ」


 小獅子座。

 携帯端末で調べると、獅子座のそばにある小さな星座だ。神話はない。その作られ方も乱暴で、獅子座の周辺に空間が開きすぎているから、その埋め合わせに作られたのだと言う。


 「この星座には今、神話はないよ。でも新しく作ることはできる」


 神話を作る。ハナエは何故か私とレオくんを交互に見て、そんなことを話す。馬鹿馬鹿しい。全部御伽噺なのだ。一人が描いた神話なんて、すぐに忘れ去られるか誰も見ようとはしない。でもレオくんはその空白の存在を聞くと目を輝かせていた。


 「じゃあ、ぼくがその星座のお話の一つになります」


 星座のお話に自分がなる。そんな荒唐無稽なことが成立するはずがない。私は叫びそうになるのを抑える。星座の物語はギリシャ神話などが題材にとられたお話が多く太古の昔に作られたものだ。その中にただ空白があるからと言って、埋めてしまっていいはずがない。空白とは無だ。それが全てなのだ。ライオン尻尾であったとしても、それは変えてはならない。

 私は、目の前の世界が私の心から急速に遠ざかってゆくのを感じる。後に残るのは、冷たくなった自分の心ばかりで、それをじっと見つめるしかない。

 私は踵を返すと次の瞬間駆け出していた。後ろを向いたら心を落ち着けようと思っていた。でも後ろを向いた途端に襲ってきた孤独は私の心臓を、その冷たい手で鷲掴みにしたのだ。私はそれに耐えられなかった。


 「お姉ちゃん!」


 聞き覚えのある声がする。

 それが他ならぬレオくんの声だと言うことに気づいた時には、私は既にコンベアーに乗り、時速10キロの速さで自宅に急いでいた。

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