チロルハイムの四次元彼女

鹿野月美

Prologue

プロローグ

 春――

 桜の季節。

 出逢いの季節。

 始まりの季節。


 僕は、そんな温かい日に、一人の少女に出逢った。


 住宅街の一角にある小さな公園で、その少女は歌っていたんだ。

 静かな昼下がりに、辛うじて聴こえるか聴こえないかくらいの小さな声。

 春の風に黒く長い髪をさらりと靡かせて、時々それを手で触れている。

 小さく柔らかい唇を僅かに震わせながら、その優しさに満ちた音を響かせる。


 どうしたらこんなにも暖かな声が出せるのだろう?

 辺りの空気は透き通っていて、そこへぎゅっと声の波動が詰め込まれていた。


 僕はその美しい光景を、ただただじっと見つめていた。

 歌の温もりと公園全体の景色が共鳴し、まるでここだけ時間が止まってしまったかのよう。


「ねぇ……」


 しばらくするとその少女とふと目が合った。

 遥か数メートル離れた桜の樹の下から、少女は僕に凛とした声で話しかけてきたんだ。

 僕はどきっとした。胸が高鳴り、緊張して、それでもなんとか声に出して返事をしようとする。


「な〜に?」


 鋭く優しい視線で僕を見つめた少女は、右手で髪を抑え、左手でスカートを抑える。

 春らしい力強い風が、僕の胸の奥までぐっと押し寄せてくる。


「春って、好き?」


 キーの高い少女の声が、僕の耳に囁いてきた。


「好きだよ」

「ふ〜ん。そっか」


 桜色に染まった、そんな声が返ってきた気がした。


「君は?」

「私も、たぶん好き」

「たぶん……?」


 少し曖昧な返事に、僕はなんだか可笑しくなって思わず笑ってしまう。

 少女もやはり僕と同じように笑っていて、空気の色がより一層桜色に包まれた気がした。

 心が通いあった気持ちで、今日の素敵な出逢いを互いに祝福していたんだ。


「君って、この辺りの人? あまり見たことないけど……」

「私、今日この街に引っ越してきたの」

「そっか。……じゃあ、また会えるね? きっと」


 その瞬間、もう一度強い風が吹く。春の風って、どうしてこんなに強いのか。

 長いスカートがふわりと宙を舞い、少女は右手で強くぎゅっと抑えていた。

 顔の色は、桜色からさらに強い赤色へと染まっていき……


「今、見た?」

「……み、見てない!」

「てか、なにこんな住宅街のど真ん中の公園でナンパしてきてんだよ?」

「……は、はい???」


 突然出てきたキーの低い少女の声が、唐突に僕を窮地に追い立たせる。

 僕を襲う強風に、その一瞬何が起きたのか全然わからなかった。


「私は大丈夫ですよ。少し強い風が吹いたので、ちょっと慌ててしまいました」

「は、はぁ…………」


 少女の顔が赤からピンク色にまた戻っていく。

 いつの間にか空気は桜と同調していて、また少し少女の声のキーが高くなっていた。


「知り合いを待たせているので、私はこの辺で失礼します」

「あ、うん。気をつけて」

「君みたいな優しい人に会えて、良かった」

「……そう?」

「私、この街のこと、好きになれそう」


 そう言って、少女は僕に笑みを返したかと思うと、すたすたと行ってしまった。

 僕もこの街、好きなのかもしれないな。そんな風に誰ともなく、自分自身に回答していた。

 こんな何もないようなただの住宅街でも、すぐに好きになれる人がいるなんて。

 それを思うと僕は少しだけ、救われたような気持ちになれた。


 これが今年の春の僕の小さな出来事。小さな小さな出逢い。


 ――ところで、さっきの一瞬のあれは、一体なんだったのだろう?

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