第5章 煌

第21話

 巨大な噴水が鎮座する広場で、月夜と真昼は沈黙していた。沈黙、といっても、呼吸はしているし、心臓も動いている。瞬きもいつも通り実行される中で、口だけが完全に閉じられていた。二人は石造りの椅子に座っているが、それ以外は何もしていない。空は曇っていて、すぐ傍に立てられた一本の電灯だけが、この空間に存在する光のすべてだった。


 冷たい風が吹いてくる。真昼はコートを身に着けているが、月夜はブレザーしか羽織っていなかった。月夜はもともと体温が低いから、空気が冷えていても、相対的な温度差はあまり生じない。それに反して、真昼は体温がそれなりに高いから、空気が冷たいと、温度差が生じて、あまり長時間は耐えられなかった。だから、彼はコートを着ている。けれど、真っ当な理由がなくても、自分はきっと出かける際にはコートを着るだろうと、彼は、なんとなく、そう思った。


 衣服には、様々な意味が込められている。だから、その意味を理解していないと、自分に最適な衣服は選べない。また、まったくその逆に、自分に適さない衣服をあえて選ぶことで、今度は、自分そのものに込められた意味を、違ったものに変えることもできる。こうすることで、他者に異なる印象を与えることが可能となる。月夜は、学校がある日は制服を着ているから、それを見た人は、彼女が学生である、と認識する。すると、まず、彼女、という人間性よりも、学生、といったステータスが印象づけられ、それが「月夜」という人間とリンクする。結果として、月夜イコール学生、といった意味が観察者の脳内に付与されて、長期的な記憶して残ることになる。


 月夜は、別に、そういう効果を狙って、制服を着ているわけではなかった。着なくてはいけないから、着ている、という理由でしかない。彼女は、基本的に、規則やルールを積極的には破らない。破る必要がないし、破ったことがばれたら、あとで面倒になる、と危惧しているからだ。そんな面倒事を上手く対処できるほどのエネルギーは、彼女の体内には蓄積されていなかった。いや、どちらかというと、意識的に蓄積していない、といった方が近い。


 真昼は自分の腕時計で時刻を確認する。すでに曜日が変わって、次の日になっていた。月夜は、今日の朝学校を出てから、まだ一度も帰宅していない。学校が終わると、近くの公園に移動して、そこで一度帰宅した真昼と合流し、歩いてこの広場までやって来た。散歩、と表現すれば、それらの行為に具体的な意味が生まれるかもしれない。しかしながら、月夜は、今現在までの自分たちの行為を、散歩だとは思っていなかった。


 それは、デートでもない。


 それでは、いったい、なんだろう?


 分からなかった。


 そして、分かる必要もなかった。


「どうして、寒いの?」


 月夜は、珍しく、自分から会話の機会を設けた。


「どうして、というのは、どういうことを訊いているの?」真昼は月夜を見て応える。


「なぜ、今日は、寒いのか、という質問」


「それは、僕には分からないよ。気象予報士にでも訊いてみたら?」


「どうやって、訊くの?」


「君は、どうして、そんな質問をしようと思ったの?」


「うーん、どうしてだろう……」


「自分で、自分のことが分からない?」


「うん、分からないことが多い、と、思う」


「それは、僕も同じだよ」


「君は、私のことを知っている?」


「君以上に知っている、とはいえないけど、でも、だからといって、充分に知っている、ともいえないな」


「どういう意味?」


「そのままの意味」


「寒いのは、寒く感じるように、私の身体ができているから、かな?」


「そうだね。それは、確かにいえることだ」


「君は、寒く感じる?」


「うん、かなりね」


「私は、かなり、ではない」


「そうだろうね。君の身体は、冷たいから」


「私の身体に、触れたことがあるの?」


「あるよ。掌とか」


「掌は、身体?」


「身体、という言い方は、変?」


「ううん、変ではない」


「じゃあ、どういうこと?」


「身体とは、何か?」


「何、という質問には答えられないけど、細胞の集合であることは、間違いなさそうだ」


「じゃあ、細胞は、寒さを感じるの?」


「それは、どうかな。やっぱり、僕には分からないよ」


「誰なら分かるの?」


「きっと、君なら」


「私?」


「そうだよ」


「でも、そうかな」


「知らないよ、僕は」真昼は笑った。「君なら分かるかもしれない、という、不確定で、酷く当たり前のことを、言ったにすぎないんだ」


「そっか」


「でも、一般的にも、今日は、気温が低いよ」


「うん」


「君は、暑いよりは、寒い方がいいんだっけ?」


「そうだよ」


「じゃあ、よかったじゃないか」


「うん、よかった」

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