第9話

 僕たちがパドックへ行くと、すでにメインレースに出走する馬は姿を見せていて、ゆっくり周回していた。

 そこそこ大きいレースということもあって、人の壁が何重にもできていたが、いつの間にか剣崎さんは最前列に出ていた。あわてて僕も追ったが、その背後に回り込むまでは、かなりの手間と時間がかかった。

「どうですか」

「いいですね。一番のミサトチャンスと七番のリリリン。デキがずば抜けています。成績も安定していますから、この二頭で決まるでしょう」

「成績、よくわかりますね。新聞も見ていないのに」

「おぼえていますから」

 剣崎さんは、二頭の過去五走の成績をすべて読みあげた。それは着差から4コーナーの位置取り、上り3ハロンの数値まで含めたもので、そのすべてがあたっていた。

「すごい」

「他の馬もおぼえていますよ」

「何頭の成績が頭に入っているんですか? 50とか100とか」

「全部です。トレセンに入っている中央の馬ならすべて。たかが8458頭ですから、たいした数ではありませんよ」

 いや、そんなことはないだろう。話が本当なら、競馬新聞はいらない。

「二頭は休養明けですが、仕上げに定評のある厩舎ですから、何の問題もありません。一着、二着を争うことは間違いありません」

「関係者にも知り合いがいるのですか」

「いません。私は内部の人とは関わらないようにしています」

 剣崎さんは振り向いて、僕を見た。その目の力は強かった。

「内部情報なんてなくても、馬券は当たります。ここだけしか知らない話なんて存在しません。嘘っぱちですよ」

 止まれの合図がかかって、馬が周回をやめたところで、僕たちはパドックを離れた。

「時間がありません。早く馬券を買いましょう」

「あの二頭の組み合わせですよね。それだと……」

 オッズを確認すると、馬連16.5倍とあった。これでは、届かない。

「大丈夫です。資金はありますから」

 剣崎さんはショルダーバッグから一万札を取りだした。

「4万円あります。これも突っ込みます」

「え、だって、それは……」

「馬券を買ったのは最初の一レースだけで、あとはふりをしていただけです。三好さん、外れたショックで、まったく馬券を見ようとしませんでしたから。いけると思っていました」

 僕は何も言えなかった。確かに、目がくらみそうになったから購入はすべて任せていたけれど、まさか、こんなことになっていようとは。

「依頼人の本心を知るまでは、無茶な買い方はさせません。それがうまくいきました」

 驚きだ。ここまで考えて動くとは。これが伝説の馬券師なのか。

「いいですか。三好さん、買いますよ」

 剣崎さんの表情は、はじめて会った時とまったく変わらない。口調も同じだ。

「今ならば降りることもできますよ。一万の損で帰っても、私はかまいません」

「でも、その組み合わせは来るんでしょう」

「はい」

「ならば、買いましょう。どうなっても悔いはありませんよ」

 この人なら信じられる。清々しい気分で、僕は言い切った。

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