9日目、10日目

 目が覚めたとき、白い天井と規則正しく動く看護師風の人たちが見えた。

 自分の身体に目を移すと、腕には大量に刺さった点滴、下半身は布に覆われている。

 ああ、バッドトリップだな...こういうときの現実への戻り方はよく知っている。身体を思いっきり動かすと脳が刺激をうけるのかバッドから抜け出せるんだ。

 身体を思いっきり左に動かす、今度は上手くバッドトリップから抜け出せた!

 目が覚めたとき、白い天井と規則正しく動く看護師風の人たちが見えた。

 いや、これはどうやら夢の中らしい。だってぼくは閉鎖病棟にいるんだから、規則正しく動く看護師なんていなかった。

 こういうときの現実への戻り方はよく知っている。身体を思いっきり動かすと脳が刺激をうけるのか夢から抜け出せるんだ。

 身体を思いっきり左に動かす、白い天井...ではなく、まだ点灯していないのだろう。暗闇の中でロクちゃんの大いびきが響いていた。

 身体の怠さとまとわりつく寝汗を感じながら、段々とここが一般病棟だと気付きだす。


「将棋しよ、将棋」

「でもこの前もルール忘れたじゃないですか」

「じゃあトランプしよ、トランプ」

 福良とロクちゃんの会話を聞きながら、海藤は福良さんも辛抱強いなあと思っていた。

「ぼくもトランプ参加して良いですか?」

「うん。ええよ、ええよ」

 海藤は三人でトランプしながら、30歳前後のロクちゃんと21歳の福良が普通に話しあったり、21歳と15歳のぼくが敬語で話したり、精神病院に対して言いようのない違和感を覚えていた。この病院内では全ての患者が平等に扱われるというとりとめのない考え。

 ここでは年齢も、障害の種類も関係なく平等にされるのだという違和感。


「竹宮さん、朝食ですよ!ちょうしょく!」

 このやりとりは竹宮にとって何度目か分からない。しかし変わらず彼は憎みながらも看護師が折れやがて朝食を持ってくることを知っている。

 彼は三度の食事しか楽しみのなくなった人たちについて夢想していた。

 現在に耐えられない人は未来に救いを求める。未来がない人は過去の思い出になぐさめを見出す。しかし未来もなく、過去のどの思い出も苦痛でしかない竹宮は、どこへ逃げれば良いのだろうか?

 自分自身の中に閉じこもることしか彼の逃げ道は残されていなかった。

 竹宮はいま自閉症というネーミングセンスについて夢想している。自分に閉じ込もる病。アスペルガーなんて病名よりよっぽど良いネーミングだ!

 彼の夢想癖は、自分自身に逃げ込んだところから発生しているようにわたしには思える。


「海藤さん、親御さんが面会に来ました」

 朝食後、気分良くトランプしていた海藤は、この一言で真っ逆さまに落ち込んでしまった。土曜に父母が面会に来るのはなにもおかしくはないが、彼は曜日感覚をすっかり失っていたのだ。

 面会室には親父と母と、あのケースワーカーまでもが同席していた。

「どうなんや、調子は」と親父が口を開く。

「普通だよ」

「そうか、ちょっとは改心したんか?」

 改心?なにを改心すると言うんだ?海藤は喉まで出かかった言葉をグッとこらえ、「うん..」と返事するのが精一杯だ。

「あなたが落ち着いたようで嬉しいわ。また自殺未遂なんかされたら私は...」そう言いかけて母はチラとケースワーカーの方を見た。治療結果を確かめたがっているように。

「大丈夫ですよ、新川医師から病状は良くなっていると報告を受けましたから」

 ケースワーカーは母を安心させるように話しかける。母は安堵した表情を浮かべ、親父は「意志の弱さも治ったらええな」と(本心から)叱咤激励する。

 海藤は下を向きながらなるべくなにも考えないようにしていた。

 「そうね、この子は昔からデリケートなのよ」と母が笑いながら話す。「産まれた時からみているんですもの。この子がデリケートになるのもよく分かるのよ」この場に無意識下で憎しみを育てている海藤がいなければ、まったく微笑ましい家族風景に見えたことだろう。

 「ほんまにな、受験落ちたくらいで情けないわ、社会に出たらもっと辛いこといくらでもあんのに」親父の言葉にケースワーカーが「まあまあ」と制す。「心が弱いというのは問題ではありませんよ。それは人それぞれの個性なんです。いまは息子さんのことを思って、病気を治すことに専念しないと」

 ケースワーカーのまったく真摯な言葉に家族は思わずホロリとさせられる。まるで私はこの仕事に誇りをもっているんだと言わんばかりだ。

 海藤は胃のキリキリとした痛みを感じながら、早くこの面会が終わることを望んでいる。ふと、今朝みた悪夢のことを思い出す。夢から覚めてもそこはまた夢で、一生きりがないという悪夢。

 


 海藤にとって理解できないことばも、ちょうどいま病院内の臨床心理士と話している福良にとっては理解できる。

 ケースワーカーの表現が適切では無かっただけで、「心が弱いというのは問題ではありませんよ。それは人それぞれの個性なんです」というのは(精神医学のマニュアル的には)正しいということが。

 というのも、うつ病やアルコール依存症はじっさい心や意志の強弱といった問題と関係ないし、そのことは耳にタコができるほど医者やAAから聞かされていたからだ。そして、全く同じようにそのことばがなんの役にも立たないということも。

 福良は役に立たない真実を聞きながら焦っていた。うつ病の人を治した経験があるという臨床心理士とやっと予約がとれ話しを聞いていたが、それによると患者を16歳の頃から見ていて、8年間経ってようやくうつ病を治しその人が働けるようになったと言うのだ。

 8年間!この60過ぎの臨床心理士にとっての8年間は人生の何分の一かに過ぎない時間だろう。だからこそ悠長に構えていられるのだろう。しかしおれは21歳だ!21歳にとっての8年間は、途方もなく、想像もできないほど長い!

 福良にはこの臨床心理士がニコニコと笑顔で話しているのがまるで人ごとのように思えて気に入らなかった。よしんば8年間で治るとしても、彼にとっては29歳、20代という時期を全て支払うことになるのだ。

 彼はうつ病が治らずに悪化していくという焦りから、8年間の代償という話しを聞いているうちに、だんだん苛立ちに変わっていくのを感じていた。


 海藤が面会後打ちのめされベッドで不貞寝していると、

「あかんねん、こんなことしたらあかんねん」

 と、追い打ちをかけるようにオナニーする音が聞こえてきた。

「やめたほうがいいですよ」福良にできるのはここまでの注意だけだ。もはや彼は看護師を全く信用していない。

 海藤が入院してくる前、彼は同じように粘り強く看護師に抗議しにいった。結局看護師側が折れたのか、しつこい奴だと思ったのか、一応ロクちゃんに注意しにきたことがある。

「他の患者から苦情が出ているんです。するならトイレでしましょう」

「うん、分かったわ。そうするわ」

 口約束を取り付けた看護師は、一応仕事はしたぞというふうに福良の方を一瞥すると、そのまま部屋から去っていった。

 そしてもちろん、口約束が守られることはなく、ロクちゃんは今でもオナニーしている。

 ロクちゃんのハアハアとした息遣いがいっそう激しくなってきたとき、海藤のベッドのカーテンが開く音が聞こえた。多分、彼は昔のおれのように、耐えきれず詰所に抗議しにいくのだろう。


 福良の予想は当たり、耐えられなくなった海藤は昨日と同じく詰所に向かう。

「すいません、すいません!」

「はい?」

 ゆったりとした動作で昨日とは違う若い看護婦が出てきた。海藤は若い看護婦を見ても性欲を覚えるほどの余裕すらない。

「昨日も言ったんですけど、前のベッドの人がオナニーしてるんですよ!」

「はあ、それで?」

「それでって...注意してくれませんか?」

 看護婦はキョトンとした顔で、「オナニーされて気分を害されたんですか?」

 “気分を害されたんですか?”だって!?普通に考えて、目の前でオナニーされて良い気分のするはずがないだろう!

「当たり前でしょう!注意してくださいよ!」

 海藤の叫びも虚しく、看護婦は注意しにいかない。マニュアルに患者が違反行為を行った際の対処法は書かれているが、患者がオナニーによって気分を害した際の対処法などは書かれていないのだ。



「竹宮さん、昼食ですよ!昼食!ちゅうしょく!聞こえますか?聞こえてますか〜?」

 馬鹿にするような看護師の声はやかましいというほど聞こえていた。なんせ毎回ドアが開きっぱなしなのだから。

 こんな事ならいっそのことドアなんて無くしてしまえと思う。

 竹宮はある日、部屋のドアが毎回開きっぱなしなのが気になり、いちいち開くたびにドアを閉めるという実験を試みたことがある。四人部屋なのだから誰がわざわざ開けているのかはっきりする筈だ、と。

 しかしこの実験で分かったことは、閉めても閉めても毎回ドアを開けっぱなしにする犯人は看護師だということだ。何のために行っているのかは分からないが、しかしドアが閉まっているのを見るたび見回りの看護師がドアを開けっぱなしにするのは、明らかに上からそういう指示が出ているのだろう。

 精神病院にプライバシーは存在しない。それが彼の出した結論だった。

 「に向かって指をさすな!」という怒声が広間の方から聞こえ、思わず好奇心から聞き入ってしまう。確か今は昼食中だった筈だが...しかしこの声は聞き覚えがあった。


 怒っているのは他ならぬ海藤だった。

 彼は胃の痛みから食欲がなく、トレーの食事を食べずに全てポリバケツに捨ててしまったのだが、三角コーナーの中身を見て思わず吐き気が込み上げてきた。この残飯、白米や味噌汁や小魚や朝のパンや牛乳全てがごちゃ混ぜにされたゴミ箱。

 あまりの汚さに、看護婦にしばらく食欲が無いからぼくの分は置いといてくれませんかと頼んだほどだ。もちろん、そんなことは許されない。

「患者1人の為にそんな特例は認められません!他の患者もいらっしゃるのにそんなわがままは....」

「しかし、ぼくの為に余分に作ってくれってんならわがままだってのも分かりますよ、けれど、食事を置いておくだけじゃないですか」

「それがわがままと言うんですよ!」看護婦は海藤に対して指を指した。そして海藤は我慢の限界に達し、「に向かって指をさすな!」と声を荒げたのだ。

 けれどいささか唐突にも思える“人に対して指を指すな”という怒りはどういうことを意味するのだろうか?

 海藤にとって指をさすことは人間ではなく、物や動物に対してする動作を意味していた。

 (こいつらはぼくの事を人間だと思っていないからこそ平気で指をさせるのだろうな。動物園に行って珍しい動物に対して指をさすのと全く同じだ。)

 つい数時間前に会った親の言葉が彼の中で反響する。「産まれた時からみているんですもの。この子がデリケートになるのもよく分かるのよ」子供が親の人形に過ぎないという考え。同じように精神病院内でも、患者は看護師共から人間と思われず、物言わぬ人形なのだ。

 そうだ、あのオナニーに対して抗議しにいったとき看護婦はなんと言ったか?「オナニーされて気分を害されたんですか?」と言ったのだ!看護師たちにとって、ぼくは気分を害する権利すら認められない、人間ですら無かったのだ!もの言わぬ人形、動物、奴隷、物に過ぎなかったのだ!

 

 この会話によって繰り返されている状況は、実は閉鎖病棟のときとそっくりそのまま同じである。

 わたしは1部で、『閉鎖病棟などは、15歳の青年と86歳の婆さんが全く同じ地点にしか立てない不毛な場所でしかない』と書いた。

 それは海藤と福良、15歳と21歳とが、高校生と大学生とが、健常者と障害者とが、患者としてまったく同じ地点に立たされる場所である。

 また、わたしは8日目で『福良と海藤は会話もことばも理解され共有される。この違いはなんだろう?』と書いた。その答えは単純明確で、彼らが患者という同じ立場だったからだ。

 しかし人間扱いされないという状況が分かりにくい人のために、当時の筆者が看護師に抗議して「オナニーされて気分を害されたんですか?」と実際に言われたときに感じたことを述べる。この自伝的小説は実際に起こった事実の上に成り立っているのだから。

 わたしはそのとき漫画『バナナフィッシュ』に出てくるセリフ──主人公の男が11歳の頃に強姦されていたときのことを語るシーン──を思い出していた。

 〈俺はあいつにめちゃくちゃレイプされた。その時奴がなんて言ったと思う?「痛いか小僧?」痛いか?傑作だろう!痛みすら感じないと思ってたのさ!人間どころか生き物ですらない!〉

 筆者は当時このセリフに感情移入したが、勘違いされないために言っておくと、レイプ自体が問題になっているのではない。(筆者も15歳のときにレイプされたがなにも感じなかった。)

 問題となっているのは、いま海藤が立たされているような、精神科医や看護師たちに見られる〈人間どころか生き物ですらない〉扱い、もはや人間が人間として見られず、もの言わぬ人形、動物、奴隷、物にまで引きずりおろされた状況である。


 落ち込んでベッドで不貞寝している海藤とは別に、竹宮は共感していた。もっともそれは悪友や、共犯者を見つけたような共感だったが。

 夕食時になり看護師が呼びにきても微動だにしない海藤を見ながら、彼はどうやって話すきっかけを作ろうかなどと考えていた。自分から話すことは不可能に思われたが、どうしても彼の話を聞きたい。

 そのチャンスは案外早く訪れた。翌朝、看護師に朝食を呼ばれても動かない海藤から、「どうしてハンストしているんですか?」と呼びかけられたのだから。



 福良もロクちゃんも朝食を食べに広間へ行き、いまこの部屋には2人残されている。開かれたドアからは広間の朝食の音が聞こえる。

「どうしてハンストしているんですか?」

「それは...色々あるんだよ。きみこそなんで昨日喧嘩してたの?」

 竹宮が返答に戸惑ったのは、実際の理由──広間に出て食事をとると緊張から喉も通らないことや、自分の金で入院費を払ってるんだから飯くらい看護師が持ってこい──を言っていいのか分からなかったからだが、しかしそれよりも、自分の声が緊張で上ずってないだろうか?と気にしていた。

「ぼくは昨日喧嘩してすっかり嫌になったからですよ」

 海藤は海藤で、誰かに愚痴でも聞いて貰わないとやり切れない気持ちだった。

「ああ、昨日の昼に看護師と喧嘩してたね。しかしあんなことしてるとそのうち閉鎖病棟行きになるよ」

「良いんですよ、別に...だって前に閉鎖病棟へ入っていたんですから」

 竹宮は驚いた。一般病棟から閉鎖病棟行きになった人なら見たことはあるが、逆に帰ってきた人は見たことがなかったからだ。ますます彼のことが興味深く思われた。

「面白いね、きみ...名前はなんて言うの?」

「海藤です」

「自分は竹宮。実を言うと、きみには聞きたいことがたくさんあるんだ」

「...?閉鎖病棟のことですか?」

「それも知りたいけど、きみの行動についてさ!昨日の看護師との喧嘩や、ロクちゃんがオナニーするたびに部屋を出ていくことなんか特にね」

 海藤はいささかムッとして、「あなたこそロクちゃんについてどう思ってるんですか?」と聞き返した。

「自分?自分は彼が一日中ずっと喋っているのは、喋っていないと退屈の時間に押し潰されるからだと思うね、彼はずっと喋り続けることで時間を進めてるんだよ」

 話ながら竹宮は独特の手つきで空を描いていた。海藤はその空中でただよう手の動作を不思議そうに眺めている。

「ぼくは、彼が喋り続けているのは承認欲求とか、自己顕示欲の問題だと思っていましたが...」

「うん、彼が話すのはそれもあるだろうね...きみが気付いていたか知らないけど、彼は話したあとに必ず『と、誰それが言ってた』と付け加えるんだ。彼を見ていると、承認欲求を満たす手段は、自分のことばじゃなくても良いんだと気付かされるね。他人から聞いたことばを右から左へ移すだけでも承認欲求は満たされるんだ!例えばウンチクなんてのはその典型的なものだと思えるよ」

 竹宮はいささか興奮していた。比例するかのように彼の手も空中でせわしなく動く。一方的な会話になるのは彼の悪い癖だったが、しかし海藤、この15歳の右も左も分からない青年は、すっかり竹宮の考えがなにか新しいもののようにでも思ってしまい、そして閉鎖病棟から一般病棟まで全て看護師たちへの愚痴を話してしまった。

 竹宮は興味深く海藤の話しを聞いた後で、ドアが常に開けられていることや、ここではプライバシーがないことなどを話すと、まるで海藤などおらずただ自分の意見を整理するかのように長々と喋った。ただし今度はゆったりとした動作で手を空に描きながら。

「きみは看護師や医師たちを随分と憎んでいるんだね、もっとも自分も同じようなものだけど。けれど、今の敵は顔がないんだ。行政や法律が敵になるのさ。もしきみが植松聖のように医師や看護師を何人殺そうとも、法律を殺すことはできない、そこでどんどんと顔のない看護師や医師は繰り返し出てくる。もしきみが誰かにこの状況を助けてもらいたいと思うと、しかしその味方もまた顔がないんだね。公衆電話のところに法律事務所だかへ送れる書類を見たことある?病院に不満のある入院患者用の書類があるんだけど、それもまた弁護士という顔のない味方に頼ることになるんだ」

 海藤は公衆電話があったことすら知らなかった。しかし、なんとなく言いたいことは分かる。顔のない敵や味方。それは表情を顔に出さない、マニュアル通りに動く名もなきロボットのような看護師や医師たち。「じゃあ、この状況から抜け出す方法は無いんですか?」

 竹宮は「どこへ行っても同じことだと思うね...自分はこの精神病院が社会の縮図だと言う気がするよ」と言った。


 しかし最後のことばには少し注意を留めておきたい。「精神病院が社会の縮図」とは、竹宮にとっては次のようなことを意味している。つまりプライバシーの完全な破壊。彼にとっては精神病院も社会も等しく、プライバシーなどどこにもなかった。(だからこそ彼は自分の心の奥底に引きこもってしまったのだろうか?)

 精神病院内では患者は常にドアを開けっぱなしにされ、見回りの看護師や監視カメラによって常にさらけ出されているのと同じく、社会においても常に人の目にさらされ、彼は健常者と障害者の自分との間を常に気にせねばならず、誰しもがちょっとしたきっかけさえあればネットに拡散され、個人情報はくまなく暴かれ、死者でさえも逃げ場はないのだ。竹宮は石黒教授の再現した米朝アンドロイドや、AI美空ひばりに対して、死者でさえ暴かれ再現されると恐怖を覚えたほどだ。


 当時このことばを聞かされた筆者にとっては、次のことを意味している。当時の日記には、『5/17 社会に出ると何者でもなくなる代わりに自由を得ると言うよく聞く文句は本当だろうか?高校中退して売春し始めた時点で...(略)...確かにここには何者でも無くなった人達しかいない』

 と書かれているが、“ここ”とは言うまでもなく精神病院のことだ。

 精神病院の患者達は入院前は何者かであったのに、入院後は何者でも無くなったという意味においてここが社会の縮図だということばは理解できる。

 しかしそれは竹宮の言う意味での社会──全てが明らかにされわたしたちはちょっとしたきっかけさえあれば個人情報も暴かれ死者でさえもはや逃げ場がない場所──ではない。

 

 そして海藤にとって「精神病院が社会の縮図」だということばは、親父の「受験落ちたくらいで情けないわ、社会に出たらもっと辛いこといくらでもあんのに」ということばと呼応し、

 生きていくためには精神病院だろうと社会だろうと、不条理にも人間扱いされないことにも我慢して妥協せねばならないということを意味していた。

 彼が昼食に広間に出たのは、看護師たちを許したわけではなく、自分はこの看護師たちとも、四人部屋のオナニーとも妥協しなければならないと努力して言い聞かせていたからだ。

 しかし、そんな努力や我慢が長く続くはずもない。


 昼食後、ロクちゃんがオナニーする音を聞きながら、海藤はここが社会なのだとしたら、結果的に行き着く先は社会との妥協ではなく、諦めることだと思い始めていた。

 すべて諦め、諦念をもつことで、人は社会とやっと折り合いをつけられる。そこでは人間扱いされず奴隷だからと言って不満の声をあげることをも許されない。だからこそ福良さんもオナニーに対して声をあらげたり詰所に向かうのではなく、ただ遠回しに注意するだけなのだ。そうなのだ。

 オナニーの息遣いがハアハアといっそう激しくなったとき、しかし例え社会がそうだとししても、ぼくにはとても耐えられないだろう!と思い、詰所横のソファーに向かった。

 ソファーには先客がいた。マスクと帽子を被った竹宮が漫画雑誌をペラペラとやっている。


「どうしてこんなところにいるんですか?」

 不思議に思い海藤は尋ねた。四人部屋や広間ならともかく、なぜこんな辺鄙な場所に?

「ああ、広間はちょっと落ち着かなくてね...四人部屋も苦手なんだ」

「苦手?それは例のオナニーの件で?」

 このソファーに座っていると、どうしても詰所の看護婦たちの対応を思い出してしまう。とはいえ他にソファーがないのも事実だったが。

「いや、自分にとって問題なのはオナニーなんかじゃない。問題は四人部屋が...強制的なことなんだ、きみこそなんでここに?」

 竹宮が言い淀んだのは、四人部屋が強制的だということばが唐突すぎて理解されないと思われたからだった。彼は別の表現を使うことにした。

「ぼくはいつものオナニーの件で...息抜きですよ」

「ふーん...ああ、そういえばきみの閉鎖病棟の話は面白かったよ!特に閉鎖病棟が巨大な強制収容所や動物園の檻だという文句は!けれど、自分ならこう付け足すだろうね、閉鎖病棟も一般病棟も、いや精神病院全体が強制収容所で動物園の檻だと」

 それは海藤も感じていたことだったが、しかし動物園や強制収容所という文句は嫌悪感から出たことばだと伝えた。

「自分が動物園の檻や強制収容所だという文句に共感したのは、精神病院も同じく決定的にプライバシーがないということなんだ。チンパンジーがオナニーする姿を、動物園の檻の中にいる自分たちは否応なく見なければならない。この決定的なプライバシーの無さが問題なんだよ。四人部屋はそういう...場所なんだ」

 竹宮は話しに熱中して漫画雑誌を置き独特の手つきは虚しく空中を横切っている。海藤は話を聞きながら、昨日の若い看護婦の対応を思い出していた。なぜ同じ人間なのに目の前でオナニーされる苦痛が理解されないのか?答えは簡単だ、動物園の檻の外にいる人物はチンパンジーのオナニーを見てもなにも思わないし、まさか同じ檻の中にいるチンパンジーが別のチンパンジーのオナニーを見たからと言って、抗議しにくるとは考えもしないだろう!


 ところで竹宮が言い淀んだ四人部屋の問題とはなんだったのか?プライバシーの欠如?それはもう話した。「四人部屋はまさにそういう...場所」とは、どういう場所のことなのか?四人部屋が強制的と発したことばはなにを言わんとしていたのか?

 苦痛に対しいささか神経質な海藤には同じモチーフが繰り返し現れる。竹宮の四人部屋ではドアが開けっぱなしにされるという話しを聞きながら、彼は集中治療室でまぶたを強制的に開けようとする、あの看護師とのまぶたの攻防戦のことを思い出していた。

 竹宮が漫画雑誌を読み終わり「それじゃあ」と言って四人部屋に戻ったあとも、相変わらず海藤は考えていた。

 ここでは朝の7時に点灯、夜9時に消灯されるが、小学生でも無いのに夜9時に眠れるだろうか?まぶたの攻防戦と同じように、看護師は目を開けさせたいときにはその権利があり、目を閉じさせたいときにはその権利があるのだ。

 そう、看護師というルールは絶対だ。顔のないルールに逆らうことは許されない。竹宮が置いていった漫画雑誌をペラペラと読んでいると、スポーツ漫画が載っていた。どうやら主人公が不条理な審判に対して抗議していたが、ルールに従い失格退場になるのを恐れ部活仲間から止められていた。

 スポーツ漫画の場合は敵は審判やルールではなく戦っている別のチームだ。けれど審判という看護師、この絶対者が敵の場合、人はどうすれば良いのか?

 もし犯罪者で敵が刑務官や法律というルールなら、昔見た『ショーシャンクの空に』という映画のように脱走することができるだろう。しかし脱走したあとになにがあるのか?ぼくの場合は相変わらず親という状況があるだけだ。

 では四人部屋でのオナニーを、精神病院を妥協し耐え続けなければならないのだろうか?

 あの忌々しいオナニーの喘ぎ声と共に、閉鎖病棟の糞尿と食事の混ざった匂いや、ポリバケツの中の白米や小魚や味噌汁がごちゃ混ぜになった光景がモチーフとして何度も現れる。ただ一つ竹宮の言った「四人部屋が強制的」だという文句が彼の中で引っかかっていた。

 ごちゃ混ぜとなった思考の中で、海藤は四人部屋の違和感──ここでは年齢も、障害の種類も関係なく平等にされるのだという違和感──を思い出していた。その違和感の正体が分かった気がした。その正体は障害も年齢も違う人たちが、四人部屋に押し込められ、看護師という絶対のルールによって強制的に平等にされるという恐怖の事だったのだ!



 海藤の考えたこと(尤も、精神病院に入っていれば誰もがいずれは気がつく考え)を分かりやすく言えば、ロクちゃんのオナニーを改めて考えると分かりやすい。

 オナニーに限らず人間の生理は汚いということはすでに述べた。ではセックスの場合、それも誰もが嫌悪感を覚える親同士の場合を例にとって考えてみよう。普段抑制して意志の力で考えないようにしているもの。セックス中の親の汗、喘ぎ声、粘ついた唾液、赤く垂れた血。

 もちろん、わたしたちは普段こんなものに対して意識しない。もし他人という鏡がいなければ、おそらく一生意識せずに済むだろう。

 オナニーしている当人や、クチャラーの当人は意識せずに済むし、他人からそれが汚いと指摘されるまで知らずに済まされる。意識しだすのは、他人と自分の身体が全く同じものであると知ったときからである。

 そして、精神病院という強制的な四人部屋では、普段意識せずに済んでいたこの根源的な汚さ、普段わたしたちがポリバケツに蓋をかぶせ、見ずに済んでいた状況を強制的に見せつけられる。

 ここでは逃げ道がないのだ。わたしたちは便意を感じたらトイレに行くことを知っているし、もしオナニーしたくなっても、トイレですることを知っている。それらを他人に見せるなど考えたこともない。

 しかしこのトイレの中、四人部屋という強制収容所、白米も味噌汁も小魚も一緒にされるポリバケツの中では、(竹宮の言い分ではないが)なにも隠すことができず、プライバシーは完全に破壊され、否応なく他人のオナニーやクチャラーを見せつけられても、非難する権利すら持っていない。

 というのも、例の看護婦の態度から分かるように、ここでは障害者、患者は人間ではないのである。

 もし健常者と障害者の間に差別が存在せず、看護師と患者の間に否定が存在していなければ、誰が知的障害者もうつ病患者も自閉症も健常者の海藤も同じ患者として四人部屋にまとめて入れるなどと言う非人道的な発想が出てくるだろうか?

 万引きした犯罪者と、死刑宣告された殺人犯ですら刑務所内では区別されるだろう。

 というのもわたしたちは彼らが犯罪者であろうと同じ人間であることを知っており、共感によって人を殺したいほど憎む状況というのが理解できるからだ。

 閉鎖病棟について具体名を出して例えれば、安藤昇と青葉真司と永山則夫と麻原彰晃を同じ牢内に入れるほどの無理がある。

 その状況、カオスさは、閉鎖病棟よりも一般病棟のほうが実は目に見えてはっきりしている。例えば麻原彰晃やその他端本悟や豊田亨らオウム幹部が同じ牢内にいても気にならないだろうし、弁護士が彼ら一人一人の個人の尊厳を訴えかけたとしても、「でもあいつらはオウムだから」と言われればもう一般人にはなにが問題となっているのか分からなくなる。(良いじゃないかあいつらはオウムで頭のおかしい連中なんだから。我々一般人が関わる必要があるだろうか?オウムの幹部が全員頭がおかしいのが分かっているのみなぜ一般人があいつらを気にする必要があるのか?)

 しかし高島雄平と袴田巌と引越しおばさんと麻原彰晃が同じ牢内にいると考えれば、その事件性や罪の刑罰からなにからまるで違うことがよく分かる。そして一般病棟の四人部屋とはこの状況のことなのだが、誰かが「でもあれは障害者だから」と言えば、その言葉に健常者は全員納得し、オナニーする知的障害者とうつ病患者は全く同じ「障害者」であり、たまたまのこぎりを持っていただけで現行犯逮捕された山本啓一と麻原彰晃が同じ牢内にいようが、まるで気にも止めないだろう。

 そう、四人部屋の話しは結局ここに行き着く。完全な平等さによって人間が一つの物に、レッテルに、枠に定義されてしまう事。金太郎飴のように全て同一化され、画一化されていくことの怖さ。

 これが令和でもまだ続いているということ、それは海藤が見た悪夢以外のなにものであるだろう?


 しかし海藤のように間違って精神病院に入れられることでもない限りは、あの看護婦のような態度をとるのは当然だと思われる。

 もし彼女の目の前で女がオナニーしていたら、それを汚いと怒る権利が彼女にある。しかし障害者がオナニーしていたら、「彼らは障害者なのだから」という言葉によって彼女は、いや一般人は、全ての嫌悪感から逃れられるだろう。(だって怒ってもしょうがないじゃない?彼らは障害者なのだから。チンパンジーがオナニーしていたとしても、そのチンパンジーを責める権利があるかしら?人間と動物では同じ立場ですらないのに?あの患者が目の前でオナニーを見せられたと怒っているのが、私ひとつも理解できないわ!だってチンパンジーのオナニーに怒るチンパンジーなんて見たことがないもの!)

 これらは社会に出るにあたって一度捨てたもの──あの人権や自由といった青臭く恥ずかしい考え──であるため、普段臭いものに蓋をするように見ずに済んでいるものだ。誰がわざわざ蓋を開けて中身を確かめにいくだろう?この自伝的小説はその蓋をわざわざ開けて確認する作業でもあるが、しかし筆者の考えなどはもう充分だ!

 彼らの話しに戻ろう。



 竹宮は海藤から聞いた閉鎖病棟の話しを思い出しながら、あの喫煙室で会った30年も入っている統合失調症の男について考えていた。彼にとって外の世界は未知のために恐怖でしかなく、実は精神病院という檻の中に好きこのんで30年もの間安住しているのではないだろうか?

 もっとも、任意入院している自分だって似たようなものだなと彼は独りごちた。

 竹宮は外の世界どころか、精神病院内でさえ絶えず緊張し、怯え、マスクと帽子をつけているのだから。

 ベッドに仕切りを作ってくれるカーテンですら彼を不安から守ることはなかった。彼にとっては、身体が露出しているのではなく、精神が裸のまま露出しているのだから。

 子宮から出てきた赤ん坊が皮膚の痛みを訴えかけて泣くように、あるいは包茎のペニスを初めて剥いたときに風が当たるだけでも痛いように、精神が露出してしまっていた。マスクや帽子や抗不安薬は、彼にとって赤ん坊を温める服であり、ペニスの皮であった。

「なんで夕食に出て来なかったんですか?昼食には出てきたのに」

 福良の心配そうな声が聞こえたが、それは海藤に語りかけていた。

「ああ、すいません。ちょっと食欲がなくって」

 そう答えたものの、半分は本当だったが、半分は嘘だった。

 あの夢から覚めたら夢で、また夢から覚めてもまた夢だという悪夢は、海藤にとって一般病棟でもまだ悪夢が続いていることを意味していた。

「おれもよく食欲がなくなることがあるんですよ」

 福良はぽつりぽつりと語り出す。「でも空腹のときは調子がいいですね。なにも考えずにボーッといられて...」

 海藤はあの閉鎖病棟の時期を思い出した。自分の声が延々と止めどなく語りかけてくるやりきれない時期。「福良さんもそんな経験が?ぼくもなにも考えずにいられたらどんなにいいかと望んだことがありますよ」

「よくあることですよ、こんなとこなんかでは...そういえば丸一週間食べずに過ごしたことがあります。不思議なもんで、3日を過ぎると胃が収縮するのか空腹を感じなくなる。そのままゆっくりと緩やかに死んでいけたら...」

 海藤はそれ以上聞くのが怖くなって、「きっと理由はここの飯が不味いせいですよ」と冗談を飛ばす。カーテンからは福良の自嘲気味の笑い声が返ってきた。

 現在に耐えられない人は未来に救いを求める。未来がない人は過去の思い出になぐさめを見出す。しかし海藤にとっての1ヶ月後という未来も、福良にとっての8年後という未来も、想像の及ばないほど長すぎた。彼らはふざけた冗談だけで現在を耐えていた。


 やがて消灯前に、ハアハアというロクちゃんのオナニーする声が聞こえてくる。海藤は無駄だと知っていながら、けれどまったく徒労に終わり、希望を持たず、また看護師たちに抗議しに行くところだ。

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