1-13 『桜の花のように』①


 かつて遠山咲良は、自分が特別なのだと思っていた。


 恵まれた家柄に生まれた。本物の天才である兄姉がいた。自身もまた非凡な才能を持っていた。咲良という少女を取り巻く何もかもが特別で、幼い頃は劣等感とは無縁だった。


 それに気付いたのはいつだったか。


 確かに咲良は、あらゆる物事において平均以上の優れた結果を示したが、その反面、どんなに努力しても何かで一番になることができなかった。同じ血を引くはずの兄姉は、両親の期待に応えて常に競争の中で首位の座を守り続けていたのに。


 家族の中で自分だけが特別ではないと思い悩んだ日もあった。努力して、でもぜんぜん思うようにいかなかった。諦めたくなくて、自分に負けることだけは認められなくて、ずっと一生懸命に、不器用ながらも走り続けた。


 そんな咲良の苦悩があっさりと解決したのは小学生の頃である。犯人は当時、近所に住んでいた二つ上の少年だった。


 ――がんばってもがんばらなくても、何になっても何になれなくても、僕にとって咲良ちゃんは咲良ちゃんで、それだけで特別なんだよ。


 そのときまで咲良は、みんなの特別じゃなくて、だれかの特別になるということがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。


 そう言ってくれた彼が、咲良のことを放って家庭の事情なんてもので引っ越していったときは苛立ちのあまり泣いてしまったけど、その思い出があるから咲良は頑張れた。


 成長した咲良は、高校の入学式で一人の少女と出逢う。


 櫻井彩。


 懐かしい名字だった。その歳になっても恋する乙女さながらに、ノートに彼の名前を書いては物憂げに見つめたりしていたから忘れるはずもなかった。


 ささいなことから彩と仲良くなって、はじめて櫻井の家に遊びにいった日、咲良と少年は再会を果たすことになる。その小さな偶然に、咲良は運命という名前をつけた。それから離れ離れになってしまった時間を取り戻そうとするかのように、幼馴染の二人は同じ時を過ごした。


 一年が経ち、二年を過ぎるころ、親友となった彩の美貌はとみに深みを増しつつあった。顔からは幼さが抜けて、ふとした仕草には大人の女の色香が混じるようになり、同性である咲良でさえときおり見惚れるほどだった。


 けっきょく、咲良は高校でも勉強や運動で一番になることはなかった。男子から人気はあったが、いつも彩がとなりにいたから自分の容姿を誇る気にはなれなかった。それでも自分を特別だと認めてくれる人がいたから、どんなときでも咲良は咲良でいられた。


 少年の――いや、いまでは立派な青年となった彼の想い人を知るまでは。


 義理の妹に恋をしてしまった彼を、だが咲良は責めることができなかった。むしろ血の繋がらない男女が一つ屋根の下で暮らすという関係が、自分では及びようもなく特別なものに思えた。


 想いは、実らなかった。


 自分を見失いそうになった咲良は、そのとき告白してくれた同級生の男子を受け入れた。大した理由はない。ただ彼が、どことなく咲良の想い人に似ていたからだろう。ようするに、寂しさを忘れるための手頃な身代わりだった。


 そこから先のことを咲良はあまり記憶していない。だが顛末だけはなんとなく覚えている。


 出逢ったときと比べると、彩はずいぶんと明るく笑うようになっていた。新しい家族ができて、気の許せる親友ができて、少しずつほんとうの自分というものを見せ始めていたのだ。このときの僅かな時間が、彩にとってもっとも充実した日々だったことは想像に難くない。


 だが皮肉なことに、そうやってみんなの求める『櫻井彩』の仮面を外した彩は、より魅力的な少女となってしまった。義理の兄が想いを抑えきれなくなり、勇気を振り絞って告白を決意する程度には。


 そこに至るまでにどういう経緯があったのか、咲良には知る由もないし、知りたくもなかった。


 家族というものに飢えるのと同じぐらい、今度こそ家族というものを大切に守ろうとしていた彩は、まさかの兄からの告白をひどく拒絶した。


 さらに同じ頃、咲良は交際していた男子から別れを告げられることになる。真摯に頭を下げて彼は教えてくれた。実はずっと好きな人がいて、一度告白したが想いは実らず、それを忘れるために咲良に近づいたのだと。


 代わりだと思っていたのは咲良だけでなく、彼にとっても咲良は本命の代わりに過ぎなかった。


 咲良は怒りもせず、笑みさえ浮かべて彼の謝罪を受け入れた。むしろ謝るのは自分のほうだと思っていた。彼が咲良と別れたあと、すぐに彩のもとに走ったときも、もはや何の感慨も懐かなかった。


 みんなの特別になりたかったわけじゃない。咲良はただ、だれかの特別になりたかった。


 それが叶うなら、自分の生き方を変えてくれた幼馴染の青年であってほしかっただけ。


 次々と大切なものを失っていく。どんなに頑張っても、指の隙間からこぼれ落ちていくのは止められない。努力すればするほど空回って何もかもがうまくいかなくなる。まるで幼い子供の頃に戻ったかのようだ。あのときとは違って、いまはもう咲良のことを特別だと認めてくれる人はいない。


 そんな咲良の目の前で、彩は手にした全てをあっさりと未練なく捨てていく。それはぜんぶ、咲良が心の底から望んで、しかし手に入らなかったものばかりだった。


 羨ましかった。記憶にノイズが走っている。思い出せない。泣いているところを彩に見られた。とても酷いことを言ってしまった。彼に選ばれたのに拒絶した彩が許せなかった。ノイズが聞こえる。ノイズ。消えればいい。ノイズ。ひどく傷ついた彩の顔がいまでも忘れられない。それに仄暗い快感を抱いてしまった自分も忘れられない。


 そうして世界から色が消えていった。こんな自分に何の意味がある。生きていても仕方ない。彩と仲良くならなければよかった。いや違う、彩は大切な友達だ。とてもお母さん想いで、わたしにはもったいないぐらいの親友だ。憎い。なぜ彩はみんなから好かれるのか。大嫌い。決まっている。優しいからだ。母親からもらったプレゼントのことや、久しぶりに頭を撫でてもらったことで、あんなに嬉しそうに語る姿が愛らしいからだ。


 じゃあここで、ちょっとひとつ考えてみよう。


 ほんとうにちょっとだけでいいから。


 お試し。


 あくまでお試しで考えてみよう。


 何の意味もない想像を、笑ってしまうぐらい稚拙な妄想を、前提すぎて仮定にもならない話を、ちょっとだけ考えてみよう。


 たとえば。


 もしもの話だけど。


 大好きなお母さんが死んじゃったら――彩はどんな顔をするのかな?






 ****






『――ああ、素晴らしい。それでこそ人の子だ。もっと願い給えよ』


 そんな声が響いたのを覚えている。


『届かぬ祈りに身を焦がす。愛しいな。愛しいとも。かつての知恵と万象の王を思い出すよ。私にとっては嬰児の駄々となんら変わらない』


 黒の法衣を身にまとう影は、慈しむように嘲りながら。


『――その願い、叶えてやりたくなるな』


 まるで詩人のように、そう唄った。


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