1-15 『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』③



 古色蒼然とした日本家屋。明かりのない部屋の中には十本の蝋燭。火がついているのは九本だけ。始まりの一つであった蝋燭は、十九年前に灯火が消えたまま、ずっと闇に閉ざされている。


 一人の男が将棋盤と向き合っている。男にも女にも子供にも老人にも見える。ただ、人でありながら人であることを忘れてしまったような、美しい男だった。


「もしよかったらわたしが相手しましょうか、冬人(ふゆと)叔父様」


 若い少女の声が問いかける。冬人は薄い唇でわずかに笑みの形を作った。それが否定の所作であることを少女は知っていた。


「またですかぁ? いっかいぐらいやってみましょうよ。案外、いい勝負になるかもしれないですよ」


 軽快な声で駄々を捏ねながらも、少女は、どうせ自分では相手にもならないことを知っていた。叔父が誰かと指しているところを見たことはないけれど、だれも彼に敵わないのはわかっていた。


「叔父様が指すその駒に、いったいどんな意味があるんですかねー」

「燐(りん)。現実と将棋はまったくの別物だよ。混同するべきではないね」


 冬人は穏やかな声で窘めた。だが燐は不貞腐れてるのをアピールするために、わかりやすく頬を膨らませる。もう高校生になり顔からは幼さが抜けてきたが、その仕草だけは子供のころと変わらない。


「なんていうか、わたしって役得なさすぎると思うんですよね。無免許運転とか初めてしたのに。あれ、これって日本語おかしいですか? まあいいや、とにかく褒めてください。はい叔父様、お小遣い!」

「あんまり甘やかすと、兄さんと姉さんに申し訳が立たないな」

「もうどっちもいないじゃないですか。両親なんて」

「だからこそだよ」


 冬人は微笑む。大切な忘れ形見なのだから無下にするわけにはいかない。それは彼の本心であり、けれど何の意味もなかった。


「安心するといい。今回の件において《青天宮(せいてんぐう)》は関与しない。もともと彼らは政治に排斥された陰陽師たちの成れの果てだ。国家権力がすでに介入している事柄には、ことさらに手を出すことを嫌う。今後については千鳥にも裏を取っている」

「そんな御大層な。けっきょくは仕事じゃないですか。いまのご時世、やらなくていいことならだれだって残業してまで横槍入れたいなんて思いませんよ」

「大いなる指導者を失い、幾重にも枝分かれしているとはいえ《青天宮》の戦力は絶大だ。いまだ国家の霊的守護を司る組織として最低限の機能を果たしている。十九年前に一度は破られたはずの国土大結界がふたたび敷設され、そして現在に至っても維持されているのがその証拠といっていいだろう」

「そのときに色々と手を加えて悪いことでもしちゃったんですか? そうじゃなかったら叔父様のその千里眼みたいな地獄耳にとても納得できないんですけど。なんかわたしの着替えとかまで覗かれてそうだし」


 冬人は無言のまま目元を和らげると、手に持った将棋の駒を軽く握りしめた。


「ま、いいですけど。そんなことより、お兄ちゃんのことどうにかしてくれません? ぜんぜん言うこと聞いてくれないっていうか、もはや何もせず寝てるだけっていうか、やる気ってもんが感じられないです」


 燐は冷ややかな目で言う。


「前から聞こうと思ってたんですけど、どうしてお兄ちゃんを指名したんですか? わたしたちの一族とは違う血が流れているのに。なんで引き取っちゃったんですか、あの人を」

「半分は僕の血を引いている。それが理由だ。燐はあれが嫌いか?」

「や、普通に好きですよ。ぼろくそ言ってますけど。ただもうちょっと人生まじめにやってくれないかなって思ってるだけです」


 燐の言い分に、冬人は苦笑した。姪を愛でる優しい表情だった。それに意味がないことを燐はよく知っていたから、変わらず冷めた目つきをしたまま、これまでとは違って低く抑えた声で語る。


「もうこの国の人たちは灯火を恐れることはない。散りゆく花をそれもまた風情だと思える。月がきれいな日には見上げることもできる。我らが《十灯籠》と呼ばれたのも遠い過去の話でしかない。だってもう始まりの家は、零の一族はいないんですから」


 闇の中で、九つの火が揺れた。本来であれば口にすることさえ憚られる、その忌み名に。


「だってぇ、冬人叔父様がぁ」


 くすくすと煽り立てる笑い声。明かりの途絶えた一本の蝋燭を見つめながら。


「ぜーんぶ、皆殺しにしちゃいましたもんね」


 冬人は静かに口元で笑うだけだった。将棋も指さず、挑発にも乗らない叔父を退屈に感じたのか、燐はあっさりとその場を辞した。


「じゃあまあそういうわけで、わたしは楽しい高校生活をエンジョイしてますので。今度こそ何かあったら何も言わないでくれると嬉しいです。さようなら、叔父様」


 てくてくと歩いていき、障子をわずかに開いた燐は、そこで何かを思い出したのか動きを止めた。


「あ、そういえば」


 ぱたん、と障子が閉まる音がした。冬人はそちらに目を向ける。しかし、そこに少女の姿はもうなかった。


「――ちっちゃな頃から、ずっと考えてたんですよ」


 ほんの一瞬、それこそ瞬きのうちに、冬人の背後に気配が回っていた。首筋には冷たい刃物が当てられている。


「冬人叔父様を殺しちゃえば、もう全て終わってくれるんじゃないかって」

「そうなれば、また誰かが全てを始めるだけだ」


 恐怖も緊張もなく、それどころか目の前にある盤面を見つめて相手のいない対局に思考をめぐらせながら、冬人は淡々と答えた。


「それはもしかしたら、お前かもしれないな。燐」


 小さなナイフを握る燐の手が微かに震える。それから数秒の後、ゆっくりと離れた。


「なんちゃって。うそうそ。冗談ですよ。びっくりしました?」

「ああ。殺されるかと思った」

「またまた。わたしの台詞ですよ。ただの可愛い姪ジョークだったっていうのに、それを本気にしたこわーい番犬さんがさっきからギラギラと目を光らせてるんですから」


 大げさに溜息をつきながら刃物をふところに戻すと、燐は年相応の軽い挨拶を投げかけてから、今度こそ部屋を去っていった。


 冬人はかたわらの虚空に視線を向けた。そこにはしわがれた老人が一人、闇の中にひっそりと佇んでいる。寄る年波により衰えながらも、炯々とした眼光だけは凶犬のように輝いている。


「お思いか」


 老いた口から漏れたのは、巌のように重たい声だった。


「露と消えにし燈火のように、人の死を見届けることこそ咎負いなればと」

「そうだ」


 冬人は即答する。


 今夜、一つ目の条件は達成された。あとは二つ。そのために誰よりも選ぶ。誰よりも殺す。その役目を引き継いだ者は、まさに咎負いの咎負いと呼ぶに相応しい。


「うつろわざる命に価値を問おう。かつての零の一族がそうであったように、いまの僕もそうであることを約束しよう」


 そのためなら一人の命が失われたとしても些事に過ぎない。たとえそれが、年端もいかない少女だったとしても。


 なにより冬人には、どうしても見定めなければならないものがある。それは大切な約束だから。


 冬人の答えに納得したのか、静かに頷く気配がした。


「まだ貴方は貴方でおられるようだ」


 その言葉に僅かな安堵を覚えて冬人は目を閉じる。もうずっと昔になってしまった、あの頃に思いを馳せる。まだ日本の宵闇を十の灯籠が照らしていた時代。


 全てが終わり、全てが始まった十九年前。


 冬人は望むがままに、望まれるがままに、始まりの一族を殺し尽くした。ただ一人愛した女を、月の瞳を持って生まれた女を、殺した。


 そう、この手で。


「次の一手には、ずいぶんと時間がかかったね」


 銀将を取る。今宵、一柱の悪魔が表舞台に立つ決意をした。もう揺らぐことのない冬人の胸中に、一つの古い言葉が蘇った。止まっていた時が動き出したのだ。


 冬人は盤面を見つめる。彼の対面に誰かが座したのは生涯において二度だけ。幼少のみぎり、咎負いの娘と。最後の夜に、悪魔のような神のごとき男と。


 あれからずいぶんと時が流れたが、いまや生きているのは彼一人だけだった。


 冬人は並んだ駒たちを眺めながら、その複雑に入り組んだ状況を反芻した。


「あやをつける、か。皮肉なものだな」


 暗がりに灯る火は九本。かつてこの国の闇を照らしていた数より、それは一つ少ないままだった。






 全てが終わってしまったあとも、閑散とした夜の河川敷の片隅に、それはまだ残っていた。


「――アぁ、ああぁ、あ、あァ――」


 声にならない声でうめく影。かろうじて人型を呈しているが、輪郭はおぼろで、いまにも風に溶けて消えてしまいそうなぐらい儚い。


 そんな影を、ナベリウスは静かに見下ろしている。


 絶対零度の理は否定された。それはすなわち、《悪魔》にまつわる怪異が全て消え去ったことを意味する。しかし、こうしてまだ残っている”何か”がある。悪魔の力に頼らない不可思議な存在は、身も蓋もない言い方をすれば死んでしまった人間の未練や想念、つまり幽霊ということになるのだろう。


「いつだって報われないことのほうが多い。それが人という生き物だったな」


 どうしてここまで現世にこだわるのか、ナベリウスにはわからなかった。それでも苦しみ続けるより、いっそ一思いに成仏させてやったほうがいいだろう。


「――アァ、あ、ヤァ――」


 顔なんてないはずなのに、影は確かに涙をこぼした。少なくともナベリウスにはそう見えた。


「――ア、ヤ。アヤ、アヤァ――」


 その二文字が意味するところは、ナベリウスにも理解できた。


「――ゴメ、ナサイ。ゴメン。ごめん、ね。ごめん、ごめんなさい――」


 はっきりとした声で、ひたすらに影は謝り続ける。哀れなほど泣いて、ここにはもういない少女に対して、手遅れになった言葉を伝えている。


「そうか。おまえは」


 ようやくわかった。この世界に戻ってきた理由。死んでも死にきれなかった理由。いまだに留まろうとする理由。


 とても簡単なことだった。


「ただ、仲直りしたかっただけなのか」


 人を殺したことを後悔して、親友を傷つけてしまった自分に絶望した。仲違いしたまま二人の少女は別れて、一年の時を経て再会したものの、すれ違った時間の分だけ心は離れて、最後まで埋まることはなかった。


 遠山咲良は自分に厳しく、責任感が強く、そして不器用な少女だった。口先だけの謝罪は自分が楽になるだけで、相手は救われないと理解していたのだろう。だからできることなら彩の手で決着をつけてくれることを望んだ。


 安易に許してもらうことより、自ら償うことを選んだ。


 ほんとうはずっと謝りたいと思っていたのに、親友の母親を殺してしまったことに極度の罪悪感を抱いていた咲良は、面と向き合って自分の気持ちを正直に伝える勇気もなかった。


 こんな歪んだかたちでしか、想いを遂げようとすることもできなかったのだろう。


 それもけっきょく、無意味になってしまったけれど。


「やはり報われないな」


 謝りたい。仲直りしたい。また一緒に笑いたい――その想いがどうしようもなく本物だったからこそ、仮初の命とはいえ遠山咲良は現世に舞い戻った。しかし、そのせいで再び親友を傷つけることになってしまった。


 死んで消える程度の想いだったのなら、ここまで悲劇は大きくならなかっただろうに。


 虚しいものだ。もう想いを伝えるべき相手はどこにもいない。だからこうして現世にしがみついても意味はない。


 桜の名を持つ少女が、こんなにも親友を大切に想っていたという事実も、だれに知られることもなく忘れ去られていくだろう。


「それでも、無駄ではなかった」


 全てが終わるそのときまで、ちゃんと伝えられなかったかもしれない。けれど、だれにも届いていないわけではなかった。


 そんな慰めぐらいは、せめてあってもいいと思うから。


「おまえの想いは、確かに私が受け取ったよ」


 その声を聞いて、影はぴたりと静止すると、貌がないはずの貌に泣き笑うような表情を浮かべた。あるいはそう見えてしまったのも、ナベリウスの余計な感傷がもたらした錯覚だったのかもしれない。


 これはただ人が傷つけ、傷つけられ、救いもなく終わっていったというだけの話なのだから。


 氷の柱が夜空を衝いた。細く、長く、美しい、さながら墓標のごとき氷塊。


 それが粉々に砕け散り、桜の花のように破片を散らした後、そこにはもう何も残っていなかった。





 次回 1-16『百合の面影』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る