1-11 『あなたに微笑む』③


 日曜日、花見は満開の桜が咲き誇る自然公園で行われた。


 正午に差し掛かると、桜の木々が立ちならぶ芝生の広場は、大勢の家族連れによって賑わい、至るところで遊宴の限りを呈していた。暖かな日差しの下ではしゃぎ回る子供たちを、その笑顔の面影を感じさせる親のかんばせが、淡紅色の木漏れ日の中から遠く見守っている。


 溌剌とした若者の集まりも多く目についた。ランチボックスを広げるだけの者や、タープテントを組み立てて大掛かりなバーベキューを催す集団もいる。ちなみに夕貴の属するグループは後者だった。


 幹事である響子の謎の交友関係の広さが遺憾なく発揮された結果、まさかの三十人近くが集まるという大規模な事態となった。


 その中には、もちろん櫻井彩もいた。


 触れ合った夜から、もう何日経っただろう。最後に見たのが彼女の涙だったからか、離れた場所で笑う彩がなんだか遠い存在に思えた。


「おーい、夕貴くーん。肉焦げてるよー」


 横合いから響子に指摘される。夕貴は舌打ちをして、黒くなったそれを自分の皿に取り分けた。これでもう何枚目なのか、炭っぽくなった肉は、すでにうず高く盛られている。


「どうした少年。なんか気になることでもあるのかね」

「うるせえな。俺はちょっと焦げてるほうが好きなんだよ。男らしいだろ」

「そのわりには箸が進んでないように見えるのはあたしの気のせい?」

「いまはちょっと箸休めしてるだけだ」

「夕貴ってさ、わかりやすすぎるのが玉に瑕だと思うわけだよ。あたしは」


 いや、それが逆にいいとこでもあるんだけど、と響子はよくわからないフォローをする。


「五人」


 響子が言った。


「大学に入ってからあたしを介して、彩の連絡先を聞こうとしてきた男の人数。つまりあたしが知ってるだけでも最低それぐらいはいるってことになるね」

「なんで俺にそんなこと教えるんだよ」

「二人」


 指を二本立てる。


「そのうち、今日ここに来てる男子の数」


 楽しそうに話したりバトミントンをしている男女混合の中規模のグループを、響子は目で指し示す。よく観察すれば、その男子たちの視線は、競技に参加せずに隅のほうでほかの女子と談笑している彩を追っている。とくに熱心に見つめる二人がいて、それが響子の指に相当することは想像に難くない。


「一人」


 また響子が言う。


「大学に入ってから、彩に告白した男の数」

「へ、へえ。そうだったのか。知らなかったな」

「一人」

「おまえの話にはいったい何人出てくんだよ」

「玉砕した男の数。よかったね。その場で断ったらしいよ」

「さっきからほんとうなんだろうな? おまえの言ってる話、まったく聞いたことないぞ」

「アホめ。そういうことをむやみに言いふらさないのが彩っていう女の子なのよ」


 響子は大きな溜息をついた。


「夕貴はそのへん疎いから気付いてないかもしれないけどね。もっぺん言っとくけど、彩ってめちゃくちゃモテるんだよ? 素直で大人しいし、可愛いのに性格いいし。あんな子、今時いないよ? いやマジで」

「わざわざ声をでかくして言うな。それぐらいわかってるつもりだって」

「はーあ、これだからなぁ。あんたはあんたで、昔からぜんぜん自覚ないんだから」

「訳わかんねえこと言ってる暇があるなら肉を食え。特別にこのとびっきり焼けたやつをプレゼントしてやる」

「やっぱりアホ。それは肉じゃなくて炭っていうのよ」


 響子は指を一本立てた。


「一人」

「まだいんのかよ。そいつが最後の登場人物なんだろうな?」

「彩が自分から連絡先を教えた男の数。彩が初めてデートに行った男の数。あの櫻井彩が下の名前で呼んでて、さらに下の名前で呼ぶことを許してる男の数」

「…………」

「そして、ゼロ」


 ありもしない数を示すように響子は拳を握ると、それでちょんと夕貴の肩を小突いた。


「大学に入ってから彩の連絡先まで辿り着けた男の数。よかったね、夕貴くん」

「そんなのたまたまだろ。おまえがいなけりゃ知り合うこともたぶんなかっただろうよ」

「そんなわけだから、あの子ってば、まだ男と手を繋いだこともキスしたこともないとあたしは見るね。つまりチャンスってやつよ。ほら、女って生き物は無駄にロマンを求めるじゃん? やっぱりそれがなんであれ初めての経験ってやつは忘れようもなく思い出に残って……ってなに、その顔?」

「……なんでもねえよ」

「ふん、最悪の思い出にしちまったな……って顔してるよ? あはははっ、なーんちゃって」

「…………」

「え? まじで? うそでしょ? なにこの流れる空気?」

「うそに決まってんだろうが。バカみてえな妄想すんな」

「ですよねー」


 あーびっくりした、と火起こし用のうちはで顔を扇ぐ響子。でもそれは夕貴の台詞だった。長年の付き合いも決して馬鹿にしたものではない。


「ここはいいからさ、あんたとっとと行ってきなさいよ」

「肉はだれが焼くんだ? 男の仕事だろ」

「出た。夕貴の謎理論。そんなのより、ちょっと頼まれてくれない?」

「なんだよ。レアか? ミディアムか? ウェルダンならここにいっぱいあるからちょっとわけてやってもいいぞ」

「いらないわよ。いまの夕貴にレア頼んだらそのまま生肉が飛んできそうで怖いわ。実はちょっとジュースが足りてなくてさ。もしよかったら買い出しに行ってくれない?」


 重たいものを持つのなら、それは確かに男の役割だろう。夕貴は頷いた。すぐそばのレジャーシートで熟睡している玖凪託哉のほうを見る。以前にも大学の食堂で読んでいたようなくだらない三文雑誌を広げて顔に乗せている。こういうのを好むような男ではなかったはずだが、サボるための口実に用意したと思えばなんら不思議ではない。


「おら、起きろ託哉。いつまで寝てんだよおまえは。買い出しいくぞ」

「あーいいのいいの。こいつはあたしが叩き起こしとくから」


 そして響子はよく通る声で言った。


「おーい、彩ー! ちょっときてー!」


 変わらず歓談の時を過ごしていた彩は、自分が呼ばれていることを知ると向かい合っていた面々に、ちょっとごめんね、というジェスチャーをしてから、こちらに歩み寄ってきた。その背中を、男子たちが名残惜しそうに見つめている。


「響子ちゃん、どうしたの?」


 いつも通りの淑やかな佇まいで、彩は首を傾げて訊ねる。

 

「いやぁ実はちょっといま人手が足りてなくてさ。もしよかったら彩も手伝ってくれないかなーって」

「いいけど。何をすればいいの?」

「ありがと、そんじゃさ」


 響子は両手をパン、と叩いて頭を下げた。


「夕貴の買い出し、手伝ってあげてくんない? 一人だと文字通り、荷が重くてさ」


 夕貴と彩の目が合う。さまざまな感情が交じり合った視線。数秒ほど見つめあってから、彩は顔を背けて、小さく頷いた。


「……うん、わかった。じゃあわたし、ちょっと財布取ってくるね」

「あ、そんなのいいから。個人のお金じゃなくて……って早い早い」


 まるで逃げるように彩は離れていく。それなりにレクリエーションも企画されていたので、運動の邪魔にならないように荷物はまとめて管理しているのだ。少し遠い位置に建てられたタープテントに彩が入っていく。


「いい子だねえ、ほんと」


 しみじみと響子が呟く。


「彩もさ、恋のひとつでもしたほうがいいと思うんだよね。いや、べつに恋じゃなくてもいいんだけど、あたしらぐらいの年頃ならそれが一番かなって」


 辛いことを忘れるにはさ、と。


 言葉にはしなかったが、響子の声にはそんなニュアンスが含まれていた。


 ふと、夕貴は気になった。


 響子はどこまで掴んでいるのだろう。遠山咲良が亡くなっていることはもちろん知っているはずだが、つい最近になって彩がそれらしき人物を街で見て、ずっと追っていたのは聞いているのか。


「そもそも、おまえと彩ってどういう繋がりで知り合ったんだ?」 

「厳密に言うと、はじめは友達の友達の友達って感じだったかな。中学のとき、バスケの練習試合でそこそこ通ってた学校があったんだけど、そこにいた子の友達の友達が彩だったの。で、あたしの友達の友達も春からこの大学に通うことになってさ。高坂千穂っていうんだけど、ほら、あそこにいる子。入学式のちょっと前ぐらいに久しぶりに千穂と遊んで、そのときに彩もいて意気投合して、そっからちょくちょくみたいな感じよ」

「相変わらずバカみたいにややこしいな、おまえの交友関係。ようするに中学のときの繋がりなんだな?」

「そうよ。だからまあ、彩のこともそれなりに知ってるってわけ」


 ぎり、と音がしそうなほど響子は奥歯を噛みしめた。もともと感情豊かな女だが、こうして本気で怒りを露わにするのは実は珍しい。


「通り魔なんて胸糞悪いどころの話じゃないわ。あれってまだ犯人も捕まってないんでしょ。これじゃあ彩も浮かばれない」


 問うべきか迷ったが、夕貴は意を決してその名を口にした。


「なあ、響子。おまえはどこまで当時のことを……いや、遠山咲良のことを知ってるんだ?」

「へ?」


 ぽかん、と響子が口を開ける。思ってもみなかった間抜けな反応に、夕貴が呆気にとられた直後のことだった。


「とおやま、さくら? それ、だれのこと?」





 次回 1-12『咲良』

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