3−8

 それは突然だった。

 駅前で梨里と別れて、加那はいつもどおりの道で自宅前の公園まで帰ってきていた。

 夕暮れで辺りはもう薄暗い。公園にも周囲にも人気はなかった。

 視界の端を何か大きなものが横切ったと思った瞬間、目の前に大きな黒毛の猛獣が現れた。黒に黄色の縞が僅かに入ってる。

(トラ!? 東吾さん……? けど、少し違う)

 様子もおかしかった。

 虎は毛を逆立て、上体を低くし今にも飛びかかってきそうだ。

 加那は公園の真ん中で、思わず一歩下がる。逃げ出そうにも、足が震えて動かない。後ろを向いて逃げ出すのも怖かった。

「貴方も、被人なの?」

 どうにか声を絞り出し、加那は聞く。

 耳をこちらに向けて、虎は牙をむき出しに唸った。

「白虎の当主ね」

 東吾とは違う、高く響く女性の声をだった。敵意を隠さない相手に、加那は震えながらバッグを前に抱きしめる。

「違う、私は……」

 駄目もとで加那は答えた。虎は笑う。

「いいえ、調べはついているわ。……ウサギの被人を飼っているわね。彼と居衣を渡しなさい」

(満さんのことも知っているの?)

 加那の頭の中を考えがぐるぐると回る。

 満も狙っているならば家へと逃げ帰ることは出来ない。繁華街の方はどうだろうか。

 人が多ければ流石に虎の姿では追っては来ないだろう。

 そう考え、僅かに身体を動かすと、虎がそちらへ動く。

 加那が逃げ出そうとした退路を絶たれてしまった。

 虎はジリジリと加那との距離を詰めてくる。笑みを含んだ女性の声が虎からした。

「怪我をしたくなかったら――」

「怪我をしたくなかったら、下がれ」

 ざっと、目の前に黒と黄の艷やかな獣の巨躯が現れた。東吾だ。

「東吾さん!」

 加那は思わず声を上げた。

 答えるように東吾は加那を庇い、長く平たいしっぽをぶんっと振る。

「朱雀か……!」

 相手の黒虎が焦りの声を上げて、前足で砂を掻く。

 身を低く構え今にも飛びかかる体勢で、顔を上げて東吾へと咆哮を上げた。

 対する東吾は余裕だった。

 加那を後ろに庇いつつも、尻尾を高く揺らしつつ悠々と歩き回る。

「去れ。そうすれば怪我をしなくて済む。ウサギの方にもうちの者を向かわせた」

「くそっ」

 片腕を掲げ空を掻く仕草で威嚇する黒虎は、悔しげに唸り声を上げた。

 2匹は広場で対峙する。

 黒虎がついに尻尾を下げた。

「一旦退散するが……これで諦めはしないからな」

 捨て台詞を吐き、身体をぐぐっと縮める。次第に変化が始まり、スラリとした背丈にジャケットにふわりとしたフレアスカート姿の女性が現れた。年齢は三十代前半だろうか。短い栗色の髪が似合っていた。先程の黒虎とは同一人物とはとても思えない。

 女性はふんっと踵を返すと、公園の暗がりへと去っていった。

 東吾はゆらりと尻尾を揺らすと加那を振り返った。

「大丈夫か」

 加那は駆け寄って、思わず東吾の首筋に抱きついた。硬い毛の首筋へと顔を埋める。

「大丈夫――ありがとうございます」

 足がまだ震えていた。東吾が鼻先で加那の髪を撫でた。

 はっとして加那は東吾を仰ぎ見る。

「そう言えば満さんが、狙われてるって……!」

 東吾がふんっと鼻で笑った。

「それこそ大丈夫だ。綾がそちらへ向かった。今頃撃退しているだろう」

 鷹の姿の綾が目に浮かぶ。その大きさと鋭い爪を思い出し、加那は安堵する。

 抱きついた腕を離し、どうにか自分の足で立つ。東吾の目の前へと回った。

「本当にありがとう。けど、どうしてこんなにすぐに来てくれたの?」

「篠乃の命令でな。申し訳ないがお前たちを見張っていた。朱雀の居衣へと出入りする姿を他の勢力に見られているのではと懸念していたらしい」

「だからって、こんなにすぐに襲ってくるの!? 私は何もしていないのに?」

 話しながら東吾は変化を始める。加那は一歩下がって見守り、言い募った。

 朱雀を訪ねたのはほんの昨日だ。

「何もしていないから、だろうな」

 東吾が服についたホコリを払いつつ、加那へと向き直る。

「白虎の一族は当主らが長らく所在不明だった。それが今、漸く見つかった。その当主はまだ若く、被人は珍しいウサギ一匹。勢力拡大のため、襲わない手はない……というところだろう」

「それじゃ――襲撃は続くっていうの?」

 加那は衝撃を受けて聞いた。東吾は手を上げて、加那の髪へとそっと触れた。予想もつかぬ行為に加那はビクッと身を引いた。

「……俺たちを、早く受け入れてくれ。そうすれば俺たちはお前を、当主を助けることができる。居衣へ、一刻も早く」

「けど」

 言いよどむ加那へ下ろした腕で拳を作り、東吾は首を振る。

「負担は分かる。だが、まずは俺たち二人程度で良い。それくらいなら、実質の負担はほぼないだろう。だが、朱雀の当主は弱りきり、お前はこうして実際に襲われている。考えて欲しい」

「……分かった」

 加那は胸へと片手を握り込み、頷いた。

「けど、もう少し考えさせて」

(迎え入れるということが、一体どういうことなのか……私はまだよく分かっていない)

「ああ。……だが良かった。少しでも考えてもらえるのなら」

 犬歯を見せて、東吾が笑った。

「うん。ねえ、そうは言っても満さんが心配。私家に帰るね」

「送っていこう」

 東吾へマンションまで送られて、加那は公園を後にした。

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