また君の夢を見る

泉花凜 IZUMI KARIN

第1話 鉄仮面生徒会長の苦悩

「……かねてより我が校は、今から五年前に新設された公立の学校であります。数々の伝統校が立ち並ぶこの『木立市』において、文化祭を四日間も開催する学校は、我が校くらいなのではないでしょうか。文化祭というものはひとえに……」


 マイクを持ち挨拶を述べていると、校長先生の時とはまた違ったざわめきが、どちらかというとひそひそささやくような声が聞こえた。


「出たよ……。『ターミネーター』……」


 一年生らしきまだ幼さの残る少年声が、耳に突き刺さった。いつものことなので特に気に留めることもなく―気に留めないように努力して―周りの視線をはねのけながらスピーチを続けた。その間にもちらほらと僕を噂する声が聞こえる。


「いつ見ても迫力あるな……。『ターミネーター』……」

「髪の手入れしているのかね……。ボサボサだよ……」

「あんな昭和のコントみたいな眼鏡、どこで売ってんだ……?」

「しかし目つき悪いな……。指名手配犯の写真みたい……」

「制服だけはまともに着ているんだね……」


 男子からも女子からも聞こえるその勝手な台詞にもう憤るような感情はなく、ただ、ああ、またか、という一種のあきらめの感覚があった。

 そして、毎度のごとく決め台詞のような一言を、皆は発するのだった。


「どうしてこんな人が、生徒会長なんだろう……」


 三分ほどの挨拶スピーチをようやく終え、僕は心の中で溜め息を吐いた。相変わらず皆の反応は厳しいな、と思いながら座席に着いている生徒たちの顔を見捉える。皆は一瞬、びくりと怯えるように固まったがすぐに姿勢を正して、早く始まれ、祭りよ、と僕をにらみ返すように強い視線を向けた。僕はその時、確信した。文化祭は成功すると。導火線の火を点けるため、台詞を放つ。


「お待たせしました。木立(こだち)高等学校第五回文化祭オープニングセレモニー、スタートです」


 垂れ幕が上がると同時に、トランペットの音が勢いよく鳴り響いた。アップテンポの軽やかなメロディーに乗せて、吹奏楽部の演奏が始まった。会場の生徒たちがわあっと歓声を上げる。拍手が巻き起こる。幕が完全に上がり、ライトに照らされた舞台はお祭り学校の始まりにふさわしい立ち上がりを見せた。生徒たちの手拍子が始まる。皆の目が輝いている。本当にお祭り好きのノリのいい人たちが集まった学校だな、と僕は舞台裏にはけながらそんなことを思う。

 大講堂の中は、生徒たちの熱気で満ちていた。

 舞台袖から見ると、青空のような眩しい色のネクタイと落ち着いた桜色のリボンタイが縦一列に交互に並んでいた。そのネオンカラーは濃紺のブレザーに不思議なほどよく合っていて、今時の洒落た雰囲気をかもし出していた。興奮したざわめきに満ちている大講堂。いよいよ文化祭第一日目が始まる。トップバッターを務める吹奏楽部の人たちは気合いを入れて演奏していた。

 表とは一変した薄暗い裏のスペースで、次に控えるバトン部のショーのため部員たちを誘導していた生徒会メンバーが、僕の周りに集まってくる。

 生徒会副会長が、最初に声をかけた。


「よっす、ヒロ」

「おはようございます、佳明(よしあき)」


 テレビに出てくるような爽やかな品のいい顔立ちの男子が、僕を見るとクシャッと笑った。暖色系の茶色に染めた髪と道歩く人が全員振り返りそうな美貌が、僕の目に眩しく映った。

 原田佳明(はらだ よしあき)は、僕とは違った意味で全校生徒から注目を浴びる人物である。彼の役職は生徒会副会長。僕を補佐する仕事で、ほぼ三年間忙しすぎる学校行事を二人で切り抜けてきたので腐れ縁と言ってもよかった。何よりも決定的に違うのは、彼は皆から「ヨッシー」と愛称で呼ばれ全校生徒に親しまれている男子だった。

 僕のことを下の名前で呼ぶ人間は彼以外にはいないだろう。佳明は僕の目を見るとおかしそうに吹き出した。


「ヒロ、お前いい加減その昭和の時代でも売ってないだろって突っ込みたくなるような眼鏡、やめろよ。笑いが止まらない」

「これは家の者が買ってきてくれたものですから、ぞんざいな扱いはできません。……そんなにおかしいですかね? 真四角の黒縁眼鏡、というフォルムは」

「どこの眼鏡屋行っても無いだろ、それは! 癖毛もひどいなー。美容院行ってる?」

「行っていますが、たかが髪を切るのにそんなに金額は出せません。……不潔ですか? 校則に反している髪型ではないはずですが」

「不潔じゃないけど、何か笑えてくる。うーん、どうすればもっとイメージアップできるかなー。まずその眼鏡やめてコンタクト……、あーでも、お前目つき悪いからなー」


 佳明はああだこうだ言いながら、ほかのメンバーに次の指示を出した。「流海(るみ)と琉璃(るり)はバトン部とダンス部の列の配置な。仁川(にかわ)は音響に回ってくれ」後輩の二年生の三人がうなずいて、それぞれの持ち場に行く。残った一年生と文化祭実行委員がバトン部の次に控える人気ショー、『先生劇』の小道具を持ち運ぶための準備に入る。『先生劇』はミステリー小説のパロディーで刑事役と犯人役、証言者役に分かれていて、先生たちの配役を見ては生徒たちが好き勝手に騒ぐ、普段とは立場が逆転したおもしろい出し物だ。人気のある先生は黄色い歓声が飛んだりするので、見ている分にはけっこう楽しい。シーンが変わる時に暗転して、すぐに小道具を変えなければいけないので裏方である僕たちはわりと大変なのだが。

 小道具の持ち運びの最終確認ができて、僕は「ここまでで、何か疑問点などはありますか?」と皆に訊いた。生徒会メンバーは満足そうにうなずいて了承のサインを送る。文化祭実行委員の二人は、資料とにらめっこしながら僕の手順を確認している。


「うーん、何もないかな。さすが大塚(おおつか)君。見事だね」


 資料を下げて、文化祭実行委員長の三年生、鈴木蘭堂(すずき らんどう)は不敵な笑みを浮かべた。ふわふわした髪質は僕のボサボサ頭とは程遠く柔らかそうで、高そうな銀縁眼鏡をクイッと上げると、人懐っこそうな瞳を後輩に向けた。


「木実(このみ)ちゃん、大体わかった?」


 一年生ながら文化祭実行副委員長となった諸星木実(もろほし このみ)さんは、艶のいいストレートの黒髪を肩の先まで垂らしながら、蘭堂とは対照的な冷たい漆黒の瞳を伏せて言った。


「問題ありません。大丈夫です」

「そっか、よかった」


 蘭堂は嬉しそうにニッコリと微笑んだ。ああ、こいつはこの女の子に惚れているのだな、と僕も佳明も生徒会メンバーも直感で思った。それに思春期の女子に向かって下の名前で呼ぶなんて、よっぽど信頼関係がないとできない技だ。もっとも蘭堂はフットワークの軽さで有名なので僕にも佳明にも遠慮がないのだが。もちろん、それによって助かっているところもある。


「笹条(ささじょう)さんは、今日の日程に何か質問などはありますか?」


 蘭堂が後輩に気を遣ったので僕もそうしたほうがいいと思い、二歳下の後輩の名を呼ぶ。笹条さんははっとして僕の顔を見つめ、しばらくじっと僕と見つめ合っていると、真っ赤になりながら顔を伏せた。


「……ないです。えっと、足を引っ張らないようにがんばります」


 とたんに周りがどっと笑い、そんなに緊張しなくても大丈夫だよー、と佳明が言って、真剣だったその場の雰囲気は和やかに変わった。

 つくづく不思議だ。

 笹条希美(ささじょう のぞみ)。

 普段は元気な少女だが、僕と目が合うとたちまち挙動不審になる。ほかの生徒会メンバーと話している時は笑顔が絶えないのに、僕と話すと緊張するのか冷や汗が浮かんでいる。僕はその理由を知っている。あの場面だ。

 後輩の仁川が四階の生徒会室の窓から落とした重要な書類を、僕が『そこから飛び降りて地面に落下する前に拾った』あの瞬間。

 空中で一回転し、怪我することなく着地を決めた僕の目の前に、笹条さんが棒立ちになっていた。

 僕も笹条さんを見た。佳明と同じく暖色系の茶色に染めたボブヘアに、大きなパッチリ二重がバランス良く配置されていて、新入生らしくきっちり着こなした制服の桜色のリボンタイがよく似合っていた。僕のこのような超人的な能力を目にした人は、必ずといっていいほど僕を恐れ、一歩引いては仲間内で「ターミネーター」と噂する。僕は、ああ、また噂が一つ増えるな、ほぼ都市伝説と化しているけれど、といつものように冷めた頭で考えていた。

 その笹条さんが、生徒会役員募集に手を挙げたのは、驚きでしかなかった。

 さらに驚くことに、彼女は生徒会メンバーの前で、皆が見ている前で、僕の目の前で、仰天するような台詞を言ってのけた。


「生徒会長、大塚博史(おおつか ひろふみ)先輩! あなたの不死身レベルの身体能力に惚れました! 好きです! 付き合ってください!」


 ポカンと口を開ける佳明たち。僕はあきれながら、ものの数秒で彼女の告白を振り払った。


「お断りします。生徒会は仕事です。仕事に私情を持ち込まないように」


 さらにポカンとする佳明たち。一瞬で振られたことにまだ実感が沸かないような表情を浮かべている笹条さん。僕はそれらを無視して自分の仕事に戻った。

 それでも笹条さんはめげなかった。無事に生徒会に新規メンバーとして入り、次々とやって来る怒涛のような仕事に文句も言わず積極的に取り組んでいった。その点は評価していい。ただ、会ったばかりの相手にいきなり告白するのはどうかと思う。

 そんなことを思い出しながら笹条さんを見つめると、彼女はまた赤くなった。

 舞台ではバトン部の人たちが華麗な技を決めて生徒たちの喝采を浴びている。劇をやる先生たちがぞろぞろと舞台裏に集まる。照明が暗転する。先生劇が始まり、生徒たちの笑い声がどっと沸いた。

 劇が終わり、裏にはけてくる生徒会の顧問の先生に「お疲れさまです」と声をかけた。先生は照れ笑いを浮かべた。

 時刻は十時になった。腕時計を確認して、秒針が数字に触れ時が来たことを噛みしめる。確かな足取りで、僕は舞台に出る。客席を見渡す。嬉々とした生徒たちの顔が目に飛び込んでくる。ついにこの日がやって来た。


「木立市立高等学校第五回文化祭、開幕です」


 生徒たちは一斉に席を立ち、床に置いてあった学生鞄やリュックサックを持って自分たちの教室へと向かった。列を作って大講堂を出る皆を見送ると、僕は集まって来た生徒会メンバー、そして文化祭実行委員たちと目を合わせた。全員の顔を見渡す。皆の顔に真剣な表情が浮かび上がる。セレモニーが無事に成功した喜びと、これから四日間行われる学校のお祭りを取り仕切るための仕事人の表情が、皆の顔にあった。


「皆さん、各々の仕事は頭に入っていますね?」

 そこにいる皆に、不敵な笑みが浮かぶ。

「それでは、栄えある文化祭第一日目、やり遂げましょう」

 僕の言葉を合図に、皆は挑戦的な眼差しでそれぞれの持ち場へ向かっていった。


 大講堂から外に出た。空は晴れていた。

 秋を匂わせる風が、僕の硬いゴワゴワの黒髪を撫でる。ようやく風が涼しくなったが、まだ強い日差しがギラリと地面を照りつける。それでも気温は幾分下がり、長袖のシャツ一枚にベストを着ても暑くて死にそうだということはなくなった。

 今日は、待ちに待った我が「お祭り学校」の文化祭である。

 この日が来るまで、僕たち生徒会は試行錯誤を繰り返した。どうしたら一般の学校より文化祭を多く開催するこのお祭り学校にふさわしい大イベントを作れるのか、どうやってこの五年ほど前に新設されたばかりの学校をアピールしようか、生徒会長としてメンバーをまとめる僕はおよそ周りの人間からあきれられるほどに必死だった。それは別に愛校心から来ているものではなく、生徒会長という立場にある人間としての振る舞いを意識したせいだった。文化祭はひとえに生徒会としての力量を試されるので、気は抜けない。


「会長~」


 声をかけられたので後ろを振り向くと、同級生が有志でやる『三年生演劇会』に出るためそれぞれの衣装に着替えたよく見知った顔が並んでいた。同級生たちは僕を見ると、突然「ブハッ!」と吹き出した。


「会長、今日は一段と寝癖ひどいね! よりによって文化祭の日に! ストパーかけたら?」

「あー、会長のその眼鏡と髪の毛見たら、一日目の緊張も吹き飛ぶわー」

「それで何で制服だけはそんなに真面目に着てんの? おもしろいなー」


 始めの頃は同級生にも怖がられていたのだが、三年間も一緒に学校生活を過ごせば、僕のこともまったく恐れなくなる。佳明曰く「だんだん慣れてきて、いっそネタにできそうなくらい笑えてきた」のだそうだ。

 下級生はともかく、三年生の人たちには『ターミネーター』と言われることもない。僕の周辺に一線引いたような境界線ができることもない。皆の明るい人間性に心から感謝した。

 僕は佳明のおかげで、五、六人の「ちょっと派手な」男子グループに入れてもらっている。佳明たちは僕をからかいはするが貶めたりはしないので、根はいいやつらなのだと思う。

 佳明が隣のクラスの仲間を連れて僕のほうへやって来た。演出や脚本を手掛けた友達の一人が、ニッと不敵に笑う。


「がんばれよ、生徒会長!」


 僕もまた「ええ」と返し、佳明と一緒に生徒会室へ向かうため大講堂を離れた。仲間たちに笑顔で見送られながら、十月の下旬に差し掛かった秋の空の下を歩く。


「受験勉強の時期なのに、演劇会に出る人けっこういましたね」


 校舎に向かいながらそうつぶやくと、佳明が資料とにらめっこしながら口を開いた。


「まあ、受験組はあんまりいないからな、この学校。あとのやつらは推薦で大学決めちゃうか、就職組だし。最後の文化祭を満喫したいんだろうな」

「四日間もどう遊ぶのやら……」


 僕が少々溜め息交じりに言うと、佳明は笑った。


「ハハ、ヒロは遊ぶって行為が苦手そうだもんなー」

「死ぬほど苦手です」

「あ、やっぱり」


 この学校の三年生は、有志で集まった者が演劇やショーなどをするのが恒例行事になっており、毎年けっこうな盛り上がりを見せる。僕は劇なんて死ぬほど恥ずかしいが、皆は意外とやりたがる。不思議なものだと思う。今ごろ皆は衣装合わせに台本のチェックにと必死になっているのだろう。

 校舎に着いた。階段を上り、四階に出る。主にPC教室が大きく陣取っているこの階の隅に、これまた存在感を大きく放っている立派なドアがあり、そこが生徒会室の部屋である。佳明が興奮した目つきになるのがわかった。


「では、文化祭第一日目ミーティング、行きますか!」

「ええ」


 僕は短い返事だけをして、薄い灰色の扉を静かに開いた。

 これから始まる、「お祭り学校」の最大の祭りを、順序良くスムーズに取り仕切るために。


 木立市は、東京の郊外にある大きな街だ。百年以上続く伝統校が建ち並ぶ西町と、数年ほど前に開発計画のため馬鹿みたいに大きなショッピングモールができた東町。

 活気づいている商店街を通り過ぎ、巨大なショッピングモールを横にそれて、しばらく真っ直ぐ突き進むと、急に視界がパッと開け、ピカピカの真っ白な校舎が見えてくる。そこが我が木立高校である。この学校に通う生徒たちは皆フットワークが軽く、コミュニケーションを何よりも大事にしている。上下関係も厳しくなくて、わりと誰でものんびりとしている。先生たちも穏やかだ。華やかではあるが決して下品にはならない絶妙なところに位置しており、なかなかにセンスがある学校だ、と我ながら思う。

 生徒会室では先に校舎に戻っていた一、二年生たちが打ち合わせの済んだ状態で和やかに談笑していた。十時半に第一日目の文化祭開演メロディーが流れるので、あと十分ほどは余裕がある。僕はホワイトボード側に立って、皆の頭に各自の仕事が完璧に入っているかどうかを確認した。佳明も席に着いて僕の話に耳を傾けている。


「……ということで、一年生の笹条さんと二年生の流海、琉璃は『告白大会』の司会、進行を担当。仁川はクラスの催し物に集中。三日目から生徒会活動に参加。三年生の僕たちは各スピーチと学校の巡回となります。昼休憩時に一旦ここに全員集合。あとは文化祭実行委員から何かありますか?」


 一通り今日の手順をホワイトボードに記して、皆の顔を見渡す。一、二年生と合流していた蘭堂と諸星さんが目配せをする。「何も問題ないよ。がんばろう」と蘭堂が銀縁眼鏡の奥の柔らかな目で僕にそう告げると、諸星さんもこちらに向かってうなずいた。

 十時半が近づく。最上級生の僕たちは最後の文化祭に、後輩たちは一年の学校生活で最大の祭りに心躍らせている。文化祭。生徒たちが主役のフェスティバル。どうか最高の盛り上がりになりますように。

 メロディーが、鳴った。


「行きましょう」


 僕の言葉を合図に、皆は席を立った。


 思えば、勉強、スポーツにおいて何か苦労したという記憶はなかった。季節の流行の風邪に惑わされたこともないし、怪我をしたこともない。人は建物の屋上から落ちたり電車に轢かれたくらいで簡単に死ぬのだということを理解したのは、小学校の時だった。すでに自分の異常なまでの頑丈さに気づいていたのだが、それを隠す必要を感じたのはもっと後のこと。あの時の周りの子どもたちは、そんなことよりも僕の身にかかっている「呪い」を敏感に察知して、親に言われるままに僕のことを遠ざけていた。

 僕と友人になってくれる人などいなかった。笑わない、しゃべらないくせに勉強も運動もできる「化け物」として、周りの目はどんどん冷たくなっていった。

 子どもたちが遠のいていっても、先生たちは僕を受け入れてくれていた。なぜかしらどの先生も僕のことを気に入ってくれた。同い年の子どもより年上の大人たちと話すほうが、正直に言って楽しかった。

 そして、『あのこと』を気に掛けてくれる先生がいた。中学二年生の時の担任の先生だ。優しい年配の女性で、大らかな心を持っていた。先生は親から事情を聞きとり、僕に『あのこと』について精神科へ行きなさいと助言した。先生の調べた病院へ行って治療を受けたけれど、一向に治る気配がなかった。やがて精神科医は「どこか遠くへ引っ越したほうがいい」と助言した。そしてこの街へやって来た。高校進学とともに僕はすべての過去に別れを告げた。

 先生は、中学を卒業した今となっても、僕のことを心配してくれていた。時々来る先生からの手紙を僕は丁寧に読んだあと、勉強机の引き出しに大事にしまっている。返事を書くために。

『あのこと』は、僕の家庭の問題であり、ここにいる仲間たちの問題ではない。『あのこと』を打ち明けてはいけない。佳明たちを引き摺り込んではいけない。そしたらまた中学の時と同じことになるから。僕は誓いにも似た戒めを胸に刻み付けていた。


 生徒会の腕章をつけ、仕事に入る。ガヤガヤと人の出入りしてくる気配がする。とうとう文化祭が始まったのだ。

 蘭堂たちと分かれて、僕と佳明は演劇部の公演が控えている小講堂に行き、生徒会の挨拶を行った。外からのお客さんと初々しい一年生、もうすぐ大人になる三年生が混じり、けっこうな混雑具合だった。

 音声や照明を受け持っている生徒と何度か打ち合わせ問題のないことを確認すると、次は『三年生演劇会』の大講堂に再び足を運んだ。裏方から「問題ないよ」というしっかりした声を聞きとり、軽く巡回したあと生徒会室に戻った。「三年もやってるけど、けっこうな重労働じゃね?」と佳明がぼやくので、「まだまだ学校内すべてのクラスの巡回がありますよ」と釘を打つと、苦笑交じりの笑い声が返ってきた。いつものやり取りだ。

 生徒会室には今、顧問の乾美陰(いぬい みかげ)先生がいる。四十歳の男性で、すらりと高い背に甘くかすれた低い声で、一部に熱狂的なファンがいる。容姿はさすがに四十年の年月が刻まれているが、爽やかな佇まいは女子生徒たちに絶大な支持を集めている。

 後輩の二年生の座席に乾先生は座っていて、興味深そうに僕が書いた当日のメンバーの行動表を眺めていた。


「おお、大塚に原田、見回りご苦労さん。悪いな、ミーティング出られなくて」


 乾先生は僕たちに気づくと、朗らかな笑顔で手を振った。


「しかし、大塚は相変わらずすごいな。これ、メンバー全員分書いてきたんだって?」

「……大したことではないです」


 僕は少しだけかしこまって、乾先生の向かい側の席に座った。ふと、その席が笹条さんのいつも座るところだと知り、何やらモヤモヤとした感情が生まれてきたので居心地が悪くなった。

 一週間前からメンバーそれぞれに個別に渡した当日の行動表のことを、佳明が軽くいじった。「こいつ、クソ真面目なんですよー」「原田、せめて生真面目って言ってやれ」二人の軽いやり取りが続く。僕は笹条さんに渡した彼女の行動表を思い出していた。笹条さんは僕から行動表を受け取る時、目を見開いて、「生徒会長ってこんなことまでやるんですか!?」と驚いていた。佳明が「ここまでするのはこいつくらいだよ」と茶々を入れる。すると笹条さんはポツリ、一言漏らした。「あ、会長の字、綺麗」と。

 その時、突然恥ずかしいやら逃げたいやらわけのわからない激情が僕の身体を駆け巡り、動けなくなった。平静を装って、皆から笑われている真四角の黒縁眼鏡を触りながら、遅刻しないように、とだけ告げた。それしか言えなかった。何だったのだろう。あの感情は。

 壁時計を見る。文化祭開始から四十分ほど経っていた。居心地の悪い座席を離れ、窓辺に寄って下の光景を見てみる。校門脇の受付のところに長蛇の列ができている。中学生くらいの子どもを連れた家族連れが多かったが、他校からの生徒もけっこういた。皆で作った垂れ幕はここからでは見ることができないが、あそこからはよく見えるのだろう。指を差して何か楽しそうに笑っている女の子たちがいた。


「お前たちも、もう三年か」

 ふいに乾先生が懐かしそうにつぶやいた。


「ガキだったでしょ、一年の頃は」

 佳明も笑って答える。


「そりゃあ、十六歳だったしなあ。その年であれだけの業務をこなすのは、やっぱりすごいよ。お前らくらいの年齢の俺だったらまず無理だな」

「そうっすか? 先生、有能じゃないですか」

 佳明が不思議そうに首をかしげた。乾先生が笑う。


「今の話だよ。学生の時の俺は何もやってなかったし、何も考えてなかったね。それに比べりゃ、今の若い子は立派だと思うよ」

「でも俺らだって、ここに入りたての時は失敗ばかりでしたよ。軽くへこみましたもん。このポジティブな俺が」

「ハハ、最初は皆、失敗するものだよ。それで怒られて、知って、学んでいくのさ。そのために生徒会や部活動はある」

 乾先生の言葉に佳明は「ふーん」と相槌を打った。


「最初に生徒会っていうの考えた人、誰なんですかねー」

「誰だろうなあ……」


 乾先生と佳明はすっかりくつろいだ様子で、僕たちのほかに人のいない生徒会室でおもむろに欠伸をしている。だが人気がないのも今のうちで、もう少し時間が経てばたちまち生徒会にヘルプを頼む人たちでいっぱいになることを僕たちはよく知っている。


「そろそろ行きましょう、佳明」


 僕が窓辺に背を向けてドアのほうへ歩くと、佳明も「ああ」と大きく伸びをした。乾先生は「がんばってこい、若者よ」とよくわからないエールを送った。留守番は先生の今日の仕事だ。僕たちは適度に肩の力を抜きながら、これから二日間行われる学校名物、『告白大会』のイベントを開催するため生徒会メンバーを集めた。


 一階のホールで皆を待つ。待ち合わせ場所はいつも決まって僕たちのほうが早く着く。

 待ち時間にパンフレットを読んでいると、二卵性の双子の姉妹、流海と琉璃のいる二組は飲食店をやっていた。今流行りのマスコットキャラクターをかたどったハヤシライスの店で―いわゆる『キャラ弁当』の類で―これを生み出すのに四苦八苦したらしい。苦労の末の産物なので二組のクラスは総力を挙げて宣伝していた。そのおかげもあってか店にはお客さんがすでに行列を作っているらしい。ホールを行きかう人たちは二組のほうへ流れていた。


「すごいなー、流海と琉璃の店。てか、まだ開店時間になったばかりだぞ?」

「早めの昼食を取る予定なのでしょう。学校の文化祭では飲食コーナーはすぐに満員になってしまいますから」

「あいつら、働き過ぎて目回してんじゃね?」

「飲食の出し物は休めませんからね」


 そう言った時、ふと背中にパフッと柔らかいものが当たった。同時に細くてしなやかな腕が背後から現れ、ガバッと抱きしめられた。背中に感じた柔らかい感触は、胸の感触だと思い当たると、僕はドキリとしながらも溜め息を一つ吐いた。こんな行動をするのは、この子しかいない。


「琉璃、ところかまわず人を抱きしめないでください。誤解を招きますよ」

「えー、いいじゃん。スキャンダル起こそうよ」


 胸をグイグイと背中に押しつけている琉璃をどうにか引っぺがし、「誰にでもそういう態度はよくないです」と戒める。初めて琉璃と会った時、すでに「ターミネーター」と噂されていた僕をとても恐れた様子で見つめていたのに、今ではすっかりなつかれてこんな調子である。

 姉の流海はどうしたのかと訊こうとすると、佳明が「お前、またタバコチョコ食ってんの?」と半ばあきれた様子で言った。振り向くと流海がいて、いつものように「これ、シガレットチョコだから」とはねのけた。「いや……それでも、イメージが……」と嘆く佳明を前に「もう私イコールこれだから」と流海は取り付く島もない。毎日どんな時でもこんな調子である。

 改めて、この「美人双子姉妹」と噂されている有名な二人を見比べる。二人とも豊満な胸と抜群のスタイルである。姉の流海は艶やかな黒髪のウェーブロングヘアを垂らして、切れ長の目の左下にある泣きホクロはセクシーだと男子から騒がれていた。さらに何を思ったのか一見タバコに見えるシガレットチョコを中毒のように毎日口にくわえている。しかし仕事はとてもできるので文句は言えない。

 妹の琉璃は、ライトブラウンに染めたサラサラの長い髪を赤いカチューシャでまとめ、お人形のように整った上品なルックスで、男子からも女子からも「お姫様扱い」されている生粋の学年のアイドルである。琉璃は僕を見ると冗談っぽく「とうとう私に落ちる気になった?」と笑った。「僕はスキンシップが過多な人は苦手です」と返すと、彼女は頬を膨らませて「ガードが固い!」と怒った。もっとも琉璃は誰にでもこのような振る舞いをするので、僕だけが特別というわけではないのだが。


「琉璃、あんたノンにも同じような台詞言ったでしょ」

 流海が笹条さんの愛称を口にして、妹を注意した。


「うん、言ったー。だってノンちゃん、可愛いんだもん。私は美しいものが大好きなだけですー。これは言わば、挨拶のハグですよ」

 琉璃はいたずらっ子のようにニッと口の端を上げた。


「そういえば最近、俺には抱きついてこないよな」


 佳明がふと口にすると、たちまち琉璃は「あ、じゃあ今抱きつく!」と言って何のためらいもなく学校一モテる男に抱きついた。お客さんの視線が僕たちに集中していたので、僕はあわてて琉璃を引っぺがした。「人が見ていますよ」「アハハ、ごめん。ヨッシーには最近飽きてきたんだよね」「おい、言っとくけど、そんな言葉が許されるのお前だけだぞ」「ヨッシーの言う通りよ。少しは自重しなさい、琉璃」

 僕たちの会話をお客さんはおもしろそうに見つめている。

 僕は皆を連れてホールから少し外れた場所へ移動し、近況報告を促した。


「調子はどうですか?」

「抜けられそうか?」


 順々に尋ねる僕と佳明に、流海と琉璃は顔を見合わせてアイコンタクトを取った。


「まあ、まだ午前だから」

「クラスの子たちはたくさんいるし、『告白大会』は前半二日のメインイベントだもんね。出るしかないでしょう! 『告白名簿リスト』も全部頭に入ってるわよ、お二人さん」


 二人とも気合いが入っているようだ。得意げな笑みが自信を表していた。

 笹条さんがまだ来ていないので、クラスまで見に行こうかとも思ったが、もうすぐ巡回をしなければいけない。僕たちはもう少しホールで待つことに決めた。「仁川君のお店も大繁盛だよ!」と琉璃が二階のほうを指差した。子どもたちが並んで楽しげに騒いでいた。


「仁川もなあ……。もうちょっと周りが見えてればなあ……」

「つまりは空気が読めてないってことね」


 佳明がぼやくと、すぐさま流海が冷徹な言葉を浴びせる。それに琉璃が「お姉ちゃん、そこまでズバズバ言わなくても……」と遠慮がちな突っ込みを入れた。何だかんだ、僕たちは絶妙なバランスで均衡を保っている。

 時間が来て、笹条さんが「すみません、ギリギリになっちゃいました!」と合流した。仕事を始めるため、双子姉妹たちは中庭の特設ステージへ向かっていった。


「じゃあ、お昼に生徒会で」

「遅刻しないように行くからねー」

 僕たち二人に、その言葉を残して。


 文化祭が来ると、いつも決まって同じ夢を見る。

 母の夢だ。

『あの男』を連れて、中学の時の文化祭に訪れた母。

 僕のクラスの出し物に毎年のように顔を出して、『あの男』と一緒に笑っている母。

 こいつのせいでどこにも居場所がなくて、こんな学校でろくに友達もできなくて、ただ教室の隅っこでじっと耐えているしかなかった僕のことをまったく見ようとしない母。

 あの頃、僕はただひたすらに『あの男』のことを憎んでいた。

 父親だと思っていた。いや、実際に父親には違いなかった。ただその父は、母のことを正式に妻にしようとはしなかった。とっくに籍に入れている女性がいたから。

 母は男に与えられた第二の邸宅で、僕を育てた。周りの冷ややかな目に何となく気づいていた。僕は、どうやらほかの皆と違う子どもらしいと。

 母はとても若くして僕を産んで、地元の職場で働いた。男から金銭的な援助を受けて、時々自分の家にやって来る男を喜んで迎え入れた。

 いつもより気合いの入った手作り料理を出した母は、上機嫌だった。僕はやけに豪華な料理を男の隣でぼそぼそと食べていた。美味しいよ、と男が言うと、母は幸せそうに笑うのだった。

 それから中学を卒業するまでの間、男は本当の家庭と僕たちの家を何度も行き来した。しょっちゅう僕たちの家に来ては母の料理を食べて、歯の浮くような台詞を言ってのけるのだった。

『あのこと』が僕の身に起きると、男は僕たちに莫大な慰謝料を払って、母を追い出した。そして僕と母は呪われた家を出て、東京へ移った。郊外の市のささやかな建売住宅を買って、過去を完全に消した。


「このお金はヒロのためにあるからね。ごめんね。こんな状態になるまで放っておいて。ここで新しい生活を始めようね」


 母は泣きながら謝っていた。その母の泣き顔は、今でもよく覚えている。

 文化祭に来た母の夢。涙を流しながら僕に誓った母の言葉。

 この日が近づくと、必ずと言っていいほど思い出す。


 文化祭実行委員長の蘭堂、諸星さんと打ち合わせに入る。この日の変更点は、空模様の関係上、中庭でやる予定だった『告白大会』が一階のホールに移動になるという件だった。


「早いうちに準備に入ったほうがいいでしょう。場所のセッティングを行います」


 僕が指示を出すと佳明も蘭堂たちもさっと動いて、先生たちとともに一階のホールの一番目立つ場所に教壇をいくつか用意し、簡易ステージを作り上げた。流海、琉璃、笹条さんやほかの委員たちも忙しく動き回った。

 空はいつの間にか分厚い雲に覆われていた。もしかしたら一雨来るかもしれない。雲の中から太陽の輪郭がぼんやりと浮き出ていた。光が弱々しい。先ほどまであんなに晴れていたのに。

 リストに乗っている生徒たちにいくつか変更点を話し、男子グループと女子グループのトップバッターたちがそれぞれ立ち位置の変更を確認して、ステージの移動が決まった。後輩の生徒たちは僕のことを恐れているのか、怯えた目をしてヒソヒソとささやき合っていた。三年生は僕に慣れているので普通の対応だったが。

 もうすぐ始まる『告白大会』の準備はこれで終わり、今のところ祭りは順調に進行していた。  

「あなたが好きです! 付き合ってください!」女子生徒が勇気を振り絞ってステージ上で男子生徒と向き合う。「よろしくお願いします!」男子も勢いよく頭を下げる。司会進行の双子姉妹が「おめでとうございまーす!」とマイクで言うと、笹条さんたちがクラッカーを鳴らす。リボンテープが飛んで、恋人同士となった二人の生徒は手を繋ぎながら壇上から降りる。

 文化祭前半二日で行われる『告白大会』は、五年前の第一回目文化祭の時に当時の生徒会長が愛の告白をして大成功に終わったという伝説から、この日に思いを伝えると相手が受け入れてくれるというジンクスがあるのだ。女子はジンクスというものが好きらしく、「告白大会にあなたと出たい」と事前に相手に伝え、文化祭を待つ。だからここに出場している者は「出てもいい」「この子となら出たい」とすでに相手に好意を持っている男子生徒しかいないので、たいていは上手く行く。もちろん男子から女子を誘う一例もある。

 周りを見渡すと、ギャラリーの生徒が男女ともに固唾を飲んで見守っていた。大会参加者の中で一番の目玉の生徒が、前半戦のトリを飾るのだ。恋人同士になった参加者たちに拍手を送りながら、会場の皆は「ああ、私の憧れの人が……ほかの女のものに!」「俺の天使が食われる……!」と煩悩にまみれた発言をしていた。

 トリの生徒が、男子生徒のほうからステージに上がり、マイクを受け取って堂々と立った。相手の女子生徒が少し緊張気味にそっとステージに上がった。観客たちは一際大きな拍手と声援を送った。


「木実ちゃん、俺の気持ちはもう知っているね?」


 蘭堂の低い声がマイクを伝わって、甘い響きとなって会場の女子たちに一撃を喰らわせた。取り巻きの女子たちは全員一斉に感嘆の溜め息を漏らした。


「……はい。先輩」


 諸星さんが俯きがちにマイクで言った。諸星さんのファンの男子たちが彼女の名を呼ぶ。


「もう焦らさないで。今日一度しか言わないから、よく聞いて」

「……はい」

「大好きだよ」

「……はい!」


 ギャーッ!! と女子たちが悲鳴を上げて、何人か倒れそうになった。「蘭堂せんぱーい! 私にも言ってー!!」と手を振り上げる女子たちと、「木実ちゃんがぁぁ……! マイエンジェルがぁぁ……!」と頭を抱えて唸る男子たちで、会場は歓声と悲鳴と唸り声で混沌と化した。蘭堂と諸星さんが手を繋ぐと、またあちこちで悲鳴が上がり、まるで芸能人の結婚式パレードのごとく写メのフラッシュがたかれた。


「皆、ありがとう! 幸せになります!」


 蘭堂が舞台俳優のようにスマイル全開で言うと、諸星さんの手を引いてゆっくりステージを降りた。ファンの人たちは最後まで「フゥ~!」と盛り上がっていた。


「……アイドルが大物芸能人と結婚したみたいな空気になってる……」

 佳明が引きつった笑みで乾いた笑いを漏らしていた。


「あなたのポジションも危ないですね」

「……いや、俺あそこまで目立ちたくないし……」


 いまだ観客に囲まれて記者会見のごとくインタビューを受けている蘭堂と諸星さんを遠巻きに見つめながら、僕たちは「すげえな、鈴木蘭堂……」と何だか敗北したような気持ちになった。

   

 蘭堂たちがようやくこちらに戻ってきて、腕時計を見ると昼休憩時の時間帯になっていた。メンバーを連れて部屋に入ると、乾先生が次々と鳴る電話に応対していて忙しそうだった。とりあえず電話が鳴り終わるのを待ち、一段落したところで乾先生に声をかけると、どっと疲れた声が返ってきた。


「いや……。毎度のことながら大変だわ……」


 苦笑しながらぼやく先生に、佳明と蘭堂が「お疲れ様―」と労いの言葉をかけた。

 琉璃が仲良く流海と手を繋ぎながら「ただいま五組のカップル誕生! 蘭堂先輩の告白が一番盛り上がりましたよ!」と嬉しそうに報告した。最後に仁川があわてて生徒会室に飛び込み、「すんません! いろいろと忙しくて遅れました!」と部屋中に響くような大声で叫んだ。


「仁川君、お化け屋敷すごく盛り上がってるでしょ? でもうちのクラスも負けてないもんねー」

「いやいや、俺らのクラスがエンターテイメント賞だね! 琉璃たちのクラスなんか敵じゃないぜ!」

「それはそうと、あんた何でそんなにボロボロの格好なの?」


 琉璃と仁川が言い合いっている中、流海が冷静に仁川の薄汚れたクラスTシャツを指摘した。仁川は「お化け役って、すげー身体張るんだよ! もう芸人並みだよ!」と興奮した面持ちで説明したが、まるで説明になっていなくて皆は爆笑した。学校側が設けている、主にアトラクション系の出し物を扱っているクラスを対象とした「エンターテイメント賞」と、飲食店を扱うクラスを対象とした「美味賞」に、琉璃と仁川は闘志を燃やしていた。ちなみに一年生を対象とした「展示賞」や三年生のための「演劇賞」などもある。

 佳明が「おーい、会議始めるぞー」と皆を静かにさせたが、そこで僕はあと一人が来ていないと気がついた。


「……笹条さんは、どこにいるのですか?」


 彼女だけが、集合場所にいなかった。


 アイフォンにも出ないので、乾先生に会議を先に進めてくれるよう言い置いて、僕と佳明は笹条さんを探しに出かけた。「トイレに行くって言ってたから、そろそろ来るはずなんだけど……」と不安そうにしている双子姉妹から事情を聞いて、笹条さんがいそうなところを当たってみた。


「今日は何だかおかしいですね。普段は遅刻などしない方なのに……」

 若干心配になりながら、人で賑わっている廊下を歩いていると、佳明がポツリと言った。


「お前、いい加減答え出してやれよ」

「……はい?」


 佳明の言っている意味がわからず、僕は呆けた返事しかできなかった。佳明はさらに追い打ちをかけるように言葉を放った。


「ほら、笹条の告白。ずっと保留のままだろ」

「……彼女の告白なら、一度きっぱりと断りましたが」

「それでもあいつ、めげずにアタックしているじゃん」

「……何が言いたいのですか?」


 じれったくなって、僕は少し苛立たしげな声を出してしまった。佳明は困ったように笑うと、うんと背伸びをして開けっ広げに答えた。


「実は、俺もとある女の子からずっと告白されているんだ。皆に内緒で」

「……そういえば、あなたが告白大会に駆り出されていないのは疑問ですね」


 たくさん言い寄られただろうに、と相手を見つめると、佳明はふと真剣な顔をした。


「今、二度目の告白をされるかもって状態。それで今度は諦められるくらいにバッサリ斬ってあげようと思って。……つまりさ、相手を傷つけなくちゃいけない時もあるんだよ。告白されてどうしても無理だったら、曖昧な返事はしちゃいけないんだ。もう二度とこんなやつ好きにならないって思われるほど、嫌われなきゃいけない。俺はずっとそうしてきた。だから俺に恨みを持っているやつ、けっこういる。それでも俺はそうしなきゃいけない。中途半端な態度が一番どっちも傷つくんだよ」


 佳明の言っていることは、わかるようでいてわからないようでいて、僕はただ佳明の主張を聞いていた。佳明がふいに真面目になる時は、伝えたいことがあふれている時だ。おそらくずっと、僕の笹条さんに対する態度に異論を唱えたかったのだろう。


「それで笹条のこと、どうなの? 好きなの?」


 佳明が仕掛けてきた。切れ長の目の奥の瞳が、訴えかけるような何かを宿していた。


「……まだ、わかりません。魅力的な女の子だということはわかります。どうしてあの子が僕なんかを気にかけるのか、理解に苦しみます。彼女だったら、ほかにいくらでもかっこいい男が周りにいるのに」

「その一番かっこいい男が、お前なんだろ」


 佳明があきれたように指摘した。僕は何だかむずがゆくなって、真四角の黒縁眼鏡をいじった。


「好意を持たれている自分に陶酔するのは、もうやめろよな」


 最後の一言はズシリと胸に来た。笹条さんの顔を思い浮かべる。ニコニコ笑っていたり、あたふたとあわてふためいていたり、真剣な表情で会議に臨んでいたり……。僕を見つめる目は、いつだって真っ直ぐだった。


「……わかりました。答えを出します」

「それならよろしい」


 二人で手分けして探すことになり、佳明は生徒たちの出し物で賑わっている南校舎、僕は主に教室移動の時に使われている北校舎を回ることにした。笹条さんが見つかったらアイフォンで連絡を取り合うということだった。

 北校舎と南校舎はだいぶ離れている。渡り廊下を渡るのが一番の近道だ。二つの校舎を挟み込むようにして大講堂と体育館がある。四つの建物に囲まれた広い芝生が中庭で、天気のいい日には生徒たちがベンチに座って弁当を広げていたりする。ただ今は怪しい空模様のため誰もいない。

 足取りが自然と早くなる。こんなに探しても見つからないのはなぜだろう。北校舎の一階から三階まで上って様子を見てみたが、それらしき人は見当たらなかった。

 溜め息をついて、ふと窓の外を見る。雨が降ってきた。空はどんよりと曇っていて、灰色に濁った上空から生温そうな水滴がぽつぽつと窓に貼りついていた。

 そこから聞き覚えのある声が、窓越しに伝わった。

 笹条さんの声だ。

 窓を閉めているのに声が聞こえるということは、笹条さんは大声で何か話しているのだろう。下を見ると、男たちの集団に立ちはだかるようにして、小さな身体の笹条さんは赤い傘を広げて何事か叫んでいた。あわてて窓を開けて様子を見た。


「……だから、その人、離しなさいよ! カツアゲなんて、かっこ悪いわよ!」


 男たちの集団に、見覚えのある一人の危険人物がいた。背の高い、身体を取り巻くすべての存在が闇に包まれているような雰囲気の男子生徒。

 柊雪斗(ひいらぎ ゆきと)だ。

 こいつは自分と同じ匂いのする不良たちを一人でまとめ上げ、さまざまな悪行を働いている油断できない男だ。生徒会にとって最も気を許してはいけない人物である。柊はどうやら、気の弱い男子生徒にたかっていたらしい。それを笹条さんが止めているようだ。


「わ、私たち、生徒会が、許さないわよ!」


 柊たちは笹条さんを見て下卑た笑い声を上げていた。ぞろぞろと、笹条さんの周りに男たちが群がる。


「ああ、一年の笹条希美ちゃん」


 柊が地の底から這いずり回るような低い声を出した。おもしろそうに彼女の顔を眺め回す。笹条さんは、なぜ自分のことを知っているのかという表情を浮かべた。

 柊はウェーブした黒髪を見せながら、端正だがどこか排他的な顔立ちを歪め、笹条さんの赤い傘をグイッと乱暴に奪った。笹条さんはビクリと怯えた。


「知ってるよ。君の美貌は有名だもん。……ああ、確かにかわいい顔しているね。よかったねえ、笹条希美ちゃん。女の子で。もしこれが男だったら、その綺麗な顔、原型がなくなるくらいにボコボコにして、グチャグチャにして、土に還していたところだったよ。まあ、女でもムカつくやつはボコるけど。でも君はかわいいから、今回は見逃してあげる。行っていいよ」


 柊はクルクルと笹条さんの赤い傘を回しながら、「はい」とまた笹条さんに手渡して、退却するよう笑顔を向けた。

 それでも笹条さんは、負けなかった。


「……せ、生徒会役員である以上、あなたたちを見過ごすわけには行きません!!」

「……へえ?」


 柊の顔が嫌な感じに歪んだ。ヘラヘラと笑った顔は嗜虐的な笑みを深くさせていった。

 まずい。

 開け放した窓から、人一人入れるような窓枠に身体をねじ込み、そのまま地面に向かって飛び降りた。

 落下する。一回転してひねり技を決め、地面にドスン……と着地した。

 全員、呆気に取られて目を見開いていた。瞬間、柊が吹き出した。


「すげー! ターミネーターの得意技、目の前で見ちゃった!」


 柊はゲラゲラ笑っていたが、やつの子分の男たちは三階から落ちたのに平気な僕の身体能力に怯んだのか、互いに顔を見合わせていた。僕は笹条さんを庇うようにして柊たちから隠す。柊はなおも馬鹿笑いしていた。


「か、会長……?」


 笹条さんがおそるおそる声をかけたが、なぜこんな無茶をしたのかという憤りに頭がいっぱいになって、怒鳴ることしかできなかった。


「馬鹿ですか、あなたは!」

「……ご、ごめんなさい」

「女一人で、こんなやつらの相手をするんじゃありません!」

「……は、はい」


 そうは言ったものの、柊たちからどのように逃げるべきか皆目見当がつかなかった。柊さえ倒せればいいのだが、こいつは喧嘩のやり方を知り尽くしているはずだ。僕は殴り合いの喧嘩などしたことはない。とりあえず戦う意志を見せるように、柊をにらみつけた。

 柊が子分たちに目配せをする。じりじりと周りを囲まれる。どうすればいい。せめて笹条さんだけでも逃がしたい。子分たちを突破するべきか。必死で頭を回転させている最中だった。


「そこまでだ! 柊雪斗!」


 稲光のような激しい声が、北校舎の裏庭中に響いた。驚いて声のした方向に目をやると、背の高い筋肉質な、まるで紅葉のように綺麗な赤茶色の髪をした派手な顔立ちの男子生徒が立ちはだかっていた。その腕には『風紀委員』の腕章がついていた。


「げっ……。雲雀秋(ひばり あき)……」

 柊が天敵を見たように露骨に顔をしかめた。


「柊!! 下級生のみならず上級生にまで手を上げるなんて、この俺が許さねぇぞ!!」


 風紀委員委員長、雲雀秋。二年生の間では有名な「番長」で、学校にはびこる不良分子を持ち前の喧嘩強さでバッサバッサと薙ぎ倒していく。柊を目の敵のようにしており、一年で同じクラスだった時は毎日のように喧嘩が絶えなかったらしい。


「まだ何もしていませんよ~。こっちこそ、そんな派手な色の髪のやつに偉そうなこと言われたくないんだけど?」

 柊はなおもケタケタと笑って雲雀君を挑発した。


「俺の髪は地毛だ! 痛い目見たくなかったらさっさと消えやがれ!」


 雲雀君は額に青筋を立てながら怒鳴った。柊の瞳がスッと冷たくなる。雲雀君がハンターの目つきでにらみつける。しばらく両者の膠着状態が続いた。


「……しょうがねえな。行くぞ」


 柊は舌打ちすると、子分を引き連れてぞろぞろと裏庭を去っていった。カツアゲされていた男子生徒は、いつの間にか一人で逃げていた。雨が降っている。本格的な雨が裏庭を濡らし、僕と笹条さん、雲雀君の身体を濡らしていった。


「怪我はなかったですか?」


 雲雀君が怒りを和らげた落ち着いた声で僕たちを気遣う。僕は安心して「大丈夫です。あなたのおかげで助かりました。ありがとうございます」と頭を下げた。笹条さんもあわてて僕に続く。雲雀君は拳をならしながら、「柊の野郎、今度こそぶっ飛ばしてやる!」と赤茶色の髪をますます燃えたたせるように怒ってがなった。相変わらず迫力のある二年生だ、と僕は思った。


「中に戻りましょう。雨がひどくなってきたので」


 僕の一言に笹条さんと雲雀君はうなずいて、裏口から校舎の中に入った。北校舎は移動教室用の部屋があるだけで中は閑散としていた。文化系の部活が展示会を行っているメインコーナーは賑わっているが、裏側に回ると人がまばらにしかいない。

 雲雀君とはここで別れ佳明に連絡を入れる。一階の南校舎のホールで待ち合わせることになった。

 僕の後ろを頼りなげに笹条さんがついてくる。身体を縮ませて、しゅんとしたように俯いて歩いている。僕は注意深く声をかけた。


「笹条さん、もうこんな無茶はしないでください。女だからといって甘く見てくれるような男なんて、いないのですから」

「……はい。ごめんなさい」

「なぜ誰か人を呼ばなかったのですか?」


 僕の声に、笹条さんはぽつぽつと話し始めた。


「……あのカツアゲされていた子、うちのクラスの子なんです。クラスメイトだから、放っておくことができなくて……。気づいたら身体が動いていて……。でも、会長が助けてくれて、嬉しかったです。ありがとうございました」

「助けてくれたのは、厳密には雲雀君です。彼に感謝をするように」

「あ、はい……」


 それでも、と笹条さんは続けた。僕は後ろを振り返る。彼女は、ふんわりと笑っていた。


「一番早く助けに来てくれたのは、会長でした。また見ちゃいましたね。会長の超人的な身体能力」


 何で三階から落ちてきて無傷なんですかー? と笹条さんは嬉しそうにクスクスと笑った。僕はいろいろと落ち着かなくなって、「笑いごとですか! 一歩間違えれば怪我を負わされていたかもしれないのですよ!?」と怒ってしまった。笹条さんはひゃっと飛び上がって「す、すみません! そうですよね!」とあたふたと謝った。僕はその時、佳明に言われたことを思い出した。


『いい加減、答え出してやれよ』


 僕には、まだわからない。笹条さんのことを好きなのかどうか、判断ができていない。それでも、勇気を振り絞って柊に立ち向かった笹条さんはかっこよかった。美しかった。何としてでも守らなければいけないと、条件反射的に身体が動いた。

 この気持ちは、何だろう。


「笹条さん」

「はい?」


 僕のぶっきらぼうな声に、笹条さんはきょとんとしていた。僕は何をどう言ったらいいのかわからず、頬が赤くなるのを感じていた。


「もう少しだけ、時間をください。自分の気持ちを、ちゃんと整理しておきたいのです」

「……はい」

「今まで、中途半端な態度で接してきてすみませんでした。明日、答えを出します」

「中途半端だなんて、滅相もない! え、てか、明日ですか!?」


 笹条さんはころころ変わる表情で、あわてふためいていた。とたんに彼女の顔が真っ赤に染まる。その様子を見て、あ、かわいいな、と素直に感じた。

 もしかしたら、もう答えは出ているのかもしれない。

 けれど、僕には答えを出すと同時に、『あのこと』も話さなければいけない。

 笹条さんが、それに耐えられるかどうかだ。

 渡り廊下を渡って南校舎に着いて佳明と落ち合い、事情を説明すると三人で一緒に職員室に行き、学年主任の先生に状況を伝えた。いくらか話し合って、生徒会室に向かう頃には昼の休憩時間もあと少しだった。

 生徒会室に飛び込んだ僕たちを皆は温かく迎えてくれた。琉璃が「もー、ノンちゃんどこに行ってたのー?」と笹条さんに抱きついて頭を撫でた。乾先生に事情を説明すると、先生は眉をひそめながら「まったく、柊はなあ……」と渋い声を出した。すると琉璃がなぜかどことなく表情を歪ませた。

 先生が午後の活動の確認と明日のミーティングの準備を執り行ってくれていたので、僕と佳明、笹条さんは簡単に状況を聞いた。特に問題はないようだった。柊雪斗以外は。

  

 告白大会は総勢九組のカップルが誕生し、今日のメインイベントはすべて成功を収めた。お客さんもほかの生徒たちも帰った夕刻時、再び生徒会メンバーは集まって先生たちと会議をした。

 柊のことは先生たちが何とかしてくれるようなので、僕たちは少しだけ安心して会議を終えた。蘭堂と諸星さんは一足早く仕事を終え、先に帰っていた。

 皆で帰り道をぞろぞろと歩いた。佳明と仁川は電車を使って通学しているので、僕は一足先に流海、琉璃姉妹とともに陸橋を渡って彼らと別れた。西町の歩道に出ると、向こう側で笹条さんたちが元気に手を振っているのが見えた。

 僕は笹条さんの屈託のない笑顔を見て、胸が苦しくなった。『あのこと』を受け入れてくれるかどうかという戸惑いに。

 流海と琉璃が仲良くおしゃべりをしている。双子姉妹は西町の中で最も大きくて立派な家に住んでいる。慰謝料で購入した小さな戸建ての僕の家とは比べものにならないくらいに。

 二人は、僕の過去のことについては何も知らないようだった。あそこではあんなにも騒ぎになって、そこら中に僕の噂が飛び交っていたのに、遠く離れるとそれはただの他人事になるのだと実感した。

 西町の高級住宅街を歩く。立派な家が建ち並ぶ中で、さらに立派な家の前で流海と琉璃は止まった。ここが二人の家である。


「じゃあまた明日ね、会長~」

「また明日」


 手を振る二人を見送って、「また明日、よろしくお願いします」と別れの挨拶を言い、僕は住宅街をさらに歩いた。奥のほうの少しだけ侘しくなった家々を見渡す。高級住宅街と言われているのは西町の表通りに面している家々だけのことで、そこからだいぶ離れると割と安い小さな家が密集している。とはいってもここは土地がいいので、並んでいる家はどれも今時のモダンなデザインで、ほかの街ほど廃れてはいない。

 家に着いた。『あの男』からぶんどった金で手に入れた家。もっと言えば、『僕の身に起こったこと』をもみ消すために出した金で買った家。僕はこの家を見るたび、鈍い頭痛に襲われる。思い出してはいけないことを思い出してしまうような、極度の緊張が湧き上がって、吐きそうになる。それでも僕は帰らなければいけない。この家に。

 門扉を開けて、狭い階段を上り、玄関の扉を開く。母はまだ帰ってきていない。二人だけでも生きていけるようにお金を稼いでいるので、帰りは夜だろう。僕も早く働きたい。とにかく働いて完璧な人生を歩みたい。あんな子ども時代のことなどなかったことにするために、誰もが羨むような未来を歩むのだ。そのために生徒会に入っているといっても過言ではない。

 リビングに向かうと、今朝読んだ母の殴り書きのメモがまだ残されていた。『会社に行ってきます。お弁当は売店で買ってね。昼食代です。今日もがんばってね』と書かれたそのメモを丸めてゴミ箱に捨て、風呂を沸かして入り、冷蔵庫から母の作った夕食を出して電子レンジで温め、一人の夕飯を過ごす。もうずいぶん、一人の時間を過ごしてきた。いつしか慣れた。周りに誰もいないということに。

 食べ終わった皿を洗って、歯磨きをし、自室のベッドに寝転がる。今日一日中張っていた緊張の糸がプツンと切れ、どっと疲れと眠気が襲ってきた。よろよろと明日のアラームをセットして、そのまま眠りに着いた。


 夢を見た。

 文化祭で賑わっている学校のホール。その隅にある薄紅色の長椅子に、僕たちは座っていた。隣には、笹条さん。僕は『あのこと』を彼女に話していた。

 笹条さんはただ、たおやかな微笑を浮かべていた。


「会長、好きです」


 笹条さんの声が聞こえる。

 こんなことを話しても、まだ僕のことを好きなのですか? こんなになってもまだ、僕のことを信じているのですか?


「はい。信じているし、大好きです」


 あなたのことを、好きになっても、いいのですか?


「はい。たとえどんなことがあっても、私は会長を好きでいるのをやめることはできません」


 本当ですか?


「本当ですよ。会長、勇気を出してください」


 笹条さんの力強くて明るい声が、心地よく沁み渡った。僕は、ああもう何も心配ないのだ、と泣きたい気持ちになった。

 笹条さんは、優しく笑っていた。

 

 目が覚めた。

 アラームが鳴り響いていた。

 目覚まし時計とアラームを止め、ベッドからのろのろと起き上がる。


「……夢か」

 でも、現実のような気もする。


「……賭けてみるか」


 今までずっと、人を好きになることを避けていた。そういう関係になったら、『あのこと』もいつか話さなければいけない日が来るからだ。親友の佳明にも言っていない秘密を明かす時、人はどういう反応をするだろう。

 けれどあの子なら、きっと大丈夫だ。


「……よし」


 顔を洗い、食卓に向かう。ちょうどその時会社に出る母のスーツジャケットとよくメイクされた美しい顔が目に入った。


「ああ、ヒロ、おはよう。私、もう出るから」

「うん、おはよう。行ってらっしゃい」

「行ってきます。文化祭、がんばってね」

「がんばるよ」


 何気なくかわされた会話の中に、僕は少しだけ「ごめん」と謝罪の気持ちを心の中で伝えた。ごめん。母さん。二人だけの秘密、ほかの子に話してしまう。

 母さん、僕、好きな子ができたんだ。

 母が玄関の扉を開けた。僕は母を見送り、鍵を閉めた。ガチャリ、と閉まるいつもの音が、今日は何だか寂しげに聞こえた。

 朝食用のパンを頬張り、だんだんと気合が入ってくる。牛乳を一気飲みして、皿を洗い、制服に着替えてアイフォンを手に取った。

 彼女の番号に、電話をかける。

 すぐに笹条さんは出た。


「……もしもし?」

「もしもし、笹条さんですか? 朝早くに失礼します」

「いえ、大丈夫です。私も今出ようとしたところでしたから」

「そうですか。間に合ってよかったです。……あなたに、伝えたいことがあります」


 笹条さんは一瞬、無言になった。かすかな息遣いが電話越しに聞こえ、今この子はとても緊張しているのだろうと思った。


「……何ですか? 何でも聞きますよ、会長」

 笹条さんの感情を押し殺した声が、聞こえる。


「あなたの告白、考えてみてもいいですよ」

「……ほ、本当ですか!?」

「ただし」

 泣きそうになっている笹条さんを声で制し、僕は運命の言葉を放った。


「僕の過去を、受け止められる気があるのなら」

「……過去?」

「そう。過去」

 笹条さんの少し緊張気味の声を聞きながら、僕は続ける。


「僕には、誰にも言えない、それこそ佳明にも言えない、ある闇の過去があります。あなたと付き合っていくうえで、その過去はあなたにも影響を及ぼし、僕たちの関係はどこにでもいる幸せなカップルとは程遠い場所に向かうことになります。僕のせいで、あなたが傷つくかもしれない。あなたは後悔するかもしれない。それでも、いいですか?」

「いいですよ」


 驚くほど早く即答されたので、僕は面食らった。


「……あの、言っている意味、わかっています?」

「何となく」

 彼女は「へへへ」と憎めない笑い声を発した。


「会長が大変な育ち方をしたのは、見ていて何となく感じていることでした。きっと一筋縄ではいかない人なんだろうなあと。でも私はそんな会長が好きになったんだから、どんな話をぶちこまれても負けませんよ」


 快活に笑う笹条さんの声を聞いて、今度は僕が笑いたくなってきた。


「では、今日お話しします。時間は昼休憩時に」

「はい。お待ちしています」


 最後に別れの挨拶をかわして僕は電話を切った。そして何年かぶりに、腹の底から笑った。


「まったく。大した女だ」


 もう怖くない。あの子なら、きっと、僕を受け入れてくれる。

 玄関の扉を開けた。空は相変わらず雲が多かったが、時折日がかろうじて差した。その日差しは、温かかった。

 我が校の文化祭は四日間ある。その膨大なスケジュールの中で日々見落としてしまうこと。忙しさの中で犯してしまう失敗。けれど人は、それを乗り越えられる。

 僕は家を出た。過去に支配されている家を出た。そして今、新しい関係を築くため学校に向かう。

 僕の居場所である、生徒会メンバーのもとへと。

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