ある愚か者の話

レライエ

第1話殺人鬼の日常

「あっづちゃーんっ!」


 一日の終わり。

 有意義だが退屈な授業を5コマ漸く乗り越えてさあ帰ろうと、教科書を畳んでいる私は、夏の青空みたいな底抜けに明るい声に、内心そのまま辟易を表現しながら振り向いた。


 自慢じゃないが、私の表情筋は柔軟だ。

 練習の賜物だ。

 喜怒哀楽ありとあらゆる方向へ、私は自由自在に顔を作れる。笑顔を浮かべれば楽しさが周囲に広がり、泣けば悲しみが響き、怒れば──皆いそいそと離れていく。鳴り響く雷から隠れるように。

 伝わるのだ、伝えたいと思う感情が浮かべる表情から。


 あぁ、だというのに。


「あづちゃん、あづちゃん、あづちゃんってば!!」


 この子は、クラスメートの磯貝天海いそがい あまみだけは。

 私の怒りをまるでそよ風のように受け流し、どころか存在さえしないように、無神経に踏み込んでくる。


 表情だけでは、彼女の髪型と同じく系の心には届かないのだろう。一つため息を挟みながら、私は出来るだけ冷淡な声を放った。


「五月蝿い、聞こえてる」

「ほんと?」

 天海が小首を傾げると、女の子らしい甘い香りがふわり、漂った。「安心したぁ、あづちゃんが耳、聞こえなくなっちゃったかと思ったぁ」


 そんなわけあるか。

 私のしかめ面など見えないのか天海は、安心の見本みたいな無防備な笑顔を浮かべている。


「でもでも、大丈夫だよあづちゃん! もしあづちゃんが耳、聞こえなくなっても、アタシがどうにかこうにかしてあげるから!」

「方法が漠然としすぎ」

 ちょっと怖い、ヤンデレ、ってやつに思えるくらいだ。「の割に何なんだ、その無駄な決意の固さは」

「そんなの決まってるじゃん!」


 天真爛漫、笑う彼女にあぁ、確かにその通りだったなと私は反省した。

 いつからか──中学の頃くらいからか、妙に馴れ馴れしくなった天海に私が、どうして、と理由を尋ねる度に彼女は同じように答えるようになったのだ。

 いつも同じように。

 今回も、いつもと同じように。


 彼女は答えた。


!!」









 下校中。

 天海は周囲の目さえも気にならなくなったらしく、大胆に私の腕に絡み付いてきた。


「ねぇねぇねぇねぇあづちゃん、あづちゃん」

「オウムみたいに繰り返さないで、煩い」

「うっへへー。呼んでると楽しいんだもん、あづちゃんの名前」

「それはあだ名、名前じゃない」

「まあまあ。それもこれも、あづちゃんの名前があってこそだよぅ! アタシのセンスだけ誉めないでねっ」

「先ず誉めてないから」

「え、そんなヒゲ? する程の名前じゃあないと思うけど……アタシ、好きだよ?」

「お気遣いありがとぉ、バカ」

「そんな、お礼なんて……」


 まさかこんな、頭に『ど』が付くほど直球の悪口でさえ通じないとは思わなかった。

 さすがバカだ。

 バカに付ける薬はない、そうするだけの気力がなくなるからだ。私は一つ賢くなり、バカから大股で距離をとった。


 バカは、直ぐに追い付いてきた。


「待ってよあづちゃぁん」

「……何でそんなに声、間延びさせるの?」

「帰りにちょっとタピろうよぉ」

「私はあれ、あまり好きじゃないから」

「タピオカ抜けば良いじゃない?」

「あんたさっき何しようって言ってた?」

「うっへへー、いいのいいの! 帰宅部の特権、でしょ?」

「だとしたらそんな、タピオカミルクティータピオカ抜きなんてバカなことに使いたくないけどね」

「そう? でもさでもさ、バカなことほど、贅沢な時間の使い方じゃない? 浪費って、金持ちにしか出来ないもの」

「…………」


 たまに。

 本当に、極々たまに、天海はこういう鋭いようなことを言う。一歩高みから見下ろして、世の真理というやつをズバリと突くような、鋭いことを。


 再び巻き付いた天海の柔らかい感触が、何故だかやけに不快だった。


「だから、ね? いいでしょ、一緒に人生浪費しようよぉ」

「その誘いに乗るのは、バカくらいでしょ」


 結局。

 その鋭さに私は逆らえず、バカと共にバカなことをした。

 バカみたいに。









 鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開ける。


「……ただいま」


 返事がないことを確信しながら、私は惰性で暗闇に呼び掛けた。

 下校にしては遅い時間になってしまったが、靴を脱ぐ私を咎める者は誰もいない。両親は長いこと仕事で海外だし、私は一人っ子だ。


「……高校生を一人残してニューヨークって、冷静に考えると相当だな……」


 高校生なら一人暮らしはあり得るけれど、私が鍵を預かったのは小学生の頃だった。

 二週間に一回程度はそれでも帰国していたが徐々に頻度は下がり、中学に上がる頃には夏と冬、長期休みの時だけになった。

 そしてとうとう晴れて高校生となったこの春、両親はビデオチャット上で宣言した──お前もそろそろ独り立ちだな、と。


 我が親ながら中々に、無茶を仰る。

 学費に水道光熱費、その他金は一応振り込まれているし、マンションは持家だ。

 小遣いが足りなければ連絡を、とは言われているが不足する程の額では、ない。


「そこだけは、残念だな」


 親の愛情の欠如だなんて、ありふれた理由を私の人生に与えてしまうだなんて。もっと普通の、瑕疵もなければ完璧でもない人生を私は過ごしたい。

 いや。

 


 私、西上東にしがみ あづまは殺人鬼である。


 文学的な、比喩的な表現ではない。

 とはいえ正確な表現でもない──そう呼ばれるのに必要な要件を、生憎と私は満たしていないのだから。

 そう、私は人を殺したことはない──

 残念ながらこれは、『直接手を下すことはせず他人を操り殺人を行わせる』という意味でもない。正真正銘完全無欠に私は潔白で、誰も殺してはいないのだ。


 ただ、決めているだけ。

 将来パパのお嫁さんになる、なんて決める幼子のような無邪気さで。

 両親の命を奪った病を根絶する医者になる、なんて確固たる頑固さで。

 テスト前だからスマホ触らないぞ、なんて無理筋の軽薄さで。

 悲壮さで、気軽さで、曖昧に厳格に悠長に逼迫した柔軟な頑なさで。

 およそ考え得るありとあらゆる感情を注ぎ込んで、過去の私は現在の私に私の未来を誓ったのだった。


 原因は、解らない。


 というよりも、けして解らないように努力してきた──だって、興醒めだろう? 残虐なホラー映画の怪物に一欠片の悲しい過去を付け足して、『あぁあいつにも考えがあって、理由があったんだ、理解できるし共感できる、同情も出来ると思う』、はっ、まさしく反吐が出る。


 殺したんだ。

 お前らがしたり顔で見下ろしてやっている怪物は、誰かの大切な誰かを、見映えのするとびきり残虐な方法で殺したんだ。それを些細な過去エピソードで水に流すなんて。


 怪物は、そうではない筈だ。

 人々は怪物に怯えるべきだ、恐れるべきだ。物音に、足音に、通い慣れた道の電柱の影の暗がりに、怪物の気配を錯覚して恐怖するべきなのだ。

 そして何より、怪物は憎まれるべきだ。

 理解だとか、共感だとか。

 万人に解されるような理由を後から付けられては困るのだ。そんな幻想から、怪物は遥か遠くに在るべきだ。


 だから私は、私の過去を丁寧にならしていた。山も谷も必要ない、なんの特徴もないなだらかなあぜ道を行くように、ありふれた人生を心掛けてきたのだ。

 無事に後で、鬱陶しい評論家連中に後ろ指を指されないために。


 同時に、己を鍛えることを怠らなかった。何故ならナイフを買ったからだ。

 back社製の、フォールディングナイフ。洗練された無骨さとでもいうべきデザインと、何より、毎年毎年改良を重ねる貪欲さが好みで選択した。


 残念ながら今の時代、単に人を殺すだけなら簡単だ。拳銃もあるし、毒だって爆発物だって幾らでもありふれている。

 けれどもやはり私としては、そういったものは邪道と言わざるを得ない。

 折角人を、それも狙い澄ました相手を殺すのだから、手触りまで味わい尽くしたい。

 返り血の温かさ、むせ返るような鉄の匂い。

 切っ先がピンと張った皮を裂き、柔らかい肉にズブリズブリと沈んでいき、やがて内蔵に達するその感触を味わえなければ駄目だ。


 だからこそ私は確りと筋トレをした──分厚いナイフを自在に操り、逃げる獲物を追いかけたり、抵抗する相手を押さえ込むにはやはり、純粋な筋肉が必要だろうから。あまり外見を変えるのは好ましくないから、必要以上に筋肉質にならないようにも気を使わなくてはならなかったが。


 その甲斐もあって、私は誰に悟られることもなく身体能力を強化できた。

 運動部の連中は私を運動音痴と決め付けているままだ──私が連中をいつでも殺せるなどと、想像もしないままだ。


 そう、つまり。

 準備は、万端だ。

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