雲川 深雪 7

 撫子なでしこの花は季節が終わり、花壇には緑色の茎や葉だけが茂っている。

 環境委員の仕事も今年の花の世話から来年に向けての準備へと変わっていた。植え替えや、さし芽、撫子は多年草なので適切な世話をすればまた綺麗な花を見せてくれる。


「良し、と」


 作業を終え、立ち上がって背筋を伸ばし、空を見上げた。

 日毎に訪れるのが早くなってきた茜色の時間。季節は着実に進んでいる。

 着物が完成してから数日。私は今日、先輩に着物を見せる。そしてその時、龍神祭りゅうじんさいに誘う。そう決めていた。



 片付けを済ませ準備を整えた私は、紙袋を抱えて図書室前の廊下で先輩を待った。

 不思議と気持ちは落ち着いていた。ここまでしっかり悔いなくやってこれた証拠だろうか。

 浅く息を吐き、ずり落ちそうになっていた肩の鞄を直した。掌が汗ばんでいることに気が付いた。


「やっぱり緊張してるかも」


 ちらりと紙袋を覗くと緑色の風呂敷包みが見えた。中には着物が入っている。


「大丈夫」


 最終下校時刻を知らせるチャイムが、窓から差し込む残り火のような夕焼けの中で響き、消えて行く残響と共に校内の喧騒が小さくなっていく。

 図書室の開放時間も終わりを迎え、室内からチラホラと生徒が出て来た。

 私はその中に先輩を探さなかった。目を伏せ、ただ、その声が名前を呼んでくれる時を待った。


 少しして、私の前に立ち止まる足があった。


雲川くもかわ


 優しく、落ち着いた声に顔を上げると先輩が微笑んでいてくれた。


「ごめん、待たせたかな」

「いえ、来たばかりです」

「行こうか」

「はい」


 帰路についた私と先輩の足音が、制服や鞄が出す小さな音が、静かになっていく校内でやけに大きく聞こえた。



 日が沈んで、外はさっきよりも暗くなっていた。街路灯にはもう明かりが灯っている。


「どこか座れるところに行く?」

「いえ、大丈夫です。先輩の受験勉強の邪魔になりたくないですから」

「そっか」


 歩きながらタイミングを計る。覚悟はできていたはずなのに思い切れない。

 そんな私を先輩は急かすことなく待っていてくれる。でも、帰り道の時間はそれほど多くはない。

 交互に地面を蹴る足は、浮き足立っているのに確実にタイムリミットへと私を運んでいる。


 私たちの前を少し離れて歩いていた人が路地を曲がった。ちょうど周りにも人は居なくなった。


 今しかない。


 そう思った私は立ち止まって先輩に向かって紙袋を突き出した。ためらってしまえばせっかくのタイミングを逃す。ぶっきら棒な感じになってしまったけれど、やり直す訳にもいかない。


「これ、私が作った着物です。見て下さい」


 急に立ちどまった私の数歩先、振り返った先輩が紙袋に手を伸ばし触れた。

 着物の重さと握りしめていた熱が掌から離れて行く。


 渡せた。受け取ってくれた。


 開けていいかな、と一度断って、私が頷くのを確認してから先輩は紙袋から着物が入っている緑色の風呂敷包みを取り出した。


 スルスルと包みが解かれる。


 白い生地が街灯の明かりをぼんやりと反射させ、先輩の手の中でピンク色の撫子なでしこが淡く花開いた。


 着物を見ている先輩がどんな表情をしているかは分からない。怖くて顔を見ることができなかった。


「この柄」

「はい、その、先輩が好きだ、って言っていたので」


 先輩が着物を見ている間、短いけれど私にとってはとても長い間、自分の心音と微かな衣擦きぬずれの音だけを聞いていた。


「良くできてる。凄いよ雲川」

「全然、全然まだまだです。荒い所も沢山あるし」

「そうかな、俺には市販のものと変わらないように、ううん、それよりも良く見えるよ」

「言い過ぎです」

「でも本当に、なにより完成させたことが凄いと思う」


 そんな先輩の言葉が素直に嬉しかった。嬉しくて涙が滲むなんて初めてだった。


「ありがとうございます。先輩の言う通りでした。私、作っていて分かりました。着物が、和裁が、好き、なんだって。ちゃんと思い出せました」


 好き、と言う言葉をどうしても意識してしまう。


「そっか、良かった」

「あの!」


 顔を上げると先輩と目が合った。どこか愁いを帯びたその瞳に、いつも以上に胸が詰まる。


 お祭りに誘う。それはきっと他の人にしてみればなんでもないことなのだろう。でも今私にとっては告白するにも等しい行為に思えていた。


 それでもここで怯んで逃げ出すなんてできない。


 言え、言え、言え!


 鼓動に押されるように熱を持った言葉が喉元まで上がってくる。


 言え!


「あの! 先輩、この着物を着て、お祭りに、龍神祭に行きたいんです。良かったら一緒に行ってくれませんか?」


 ついに私はそう言葉を吐き出した。


 頬を撫でる風が涼しくて、その時私はどこか秋の空気を感じていた。

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