2球目 野球は”投手”だ!

「出席番号十七番……西郷にしさと退盛ひくもりです。ちゅ、中学では野球をやっていました。よろしく、お願いします……」


 最後の方は消え入りそうな声になりながらも、西郷は無事自己紹介を終えた。

 パラパラと、まばらな拍手が起きた。誰とも目を合わさないように下を向いたまま、急いで自分の席へと戻る。西郷と入れ違いで、次の男子生徒が壇上に上がった。


 人前に出るのは苦手だった。

 ユニフォームを着てマウンドに登る時はゾクゾクするが、それ以外だと、全然違う緊張感がある。もっとも、それは席に座っているクラスメイト達も同じなようで、教室を見渡すと皆何と無く不安げな顔色を浮かべていた。西郷は椅子に腰掛け、それから自分の『前の前の席』に座る東明未来の背中を見つめた。


 新学期。


 結局西郷は彼女に半ば押し切られる形で、神奈川県は仁馬山じんばやま高校なるところに入学した。

 つい二年前にできたばかりの、新設の公立高校である。どちらかと言うと都会よりも山に近い高校で、おかげで生徒の数は多くない。西郷の友人達も、大半は都心の私立とか、あとは彦浜だとか西海大付属だとか、全国でも超有名な甲子園の常連校に入学して行った。


 当然、仁馬山高校にはまだ野球部もない。

 西郷は深々とため息をついた。

 

 全く、とんだ山奥に来てしまったと言う感じだ。とくにこの、東明未来と言う女には参った。売り言葉に買い言葉で、ついつい進学先まで決めてしまった。オマケにこの女ときたら、


「出席番号十五番、東明未来です。好きなものは野球です。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします!」


 ……などと懇切丁寧に頭を下げ、優等生っぷりを振りまいていた。持ち前の美貌もあって、すっかり男子生徒を虜にしてしまっている。とは性格が変わっているではないか。キラキラと眩しい笑顔のその下に、何だか禍々しい感情ものを渦巻かせていたのを思い出し、西郷は背筋を震わせた。


「西郷くん? 大丈夫?」

「ン? アぁ……」


 後ろから西郷に声をかけてきたのは、先ほど自己紹介を終えたばかりの出席番号十八番・沼崎智ぬまさきさとしだった。西郷とは、このクラスでは唯一の同じ中学校、幼馴染の男子生徒だ。


「でも意外だな」

 休み時間。沼崎は小動物のような目を丸くさせつつ、小首をひねった。

「西郷くんは、野球部のある高校に行くもんだと思ってたけど……」

「まぁ、な……。人生色々あんだよ。ハハ……」

 乾いた笑いが漏れる。沼崎は持ち前の人懐っこさで、誰とも……西郷とすらも……仲良くなれる好青年だった。ただし、運動はからっきしだ。

 

「じゃあ、何部に入るの?」

「野球部」

「え?」

「ん?」

「だって……」


 ポカンと口を開ける沼崎に、西郷は、何故か少し恥ずかしそうにポリポリと頬を掻いた。目の端では、東明未来が早速仲良くなった女子生徒と、楽しそうに笑顔を弾けさせる姿が映っていた。

「なかったら、これから作るんだよ」


□□□


 ……とは言ったものの、実際問題どうしていいのか、西郷にはさっぱり分からなかった。


 思えば中学校までは、西郷にとって野球部は、舞台グラウンドはいつもあって当然のものだった。運動場には大体マウンドやフェンスがあったし、学校に行けばのバットやボールがあった。しかし、そもそも『部活』から作るとなると……。


 まず必要なのは……やっぱり『グラウンド』、いや『道具』だろうか?

 ボールがあれば、少なくともキャッチボールはできるだろう。それから『部員』。最低でも十八人、いや九人は要る。じゃないと試合が出来ない。まぁ『グラウンド』が無いうちは、近所の公園でトレーニングして……部活なんだから『部室』は要るだろう。それに『監督』、『部費』の管理にその他諸々の『手続き』……そもそも公式大会に出場エントリーするためには、何が必要なのだろうか?


 ……考えるだけで頭が痛くなって来た。


 しかも期間は、たった三年と来たもんだ。

 甲子園に出るには春二回、夏三回の合計五回しかない。チャンスは五回。

 その間に『部活』を立ち上げ、『部員』を集め、設備を整え練習し甲子園に出てしかも優勝する……?


「……できるのか?」


 入学早々、思わず口をついて出た言葉が、西郷に重たくのしかかった。

 帰り道、校門のそばに咲いていた桜が、彼の頭上で気持ち良さそうに満開の花びらを咲かせていた。


□□□


「まずは投手ね」

「うおォッ!?」


 突然後ろから声をかけられ、西郷は飛び上がった。東明未来だった。風に靡かせた黒髪が、陽の光を透かして淡く輝いていて、西郷は思わず目を細めた。


「おまッ……どこにいたんだよ!?」

「先発を後二人は育てないと。それから……」

「ちょ、ちょっと待て!」

「……?」


 まだ心臓がドギマギとなり続けている。西郷は、それよりも『部活』の立ち上げはどうするのかとか、『試合』に参加するためには何が必要なのかとか、色々な考えが頭の中を駆け巡った挙句、


「先発って……俺は!?」

 と口走っていた。未来は、逆光の中、先ほどの教室とは打って変わった冷たい口調で、静かに呟いた。


「一人で戦っていくつもり?」

「……!」

「甲子園って、のよ。何十試合も戦わなくっちゃあならない。神奈川だと地方大会だけで八試合。全国大会で五、六試合。投手は何人いても足りないわ」

「で、でも……」


 さらっと『全国』を口にする東明に肝を冷やそうになりつつも、まだ何か言いそうになって、西郷はふと気がついた。


 もしかしたらこの女……東明未来は、? と。


「……何?」

「いや……」


 西郷は恐る恐る未来の目を覗き込んで、それからすぐに視線を逸らした。


 この女は、多分自分とは逆だ、と西郷は思った。


 マウンドに登ってからスイッチを入れる西郷と、マウンドの外で、戦うことを考えている未来。彼女が教室の中でガラッと性格が変わる理由が、少し垣間見えた気がした。教室は、彼女にとって『マウンド』なのだ。そして変な話だが、『マウンド』から降りると、東明未来にとっての『野球』が始まる。

 

「と、東明ってさ……普段」

「はいこれ」

「うわっ……!?」


 未来は西郷を完全無視し、彼に紙袋を押し付けた。中には、どこから用意したのか大量のグローブが入っていた。


「入学するまで、内外野の練習は怠けてなかったでしょうね?」

「あ? あぁ……」

 半ば呆気にとられながらも、西郷は頷いた。

 内外野の練習。あの敗戦の後、未来に言われてのことだった。しばらく放心状態だったので、投手以外を練習するのは気晴らしにもなった。西郷の返事に、未来がようやく表情を崩し、小さな笑みを見せた。西郷もようやく緊張の糸を解いた。


「良かった。野手が点を取らないと、勝てないから」

「あぁ……」

「明日から目ぼしい生徒に声をかけて、まず『部員』を集めましょう」

「……あぁ、だな」

「じゃ、私はこれで」

「あ……オイ……」


 西郷が呼び止める間も無く、未来はくるっと踵を返して歩いて行ってしまった。大量のグローブが入った紙袋を抱えて、西郷はその場に立ち尽くした。


 ……結局、何も解決していない。


 それでも、西郷は何故か、少し肩の荷が下りたような気分になった。


 結局自分はマウンドに上がり続けるしか、グラウンドに立ち続けるしかないのだ、と西郷は思った。自分の『力』を証明する場所は、そこしかない。それに、時間だって限られている。ここはあまり深く考えず、目の前のことを一つ一つやっていくのが良さそうだ。そう、彼女の言う通り、戦っているのは何も自分一人ではないのだから……。


 西郷は期待と不安が入り混じった気分を抱え、自分が新入生だったのを思い出して、笑った。そうして、東明未来は何故『野球』をやっているんだろうかと、そんな疑問が彼の頭をふとよぎった。

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