第1話 間近に迫るバレンタイン・デイ

 ちっ、と彼は靴箱を開けて舌打ちをした。

 上段には、小さな、赤いガラスの小瓶が置かれている。今朝彼が置いたそのままに。

 中身は無い。やはり、無い。

 ぎ、と彼は歯ぎしりし、空の小瓶を強く握りしめる。

 何とかしなければ。彼は内心つぶやく。

 いや、自分にできる手は打ってある。自分程度の頭で、考えうる限りは。

 頭のいい相手には、通じないかもしれない。

 でも通じるかもしれない。

 何もしないより、よほどマシだ、と彼は思う。

 だがそれが通用しない奴が、確実に、一人だけ居る。

 ……自分自身だけは。


 2052年2月14日。

 某極東の小国では、全国的にバレンタイン・デイと呼ばれる日だった。



「哲ちゃーん!」


 急に背後から抱きつかれ、中里哲夫はわっ、と手にしていた大きなブリキのジョウロに頭をぶつける。

 わわわわ、とバランスを崩し、彼はしゃがみ込んでいた花壇のブロックの上から転げ落ちた。


「だ、だいじょうぶ?」


 抱きついた少女は、すんでの所で手を離したので無事だった。


「よし野、お前、急に抱きつくな、っていつも言ってるだろ! もしこれで、やっと芽を出しかけたこいつらに、俺が倒れかかったりしたらどうすんだ!」


 割れ鐘の様な大声が、よし野と呼ばれた少女の頭に浴びせかけられる。

 まず普通の生徒なら、その声、いやその声を発した本人を前にしただけで、萎縮してしまうだろう。

 やや縦に大きな骨張った顔、大きな口、濃い眉、そして何と言っても、相手をにらみつける、ぎょろりとしたつり上がった目。それが顔を真っ赤にして、目の前で自分を怒鳴りつけていたとしたら。まず普通の生徒なら自分の明日のために、走って逃げるだろう。

 だがこの少女は決して臆さない。自分より縦に頭二つ、横なら倍大きい男に向かい、太さ半分以下の眉を大きく寄せて、声を張り上げる。


「そりゃあ、哲ちゃんが転んだら、この子達、全滅だろうけど」


 そして結構身も蓋もないことを口にする。


「けどあたし、哲ちゃんのこと、もうさっきから、何度も呼んでたよ?」

「え?」


 彼の逆八の字だった眉が、一瞬のうちにひっくり返る。


「何度も何度も呼んだよ? だけど哲ちゃん、全然気付かないんだもの。だから仕方ないじゃない。お話があるのに」


 彼女はそう言って大きくふくれる。

 そう言われてみれば。中里も思う。何か後ろで声がしていた様な気がする。


「だーかーらー」


 よし野のふくれっ面は直らない。彼は仕方ねえなあ、と両手を上げた。


「……判った、俺が悪かった」

「わ、素直ぉ」


 途端に、眉がまたひっくり返る。


「誰のせいだと思ってるんだぁっ! ……ああ、作業が途中になっちまった」


 彼はジョウロを持って、再び水飲み場へと向かう。


「あー、待ってよぉ」


 途中、校舎と校舎の間を通る時に、冷たい風が大きく吹き抜け、彼女の短めの髪をくしゃくしゃに乱した。うわぁっ、と言いながら、よし野は彼の陰に回る。


「お前、俺のこといいカベだと思ってないか……?」

「だって哲ちゃんと居ると、暖かいんだもん」


 水を汲み、再びカベになった彼は、もう文句を言わなかった。

 さあっ、と黒い土の上に水が掛けられる。よし野も屈み込んで、その様子を見守る。


「おい、あまり近寄るなよ、水が飛ぶから」


 だがそんな彼の注意もお構い無しに、彼女は地面に顔を近づける。


「すごいね。もうずいぶん、色んなものの芽が出てきたんだあ。わ、つやつやしてる」

「ああ。チューリップ、ヒヤシンス、パンジー、キンギョソウ、スイートピー……」

「哲ちゃんそう言えば、秋頃、色々植えてたよね。ねえ、一番咲くのが早いのはどれ?」


 好奇心いっぱいの目で、彼女は中里を見上げる。


「さあ…… どれだったかな。パンジーはほれそこ」


 ほら、と中里は地面を指さす。鮮やかな黄色や青紫の花が、風に揺れていた。


「ホント、もうじき春だね。あ、でももう暦の上では春なんだって」

「ふうん?」


 がらん、とジョウロやスコップを一つにまとめながら彼はあいづちを打つ。


「でもそんなこと言っても、寒いよね、まだすごーく」

「ま、そーだよな……あ、よし野、寒くないか?」


 今更の様に彼は尋ねる。


「寒いに決まってるじゃない!」


 それはそうだ、と彼も思う。ブラウスにベストに上着の三点セットだけでは、さすがにまだ寒いはずだ。おまけに黒いソックスも長いとは言え、その上の膝は生足なのだ。

 彼等が住むこの地方は、太平洋側に位置して、冬でも雪があまり降らない。晴れの日が続き、日差しにだけは恵まれている。

 だがその代わりの様に、風は強い。体感温度の低さは、他の地方と匹敵する厳しいものもある。


「だーかーらー、さっきから、あたし哲ちゃんにくっつこうくっつこうと思ってたのに……哲ちゃん体温高いし、何かあまり寒くなさそうだし」

「……はいはいはい、俺が悪かった悪かった」


 確かに間違っていない。中里は体温が高い方だったし、寒さも感じない。

 あちらを向きこちらを向き、そして保健室の窓をちら、とにらんだ上で、彼はよし野を手招きした。


「ここならあまり、風が来ないぜ」


 窓のちょうど下、側溝の手前に彼は彼女を持ち上げ、ひょい、と乗せた。ちょうどそこは、天気の良い時の日向ぼっこにはちょうど良い場所なのだ。

 一方、中里は風上である西側に、無言で陣取った。


「あ、ホント、あったかーい」

「お前、スカート、大丈夫か?」

「だいじょーぶ。前座った時、白いのつかなかったし」


 いやそうじゃなくて。彼の無言の抗議など関せず、彼女は無造作に足を投げ出す。そう長くないスカートからは、膝小僧が丸出しになる。


「……で、よし野、お前どうしたんだよ、わざわざ昼休みに。いつも何かと一緒に居る『オトモダチ』の方はいいのか?」

「だって今日だよ!?」


 彼女は目を丸くして、即座に答える。


「14日だよ! 皆今日はチョコ持って、あっちこっちに行ってるもん」


 それもそうだ、と彼も思う。何せ今日は2月14日。世間的にもこの学校内的にも、バレンタイン・デーなのだ。


「で、お前も俺にチョコ?」

「……要らないって言ったの、哲ちゃんだよ……」

「……あ、そっか」


 いかんいかん、と彼は頭を振る。記憶力が低下している。まずい。


「ああ……そうそう、俺が言ったんだよな」

「そーだよ。それに、……本当にいいのかなあ、って思って」


 彼女の声が弱くなる。中里は口をへの字に曲げて、よし野の顔をじっとのぞき込んだ。


「本当にいいのかなあ、って何がだよ」


 彼女は顔を上げる。そしてやや怒った様な、それでいて何処か照れた様な目で中里をじっと見据えた。


「……だから、あたしが何か哲ちゃんにあげるのが普通じゃない。なのに」

「おい……」

「そりゃあ、チョコじゃなくて、あたしを……って言い出したのはあたしかもしれないけど」

「……ちょっと待て」


 きょろきょろ、と辺りを見て中里はよし野の口を大きな手で塞ぎ、もう片方の手で、上を指した。

 あ、と彼女も目を大きく開けた。

 保健室の窓が大きく開いている。おそらくあの保健室の主は、昼休みにも一斉に換気をするのだろう。

 よし、とばかりに中里はぱっ、と手を離した。


「……でも本当に、……」


 今度は小さな声で、囁く。


「いいんだよ! ほら、俺、寄宿舎の他の連中の様に、シュミとか遊びとか何も普段してねえから、仕送りだって結構使わないし、余ってるし……だから、旅行ったって、近場だし、大したことじゃねえって、あー……」


 しかしまだ彼女の表情は、何か言いたげだった。

 彼は節くれ立った両手の指で、伸ばしっぱなしの自分の髪をくしゃくしゃにかきむしる。

 ああまるで理由らしい理由になっていない。彼は思う。


「そうじゃなくてよ、……俺がしたいんだ。それじゃ、いけねえのか?」

「哲ちゃんがしたい、って……」


 そこまで言って、よし野の顔はかあっ、と赤くなる。


「や、あの、そういうことじゃなくて」

「違うの?」

「いや、違わなくて……したいけど……」


 本当にどう言えばいいんだろう。彼は本気で困っていた。

 だから、また注意力が散漫になっていたに違いない。


「……おいおいお前等、いつも私も言ってるだろ、往来で痴話喧嘩は止せ」

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