1-15 『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』①


 櫻井彩は、足を引きずりながら絶対零度の河川敷を歩いていた。ぽたぽたと全身から絶え間なく血が流れていて、細かな傷も含めれば数えきれない。普通の人間ならすでに意識を失って三途の川でも見ている頃だろう。


 彩の命を繋いでいるのは、その身に宿した人あらざる魔性の力だった。強制的に生かされていると表現したほうが正しいかもしれない。死体さえも操り人形のように動かす”何か”は、さながら寄生虫のごとく宿主に活力を与えている。生きるためではなく、殺すための力だったが。


 もはや一蓮托生となってしまった。


 彩に憑依したものを取り除く術があったとしても、それは末期患者から生命維持装置を外すのと変わらない。かといってこのまま放っておけば衝動を抑えきれなくなり人を殺してしまうだけだ。


 もっとも、そうなってしまう前に自分が死ぬほうが早いと思うけれど。


 残された僅かな時間で、彩はなんとなく生涯を振り返っていた。

 

 どこで間違えてしまったのか。何がいけなかったのか。そんなことをぼんやりと考えている。


 病弱に産まれてしまったのが間違いだったのか。彩が苦労ばかりかけるから、実の父親はいなくなってしまった。だからお母さんには幸せになってほしいと思って、できるかぎりの努力をした。


 勉強も、運動も、人付き合いも、何もかも。


 多くは望まなかった。お母さんがそばにいてくれるだけでいい。たまに褒めてくれればよかった。手を繋いで、頭を撫でて、抱きしめてくれるだけで嬉しかった。


 それだけで彩は頑張れた。


 そんなことを望むのが、そんなにもいけなかったのか。


 彩に与えられたのは罪だけだ。咲良をふたたび目の前で見殺しにするという、過日の夜の追体験。


 包丁だけはずっと握りしめたままだった。


 きっとそれが、いまの自分を象徴しているように思えたからだろう。


 諦めて、我慢して――そうやって自分ではなく他人のために生きてきたはずなのに、だれかを傷つけるだけの人生だったから。


 母親も、親友も、大切な人たちはみな、彩を残していなくなってしまった。


 こんなことになるなら、お母さんにもっとありがとうと言っておけばよかった。心の底からの感謝を伝えておけばよかった。まだ何も恩返ししていなかったのに。いつの日か、愛する人との間に自分も子供を産んで、それをお母さんに抱かせてあげることが密かな夢だった。


 咲良にも言いたいことはいっぱいあった。憎んで、憎まれて、罵って、罵られて、いっぱい喧嘩して、もういいでしょってぐらい喧嘩して、それから。


 仲直り、したかった。


 自分の気持ちを、もっと自分で伝えられる、そんな自分でいられればよかった。


「ああ、そっか……」


 どこで間違えてしまったのか。何がいけなかったのか。


 ずっと考えていたけれど、いまになってようやく答えがわかった気がする。


 いつだったか、母親と二人で花見をした。近所の公園を通りかかると開花したばかりの桜が咲いていたので、ちょっと見ていこうという流れになったのだ。たんなる散歩のついでだったかもしれない。


 帰りましょうか、と提案して歩き出す母親の手。


 なぜかそれを、彩は一度だけ引いたのだ。


 ――ねえ、お母さん。


 ほんとうはもっと一緒に桜を見ていたかったのに、風はとても冷たくて、母を困らせたくなかった彩は、小さなわがままを言えなかった。


 思えば、あれが最後の機会だったのだ。


 ――そうだね、帰ろっか。


 もうちょっとだけ、こうしていたいな。


 もしあのとき、いつもよりほんの少しだけ勇気を振り絞っていたら、思っていることをちゃんと口にできる自分でいられたのなら、あるいは違う結末もあったかもしれない。


 あとはどうやって死ぬか。


 さっき自殺を試みたが無理だった。人を殺したいと本能に訴えかけてくるくせに、どうやらその対象に彩は含まれていないらしく、包丁を逆手に持った途端に身動きができなくなった。


 いまとなっては自分の生死すら満足に選べない。


 だから彩は歩く。それぐらいしかすることがない。いや、むしろ止まったほうがいいのか。そもそも離れるのは悪手だろう。ついさっきの戦場から逃げなければ、本物の悪魔が彩をちゃんと殺してくれたはずなのだから。


 それなのに歩く理由。こうして逃げている理由。考えるまでもなく、答えはすぐにわかった。


 夕貴の顔を見るのが怖いだけだった。


 夕貴に嫌われてしまったと、その事実を知るのが恐ろしくてたまらない。とても正面から向き合うことなんてできない。


 夕貴が咳き込んで苦しんでいるのを見たとき、どうしても放っておけなくて手を伸ばそうとした。でもためらった。


 咲良の言葉を思い出してしまったからだ。


 ――どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ。


 さすが親友だな、と思う。彩の本質をよくわかっている。また逃げる。失敗する。後悔する。やり直したいと望む。けどできない。それを延々と続けて繰り返す。こんな人生に何の意味がある。


 何度も歩み寄ってくれた夕貴に、彩ができたことと言えば、いつものように傷つけるだけだった。


「――あ」


 何かに躓いて転んだ。受け身も取れず、顔から氷の上に倒れる。鈍い痛みが脳髄まで響いて、ちかちかと視界が明滅した。からん、と金属質な音を響かせて包丁が転がる。


 立ち上がろうと腕に力を込めるが、四肢は生まれたての小鹿のように震えていて、すぐに支えを失い、また地面に吸い寄せられる。


 ごつん。


「……痛い」


 繰り返してみる。でも結果は変わらない。顔をぶつける。何度も。


「痛い。いたい。いたい、よ……」


 ぼろぼろと涙がこぼれる。


「もうやだ。いたいのやだ。こわい。こわいよ、おかあさん……」


 頬に冷たい感触を味わったまま、彩は傾いだ視界の中で泣き続けた。


「さくらちゃん。ごめん、ごめんなさい。わたし、ほんとは、ずっと……」


 もう動くこともできなかった。子供のように身を丸めて、孤独という名の極寒の吹雪から身を守る。懸命に声を上げる。しかし彩の声は、すでに吐息よりもか細く、この広い世界では残酷なまでに無意味だった。


「だれか、だれか、だれか、ねえ……」


 お母さんはいない。咲良はいない。だれもいない。


「だれか、おねがい……」


 やっぱり独りだ。独りきりなのだ。


「だれか」

 

 ああ、だからせめて。


 どうせだれも困りはしないのだから、最後に一つだけわがままを言ってみようか。


「だれか……わたしを、たすけて」





「わかった」





 もっとも聞きたくない声がした。もっとも聞きたい声がした。涙でぼやけた視線の先に、彩の気のせいでなければ人影が立っている。目元も拭えないものだから、ぱちくりと何回もまたたきをして、涙を追い払ってみる。


「もっと早くそう言えばよかったんだ、おまえは」


 いつもと同じ決然とした眼差しで萩原夕貴がそこに佇んでいる。ずっと遠くのほうから、頼りない足取りでこちらに歩いてくる。


 夕貴がいる。そう意識したとたん、彩の身体がゆっくりと起き上がった。自分の意志ではなかった。極上の餌を見つけた内なる悪魔が、壊れた人形を無理やり動かすように彩を操作している。


 殺したい、殺したくない――そんな葛藤が鬩ぎ合って、心が張り裂けそうだ。


 威嚇のために、落ちていた包丁を拾って固く握りしめる。自分に近付いては危険だとわかりやすく彼に示唆する。


 それでも夕貴は、眉一つ動かさなかった。


「やめ、て。こないで」


 足元をふらつかせながら、彩は首を力なく横に振った。


「来ないで。お願い」


 掠れた声で懇願するが、夕貴には届かない。そうしているうちに彼我の距離は狭まる。手を伸ばせば触れられる。


 あ、殺せる。


「――っ!」


 そう考えてしまった自分に愕然として、彩は腕を振り払った。


「来ないでって、言ってるでしょう!」

 

 少女のものとは思えない腕力で、夕貴の身体は何メートルも後ろに吹き飛ばされる。反射的にガードしてくれたのは幸いだが、もし彼が腕を上げなければいまの一撃で殺してしまっていたかもしれない。そう思うと、絶望で死にそうになった。


 数秒と間を置かずに夕貴は起き上がった。うめき声すら上げない。痛みを感じていないわけではなく、ただ表情に出していないだけだ。これ以上、彩が自分を責めないようにするために。


 また夕貴は近付く。彩は腕を振るう。そのたびに少年の身体は傷つき、少女の心は悲鳴を上げた。そんな光景だけが何度も目の前で繰り返される。


 傷ついている彼しか、見れなくなった。


 たしか、わたしは。


 となりにいる人が笑っていることがうれしくて、それだけが全てだったはずなのに。


 これも罰なのか。


 たすけて、なんて。


 そんな贅沢なわがままを口にしてしまったせいで、夕貴から『彩を見捨てる』という選択肢を奪ってしまったのかもしれない。


 夕貴は懲りずに立ち上がる。彩に歩み寄ってくる。


「……なんでよ、どうしてよ、頭おかしいんじゃないの。死ぬんだよ。殺すよ。わたし、夕貴くんを殺せるんだよ」


 それは苛立ちの声――と称するには、あまりにも少年に対する思いやりで溢れていた。


 愚かな彼を見ているうちに、彩の顔は嘲笑に歪んだ。そうするしかないと思った。


「そっか。もしかして同情してるの? わたしがかわいそうって? バカな女だって? 夕貴くん知ってる? それってね、自己満足っていうんだよ」


 そうだ、もっと歪めろ。歪めないといけない。そう自分に言い聞かせて、憎たらしく悪役を気取る。不器用だった咲良とは違う。子供のころから『櫻井彩』という仮面を被り続けてきた自分は、きっと最後のときまでうまく振る舞える。


「ずっと迷惑してたよ。うっとうしいんだよ。いつも自分の力で何とかできると勘違いしてる。夕貴くんみたいな男の子、ほんとは大嫌いなんだよ」


 せいぜい嫌われて、死んで当然だと思われる最低の女になればいい。


「いままで夕貴くんのせいでいっぱい泣いたよ。そのたびに夕貴くんは何とかしようとするんだよね。だれもそんなこと頼んでないのに。ねえ、物語のヒーローにでもなったつもりだったの?」


 悲劇のヒロインを気取っていた彩は、これまで夕貴の前で何度も涙を見せた。それを夕貴が止められたことは一度もない。夕貴の落ち度ではなく、たんに彩が泣き虫なだけだったけれど、ここは利用させてもらうことにする。


「どうせ無理だよ。今度も、きっと届かない」


 咲良の言葉を借りて、無力を突きつけるための呪いをかける。


「……約束、したからな」


 夕貴は口元だけで薄く微笑んだ。


「やく、そく?」

「いや、そんな大層なもんじゃないかもしれない。だってこれは、もしもの話だ」

「……あ」


 それはデートの帰り道、雨に降られる街を眺めながら交わした小さな約束。何気なく口にした彩でさえ忘れていたのに、彼の胸には未だにあのときの言葉が残っている。


 嬉しくて瞳が潤みそうになる。でも泣くことは許されない。ここで折れたら、夕貴を罵った言葉まで嘘になり、いたずらに彼を傷つけたという事実だけが刻まれて終わる。


 表情を固くして、彩は夕貴のことを睨みつける。眼差しには侮蔑を込めて、言葉にはしっかりと感情を乗せて、夕貴を、そしてなにより自分のことを騙しきらねばならない。


 心を殺せ。想いに蓋をしろ。決して悟られるな。


「バカだよ、夕貴くん。ほんとバカ。そういうの迷惑なんだよ」


 思いつくかぎりの悪罵を口にしながらも、彩の頭は過去の自分のさりげない発言を悔いていた。度し難いほど愚かだったのは彩のほうだ。


 もしもの話なんて、しなければよかったのに。


 彼の言葉を思い出してはいけない。彼の笑顔を思い出してはいけない。絶対に泣いてしまう。


 それでも溢れる想いだけは、どうしても止められない。


 あの日の情景が、まざまざと脳裏に蘇ってくる。


「調子に乗らないでよ。わたしはあなたのことなんて何とも思ってない」


 ――でも、そうだね。もしもの話だけど。


「ほんとに嫌い。大嫌い。わかってよ。近付かれたくもないんだよ。顔を見てるだけでも虫唾が走るんだよ。わたしは困ってなんかない。困ってなんか、ないんだよ」


 ――もし、わたしが困っていたら。


「わたしは一人でいいの。ずっとそうだった。あなたなんていらない。だれの助けも必要ない。だから大丈夫。どうしようもなくなんて、そんなの、ぜんぜん」


 ――もし、わたしがどうしようもなくなっちゃったら。


「あとは、その……ええと、だからっ! と、とにかく、夕貴くんのせいで苦しくて、苦しくて、ほんとうに苦しくて……だから!」


 ――そのときは。


「もういいんだよ。わたしのこと見捨ててくれても」

「よくねえよ。相変わらず不器用なやつだな。さっきみたいにはっきり言えばいいのに」


 ――夕貴くんがわたしを――


「助けるよ。当たり前だろ? こう見えても、いちおう男なんだから」


 彩の心が震えた。涙腺が決壊しそうになるのを寸前で堪える。


 夕貴がこんなにも見捨てずにいてくれるから、まだ彩は人間でいられる。


 だからせめて、いまのうちに。


「……ほんとうに、わたしを助けてくれるっていうなら」


 彩は包丁を投げて渡した。澄んだ音がして、氷の上に血に染まった刃物が転がった。


「それで、わたしを殺してよ。夕貴くんの手で終わらせてよ」


 夕貴は無言でしばらく包丁を眺めていたが、やがてそれを拾い上げた。そして、彩に近づいてくる。どうやら彼もそれしか方法はないと気付いてくれたらしい。


 このときを待っていた。こうなるように仕向けた。そのはずなのに彩は例えようもない恐怖を覚えて足を竦ませた。自分の死というものを想像できていなかったわけではない。ちゃんと決意もしていた。しかし、覚悟だけが致命的に足りていなかった。それを悟られないために悪意ある挑発を続ける。


「そ、それぐらいのことなら、夕貴くんにもできるでしょ。まさか、で、できないって、言わないよね」


 みっともないぐらい震えていたが、幸いにも雪と氷のせいで寒いという言い訳もできそうだし、まあ及第点だろう。そう思って彩は目をつむった。足音が聞こえる。もう近い。いつ刃物が心臓を抉ってもおかしくない。


 終わりを意識した瞬間、ただ未練ばかりが彩の胸を締め付けた。


 どうせならもっとお母さんに甘えていればよかった。咲良にわがままを言って困らせてやるのも面白かったかもしれない。夕貴には最後まで本音をぜんぜん言えなかったし、そんな彼の手で殺してもらえるなら本望でもあるけれど、どうせなら、どうせなら。


 どうせなら、もっと。


「一緒に、いたいよ」

「いればいいんだ」


 彩を襲ったのは痛みではなく、優しいぬくもりだった。抱きしめられていた。いい匂いがする。男のくせにちょっと女の子みたいな甘い匂い。


「な、にしてるの。だめだよ。わたしは、もう」

「俺がこうしたかったんだよ」

「抑えきれないの。もう、むりなんだよ」

「じゃあおまえは嫌なのかよ」

「え……?」

「こうされるのが嫌なのかって聞いてるんだよ」

「……じゃ、ない」

「聞こえない。もっと大きい声で言えよ」

「……いや、なわけ、ないじゃない」


 彩は止めどなく涙を流しながら、夕貴の胸に顔を埋めた。


「わたしだって、ずっとこうしていたいに決まってるじゃない!」


 少女の答えを聞いて、少年は満足したように腕に力を込めた。彩は子供みたいにわんわんと大声で泣いた。その涙から逃げることなく、今度は自分の胸でしっかりと受け止めて、夕貴は彼女の頭を労わるように撫でる。


「あの、ね。わたしね。ちがうんだよ。夕貴くんの思ってるような子じゃないんだよ」

「ふーん」

「これでも頑張ったよ。ずっとわたしなりにやってきたんだよ。それでもどうにもならなくて」

「俺がいる。だからどうにかなっただろ」

「…………」

「あ、照れてる」

「照れてない!」


 この男はこんなときに何を言っているのか。ちなみに彩の顔が真っ赤に染まっているのは怒りのせいであって、決して夕貴の発言に絆されたわけではない。胸が苦しくてたまらないのは、たぶん知らないうちに怪我をしたからだろう。


 夕貴の身体は、確かに鍛えられてはいるが男子の中では華奢なほうだ。でも触れてみると、肌の下には筋肉がしっかりとついていて、とても男の子って感じがする。


 もうなんだかぜんぶ反則だった。


「俺はおまえのことをぜんぶ知ってるわけじゃない。でも知ってることだっていっぱいある。みんなの前で行儀よく笑うおまえのことを知ってる。ちゃんと気遣いができて優しい性格だってことも知ってる」

「……そんなの、ほんとうのわたしじゃない」

「かもな」


 夕貴はあっさりと頷く。


「でも、それでいいんじゃないか。どんなときも、どこにいても変わらないやつなんていないんだ。どっちが本物でどっちが偽物とか考えるからややこしくなる。俺だって女の子がいたら格好いいところを見せたくて張り切るし、ガキの頃からの親友には意地を張るよ。だれだってそんなものだろう」


 違う。そんないいものではない。彩は夕貴の思っているような人間ではないのだ。それをわかってもらいたくて、たどたどしく言葉を綴る。


「で、でもね。夕貴くん、知らないと思うけど、ほんとのわたしは、実はすっごくわがままで、信じられないぐらい甘えたがりで、人見知りで泣き虫で……」

「やっぱりおまえ、本物のバカだろ」


 彩の自虐を、わざとらしい溜息が遮った。


「そんなの、ただ可愛いだけじゃねえか」


 ほとほと呆れた夕貴の言い分に、彩は言葉も出なかった。バカは夕貴のほうだと言い返してやりたかったのに、それすらもできなかった。夕貴のあまりに悠長な発言に驚かされてしまう。


 でもそれは理由の半分に過ぎない。もう半分は、夕貴に可愛いと言われて、こんな状況なのに嬉しくなってしまった自分のバカさ加減。


「……バカ、だよ」


 彩も、夕貴も。


「バカにバカって言われたくねえよ」

「う、うるさいなぁ! バカは夕貴くんのほうだもん! それだけは譲れないんだもん!」

「そうだな。そうかもしれない」


 バカが二人もいては収拾がつかず、もはや手が付けられない。


 だから夕貴は、抱きしめる腕に力を込めた。


「落ち着くまでずっとこうしてろよ。俺がそばにいるから。お前を一人にしないから」

「……もう、遅いよ」


 この世に都合のいい奇跡などない。


 彩の想いも、夕貴の決意も、非常な現実の前には無力だった。


 限界が訪れる。彩の心と身体を蝕むものは、もう人の意志では抗えないところまで来ていた。


 殺人衝動。


 彩の身体が勝手に動き出す。夕貴を突き飛ばした。その間際に、彼の手から包丁を奪い取る。目の前にいる血の滴る獲物を前にして、彩の身体からふたたび邪悪な波動が溢れ出した。どす黒いオーラが夜に揺れる。


 視界が暗転する。遠のいていく意識の中で、彩が最後に見たものは、こちらに向かって手を伸ばす夕貴の姿だった。

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