1-14 『彩鮮やかな幸福を』①


 ずっと手は繋いだままだった。


 どこをどう走ったのか、二人が辿り着いた先は河川敷の高架下だった。


 夕貴と彩は、風化したコンクリートの支柱に背を預けている。荒い呼吸を繰り返すだけで会話はない。四月の夜風が汗をかいた肌を撫でていく。


「逃げてって……」


 彩が苦しそうに声を絞り出す。身体をくの字に折り曲げて、熱っぽい吐息を漏らしている。肩にはなぜか二つのかばんを下げている。一つは以前にも見たことのある彩のものだが、もう一つは知らない。


 小さな、小さな、だれかのかばんだった。


「逃げてって、言ったのに……」


 手を繋いでいるから――いや、触れていなくてもわかる。彩の身体は人のものとは思えないほど熱かった。異常なまでの体温。ひたいには珠の汗をかいているのに、顔色は病人のごとく蒼白。どう見ても普通の状態ではなかった。


「なんでわたしのこと放っておいてくれないの。助けてほしいなんて言ってない。そんなこと、だれもお願いしてない」


 うわごとのように呟く声は、非難よりも哀訴めいた色合いのほうが強かった。


「夕貴くんは、なんで、わたしのこと……」


 彩の声は少しずつ力をなくしていく。走りっぱなしで疲れたのか。それとも、もうどうしようもないのか。考えたくなくて、夕貴は握りしめる手にぎゅっと力を込めた。


 いま自分がこうしている理由は、夕貴にも理論立てて説明することはできない。表面的なものはいくらでも思い浮かぶ。たとえば、彩を見捨てられないから。かわいそうだと思ったから。笑顔が好きで、いつまでも笑っていてほしいから。泣いているところなんてもう見たくないから。


 彩のことが好きか、と聞かれれば夕貴は頷くだろう。だが愛しているかと問われれば答えに窮する。心の底から女性を愛したことはまだなくて、彩に抱いている感情が、世間一般でいうところの愛と呼ばれるものと同じなのか、夕貴には判断がつかない。


 どちらにしろ、その友情やら愛やらが、出逢って間もない少女のために命を賭ける理由になるとは夕貴にも思えなかった。


 それなのに夕貴はここにいる。彩のそばにいて、いまも手を握っている。


「俺は……」


 心の整理なんて一切できていない。彩の疑問に答えることはできないし、もっと言えば、意味のある言葉を口にする自信さえなかった。


 それでも彩に声をかけてあげたかった。彩の声を聞いていたかった。


「俺はここにいる。彩のそばにいる。ずっと手を握ってるよ」

「…………」

「ほら、女の子がひとりでこんな暗いとこにいたら危ないだろ。だから俺は、どんなことがあってもおまえを独りにはしないから」

「……バカ。かっこつけ。女たらし」

「そんな言い方ひどくないか? いまの俺、たぶん人生でいちばん男らしかったと思うぜ」

「似合わない。ぜんぜん似合わない。そんなに可愛い顔してるくせに」

「おまえには負けるけどな」

「バカ」


 どちらからともなく笑う。


「ね、夕貴くん」

「なんだ?」

「……わたしを、殺してくれない、かな」

「は?」

「それがいちばんだと思うの。たぶん、そうすれば、ぜんぶ終わるから」


 意識が朦朧としているのか、彩は熱に浮かされた声で言う。


「ああ、そっか。あのとき、の……咲良ちゃんの、気持ちが」

「ふざけんな。俺はもうおまえを傷つけない。そう決めたんだよ、勝手にな」

「……あはは」


 どこか諦めにも似た苦笑。


「夕貴くんなら、そう言うと、思った」


 その直後だった。

 

「う、あぁ……」


 胸を手で抑えて彩が苦悶の声を上げる。これまでとは明らかに趣が異なる反応。彩の体温がさらに上がる。心臓の音すら聞こえてきそうだ。握りしめたてのひらは、もうどちらのものかわからない汗で濡れて、溶け合うように熱い。


 それなのに、現出した禍々しい気配は冷たすぎて魂まで凍えそうだ。彩の身体から砂漠の夜の蜃気楼のごとく歪んだオーラが立ち昇る。得体の知れない病魔が宿主を少しずつ蝕むように、夕貴のとなりにいる少女を侵食していくのがわかる。


 ガタンゴトンと音を立てて、ずっと遠くのほうから電車が走ってくる。


「おね、がい。逃げて」


 夕貴はなにもできなかった。どうすればいい。助ける方法なんて知るはずもない。顔を上げた彩と目が合って、揺れる瞳が懸命に少年の逃走を促す。自分から離れろと、わたしを見捨てろと言っている。


 しかし、それは逆効果だった。せめてこの手だけは決して離すまいと、夕貴は、ほどけそうになる指先を深く絡み合わせた。


 頭上の高架を電車が通過していく。吹きすさぶ風が二人の髪を揺らす。喧しすぎて声も聞こえない。だから、ぽとりと地面に落ちたそれを夕貴が見つけたのは、合間から降り注いだ一瞬の照明のおかげだった。ついさっきまで彩がぶらさげていた小さなだれかのかばん。それがゴミみたいに足元に落ちている。


 夕貴は手を伸ばして拾おうとしたが、中身は何も入っていないことに気付き、あれ、おかしいなと思ったところで、暗闇のなかで銀色が光ったような気がして、それが電車から降り注いだ光であったことに安堵し、でも反射的に身体を引いてしまったのは紛れもなく本能がただ勝手に危険を察知したからであって、決して彩のことを脅威だとか恐怖だとかそんなふうに感じたわけじゃない。


 俺はどんなことがあっても彩のそばにいる。そう誓ったのだ。


 そう誓ったばかりなのに、二人の手は離れた。


 夜の闇に煌めく軌跡を描いたのは、どこの家庭にでも一柄は常備されている普通の包丁。おかしなことがあるとすれば、それが夜の河川敷で翻ったという事実。


 後ろに下がりながらも彩に伸ばした夕貴のてのひらに、ぷつりと一筋の紅い線が刻まれる。灼けるような痛みが走ったのは、数秒ほど遅れてからだった。


 過ぎ去った電車の代わりに静寂が訪れる。


「あ、彩……?」


 それに耐えられず、夕貴は彼女の名を口にした。かつて夕暮れの帰り道で笑い合った記憶が蘇る。ただ名を呼ばれることが、この世に生を受けて親から一番初めにもらった大切な想いを確かな声にしてもらえることが、こんなにも嬉しいと知っているから。


「彩」


 あのとき、彩は笑ってくれた。気恥ずかしそうに頬を染めて、女の子らしくはにかみながら、夕貴の名前を呼んでくれた。だからもしかしたら、こうして彼女の名を呼べば、いつかと同じ笑顔を見せてくれるのではないかと思った。


 右手に包丁を握り、それを振るったままの体勢で、彩は静止している。ただでさえ暗い夜の河川敷の高架下だ。俯いたまま微動だにしない彩の顔は陰になって見えない。


「彩!」


 それは失敗だった。呼びかけなければよかった。彩がゆっくりと顔を上げる。そこに表情はなかった。ただ瞳から痛ましいほどに涙だけが流れている。大粒のしずくが頬を伝い、ぽたぽたと地に吸い込まれる。夕貴の手からも流れる赤いしずくが、哀しい雨の音にさらなる罪悪感を注ぐ。


 こうして彩の泣き顔を見るのは、もう何度目になるのだろうか。


 包丁についていた夕貴の血が、刃先を滑り落ちて彩の指まで垂れる。


「あ」


 たったいま気付いたかのように、彩は大きくまたたきをして、自分の手を見た。そこに固く握られている包丁と、付着した血液と、傷ついた夕貴を、呆然とした目で順に眺める。


「……やっぱり、こうなっちゃった」


 そして彩が見せたのは、納得したような、諦めたような、そんな笑みだった。


「知ってた。わかってたよ。きっとわたしは、夕貴くんを傷つけることになるって」


 違う、と言いたかった。ガキみたいに赤く泣き続ける手を服にごしごしと擦りつけて、そんなものはどこにもないと証明したかった。でも彩の手を染める血だけはなかったことにはできない。だれも騙せない。


「わかっていたのに離れられなかった。ううん、違う。離れたくなかったんだ。こうなることぐらい予想できたのに。笑っちゃうよね。あなたにだけは傷ついてほしくなかったのに、けっきょく、わたしがだれよりもあなたを傷つけることになるんだから」


 夕貴が彼女を泣かせてしまったように、彩が彼に悔いを与えたように。


 人は生きているだけでこんなにも誰かを傷つける。ならば、誰かと一緒にいることにどれほどの意味があるというのか。


「逃げて。まだ間に合う。いまからでも遅くないと思うから」

「そんなの、できるわけないだろうが」

「こんなわたしを、夕貴くんだけには見られたくない」

「…………」

「だめかな?」


 いつものように楚々と首を傾げる彩。だから夕貴は頷けなかった。


 いつものように見えるということは、すなわち彩がほんとうの自分を隠しているということだ。


 それぐらい、間抜けな夕貴にも理解できるようになっていた。


「夕貴くんにはわたしを殺せない。だから一緒にはいられない。これはただ、それだけの話なんだよ」


 言葉の代わりに、夕貴は拳を固く握って、大地をしっかりと踏みしめた。逃げる気なんてない。いまの彩を放っておけるほど夕貴は男を捨てていない。


 彩から苛立ちと、それ以上に辛そうな気配が伝わってくる。彩の感情に呼応して、どす黒い波動が激しく勢いを増した。


 何もかもあやふやな中で、一つだけ確かなことがある。


 彩の肉体を支配しているのは、彼女に取り憑いたあの禍々しい気配だということだ。あれこそ諸悪の根源であるのは間違いない。なんとか彩の動きを止めて、そのうちに除霊だか退魔だか知らないが、とにかくそれっぽい方法を思いつくかぎり探して試してやればいい。


 身に馴染んだ空手の構えを取ると、彩は悲しげに目を伏せた。


「……やめてよ。夕貴くんに、いまのあなたに、何ができるっていうのよ」

「そんなもん俺が知るか。未来のおまえにでも聞いてこい。あのときわたしはこうして助けてもらいましたってな」


 すでに夕貴は決意している。今度こそ、どんなことがあっても彩と向き合うと。泣いていたとしても目を逸らさない。最後まで寄り添い続ける。


 たとえ彩が、人殺しをするような化物に成り果てていたとしても。


「おまえが一人で何を抱えて苦しんでいるのか、俺は知らない。あの夜、どうしてあんなに泣いていたのかも死ぬほど考えてみたけど未だにわかってない」


 でも、と夕貴は続ける。


 なに勘違いな台詞をほざいてんだって自分でも呆れるが、これぐらいなら俺にもできると思うから。


「もし抱えているものが重くておまえが潰れそうなら、そのときは俺も一緒に背負うから」

「背負う? 背負うって……」


 言葉の意味を判じかねて、彩は冷たい表情で繰り返す。その顔色は次第に怒気を帯びて、身にまとうオーラが風となって勢いよく逆巻いた。


「ふざけ、ないで」


 彩にとってそれは致命的に許せない言葉だったらしく、涙を散らして怒号が飛んだ。


「ふざけないでよ! そんな簡単にかっこつけて! わたしがどんな思いだったのかも知らないくせに!」


 頬を澎湃と濡らしながら、彩は叫ぶ。


「この一年、ずっと耐えた! もうだれにも褒めてもらえないのに頑張った! 秘密に、ぜったいに秘密にって、そう思って抱えてきた! それをいまさらあなたなんかに言えるわけないじゃない!」


 少しずつ声が小さくなる。子供のような嗚咽。


「あなたなんかに……」


 あなたにだけは、と。


 それは夕貴に聞かせるつもりもない独り言だったかもしれないが、しかし彼の耳にはしっかりと届いた。


「これ以上、わたしといたら夕貴くんは後悔することになるよ」

「させてみろ。それができたら特別に何でもわがまま一つ聞いてやるよ」

「わがまま、かぁ……」


 彩は苦笑した。たったそれだけの言葉に深い感慨を抱いて。


「ああ、やだな」


 ここにはない花を想うように、彩は瞳を閉じた。


「今年の桜が、こんなにきれいじゃなかったらよかったのに」


 言葉を置き去りにして、少女の身体が消える。夕貴にはそうとしか感じられなかった。正面ではなく真横から衝撃。次の瞬間にはもう夕貴は大きく吹き飛ばされていた。腕には骨の軋む感触。とっさに両手を上げて頭をガードしたのが功を奏した。


 夕貴は地面を二度ほどバウンドして芝生の上を滑った。受け身を取って立ち上がる。左手は痺れてしばらく使い物にならない。もし頭以外を狙われていたら間違いなく致命傷を負っていただろう。常人離れした桁外れの膂力だった。


 ――死ぬかもしれない。


 意識した途端、どっと全身から汗が噴き出る。なんだかんだと言いながらも、心のどこかで人はそう簡単にくたばるものじゃないって楽観している自分がいた。


 その驕りが、たった一秒で打ち砕かれた。


 だらりと脱力した姿勢で、彩は夢遊病者のごとく佇んでいる。すでに本人の意識はないのか、表情どころか瞳にも人間らしい光はない。漆黒のオーラが身体を覆っている。宿主を守っているようにも、苦しめているようにも思える。


 よく見れば、さきほど夕貴を殴りつけたと思われる彩の手は、無残にも皮膚が裂けてぽたぽたと血が垂れていた。


 色白で小さな女の子らしい手だった。握りしめれば壊れてしまいそうで、だからこそ守ってあげたいと思った。


 それがいまは、あんなにも。


 あれは彩の意志じゃない。櫻井彩という少女を蝕む”何か”によって操られている。さながら人形劇のように全身に糸を結び付けられて。


 もうだれも傷つけたくないと願って生きてきた優しい女の子に、こうしてだれかを傷つけさせているのだ。


 その事実を思うと、死の恐怖がどうでもよくなるぐらいの怒りが込み上げてくる。痺れていたはずの左手が勝手に拳を握っていた。ほんの数分前までは、こんな怒りではなく、彩の手がそこにあったのに。


 ふたたび彩の姿が消える。速すぎた。明らかに異様な運動性能。繰り出される手は、素人特有のただ腕を薙ぎ払うだけのものだが、巨大なハンマーでぶん殴られたような理不尽な衝撃と破壊力がある。


 反撃するどころか、殺されないように立ち回るだけで必死だった。自惚れでもなんでもなく、夕貴でなければとうに死んでいただろう。こうして人の身でありながら命を繋いでいるだけで奇跡に近い。


 彩の手には包丁が握られたままだが、夕貴に振るわれることはなく沈黙している。それが彩にまだ人間性が残されていることの証だと信じるしかない。


 規格外の暴力に翻弄されながらも、夕貴に去来していたのは痛みでも危機感でもなく、どうしようもないぐらいの青臭い感傷だった。


 なんていうか、まあ。


 いま思えば子供の頃はよかった。世界は優しいだけだった。そんな日々がずっと続いていくと当たり前みたいに信じていた。


 ――わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 何も知らなかった幼い少年にとって、この世界は二色に別れていた。倒すべき悪者がいて、守るべき人がいて、そんな単純なものなのだとたかを括っていた。


 ずっと昔、まだもしもの話も考えられなかった夕貴は、こんな簡単な落とし穴にも気付かなかった。


 たとえば。


 もしも自分が守りたいと願ったはずの少女が、こうしてだれかを傷つけるだけの悪者になってしまったら。


 そのとき俺は、何に対して拳を向けるのか。


 わるいやつが泣いていたら、泣いている子がわるいやつだったら、俺はだれに手を差し伸べればいいのか。


 そんなに俺は難しいことを望んだのか?


 せめてとなりにいる人には笑っていてほしくて、だれかの泣いている顔なんて見たくなかっただけなのに。


 それだけのことが、いまはこんなにも遠い。


「……は」


 乾いた笑いが漏れる。考えても仕方ない。それでも後悔せずにはいられないんだ。


 きっとどこかで上手くいっていれば、何か一つでもボタンが掛け違えていれば、こんなことにはならなかった。


 なあ、彩。


 どうして俺たち、こんなことしてるんだろうな。


 ただバカみたいに笑い合って、何でもない日々を過ごしたかっただけなのにな。


 そんな問答をする余裕もない。まばたきや呼吸の間隔を一つ間違えただけで死に直結する攻防の中では、自分の命を守ることが関の山だった。


 だから。


 自分の命を守ろうとさえしなければ、いくらでも文句を言ってやれる。


 集中する。神経を研ぎ澄ます。心臓が一度だけ鼓動する。二度目は聞こえない。その狭間が、いまの夕貴の生きる世界だから。


 目が、瞳が、熱い。


 いつかの大雨の夜にも、こんな灼熱の感覚をまぶたに味わったことがある。


 あまねく全てを見通すような眼。生まれ持った才能でも、秘めたる力でも、ガキの痛い勘違いでも何でもいい。


 彩を、見る。


 たったそれだけだ。


 明瞭となった視界のなかを、漆黒の髪がよぎった。ふわりと少女の匂いがする。その中でも微かな血の臭いは隠しようもなく鼻孔を刺激する。それは人工の香料を好まなかった彩が間違って振った歪な香水。バカが。ほら見ろ。似合わないのがバレバレなんだ。


 拳を握る。歯を食いしばる。脚を踏ん張る。心は、覚悟をする。


「ざっ――」


 限界まで彩を引きつける。たぶん、チャンスは一度きり。


 彩が、いや、もうお互いが絶対に回避不能な間合いになるまで力を溜めてから。


「――けんなぁ!」


 力のかぎり拳を振り抜いた。相打ちでもよかった。女の子に手を上げる以上、むしろ相打ちじゃなければ気が済まなかった。秒にも満たない未来に、会心の手応えが夕貴の手に伝わってくるはずだった。


 でも夕貴は見てしまった。翻弄されていただけの夕貴が、突如として正確に放った一撃を前にして、驚きに目を見張る彩の顔。この目が、燃えるように熱い瞳が、見たくもないものを鮮明に映し出してくれる。わずかに表情を強張らせて、これから訪れるであろう痛みに怯えるような、ただの少女の顔を。


 時間が極限まで凝縮される中、夕貴の頭にいくつもの思い出が蘇った。一緒に走った。クレーンゲームで喜びの声をあげた。デートした。ご飯を食べて、映画を見て、観覧車から街の風景を見下ろした。笑いあって、桜を見上げて、雨の夜にはすれ違いもした。


 手加減をするつもりはなかった。覚悟もしていたはずだった。


 だから夕貴の拳が一瞬、不自然に速度を緩めてしまったのは、きっと何かの偶然に過ぎなかった。


 彩は紙一重の差で避けると、夕貴のふところに潜り込み、服を掴んで乱暴になぎ倒した。繊維がいやな音を立てて破れる。強烈に地面に打ち付けられて、夕貴は肺のなかの空気を全て吐き出した。


 生まれて初めて味わうほどの壮絶な衝撃は、夕貴の肉体から完全に自由を奪った。悶えることもできず、血が混じったよだれを垂らしながら、吸えもしない酸素を取り込もうと口を開閉させることしかできない。


 光が差し込むように、彩の瞳に少しずつ感情が戻ってくる。ほんの小さな何かが、彼女の心を揺さぶったのかもしれない。


 彩もよろめいて倒れそうになる。ふらつきながらも彩は、仰向けに伏している夕貴のうえに馬乗りになった。喘息にでもかかっているような、苦しく熱っぽい吐息が降ってくる。


 消耗の度合いで言えば、しかし彩のほうが大きかった。動くたびに体力ではなく、心が擦り減っている。


 夕貴に跨る彼女の身体は、服越しでわかるほどの異常な熱を宿している。触れている個所が燃えてしまいそうだった。それなのに悪寒がずっと止まらないのか、歯の根が噛み合っておらず、かちかちと音がしている。


 彩は唇を何度か震わせると、ためらいがちに呟いた。


「……さっき、なんで」


 それっきり何も言わない。夕貴はまだ声を発するだけの余裕もなく、切なそうに顔を歪める彩を見ることしか許されていなかった。


「そんな、ので……」


 彩の目から涙が溢れる。止めどなく。


「そんなので、背負うなんて言わないでよ……!」


 弱く頼りない夕貴を責める。口にした言葉に責任を持てなかった彼を責める。もしかしたら自分を助けてくれるかもしれないと期待させた男を責める。


 彩にそんなことを言わせた自分を、夕貴は責める。

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