1-9 『雨、血染め桜』①


 適当に見繕った店で夕食を済ませる。外に出た頃にはもう午後八時を回っていた。夜の帳が下りた街は、昼間とは別の顔を見せ始めている。日曜が終わり、明日からは長い月曜が始まる。往来から人が減っているのはそれが理由だろう。それだけだと、夕貴は思いたかった。


 夜空には雲が敷き詰められていて、月明かりも通さないほどの徹底的な闇を湛えている。予報では夜半から明日未明にかけて雨が降ると伝えていた。それまでに彩を送り届けるつもりだったので特に気にしていなかったが、この様子では急いだほうがいいかもしれない。


 さすがに大雨が降るなら彩も大人しく家に帰るだろう。そんな打算があった。


 ゆっくりと歩く二人の間に会話はなかった。ただ流れる時間に身を委ねたまま歩を進めるだけ。道行く人が少しずつ二人を追い抜いていく。足取りは重かった。


 口を開けば、この穏やかな空気が壊れてしまう気がして、夕貴は何も言えなかったし、彩は何も言わなかった。


「……あ」


 先に気付いたのはどちらだったか。かすかな雨粒が頬を叩いた。またたく間に強くなる雨脚が、夢に微睡んでいた二人を嘲笑う。とうとう泣き出した空の泪に、街は慌ただしくなった。


「彩、こっちだ」

「あっ、うん……」


 夕貴が呼びかけると、彩はかばんを漁っていた手を止めて、すぐ後に続く。二人は、シャッターが下りて閉店している飲食店の軒先に逃げ込んだ。雨風を凌げるだけでも緊急の避難場所としてはじゅうぶんだった。


 すぐに土砂降りとなった。大粒の雨が降りそそぎ、人々は弾圧されて散り散りに駆けていく。天気を憂いて傘を用意していた者でさえ、斜めに打ちつける雨には敵わない。洪水を思わせる大量の雨音が、荒廃したオーケストラを奏でていた。


「やばいなこれ。こんなに降るなんて思わなかった」

「そうだね。……傘、持ってくればよかった」

「持ってたとしても意味なかったかもな。靴どころかズボンまでずぶ濡れになりそうだ」

「うん。雨が止むまで、どこかの店に入ってたほうがいいかな?」

「問題は、そのどこかの店がすぐ近くには見当たらないことだな」

「ここらへん、なにもないもんね」


 降りしきる雨。街から人が消えていく。早いうちから雨宿りをしていた夕貴と彩は、ほとんど濡れていなかったこともあり、閑散としていく様子を遠い世界のごとく眺めていた。


「ごめんな。こんなことになるなら、もっと早く送ってあげられればよかったのに」

「ううん、気にしないで。それに、まだ帰るつもりなんてなかったから」


 何気ない彩の一言。それを聞き逃せたら、それが聞き間違いだったら、どんなによかったか。夕貴はやるせない思いに囚われる。


「雨音って、なんか落ち着くよね」

「……よく言うよな。ほかにも波の音とか、電車の揺れとか」

「知ってる? これって赤ちゃんがお母さんのおなかの中にいるときに聞こえてる音と似てるんだって。だから、きっとみんな昔に戻ったみたいに感じるんだろうね」


 彩は瞳を閉じて、古い記憶のページをめくるように諳んじた。


「なあ、彩」


 うまく言葉が出てこない。でもなにか言いたくて、夕貴は曖昧なままの気持ちをそのまま口にした。なるべく明るい声で、世間話に聞こえるように。


「なんていうか、もし悩みとかあるんだったら、いつでも言ってくれよ。俺でよかったら相談に乗るし、できることなら何だって力を貸すから」

「あ、ありがと。でも急にどうしたの?」

「ほら、だれにだって悩みとかあるだろ。そういうのって意外と人に話してみると楽になったりするから。俺もつい最近は、黙っていれば天使みたいな悪魔にうまい飯を勝手に作られたりしてるからな。いい迷惑してるんだ」

「なにそれ」 


 彩は口元に手を当てて笑った。笑顔の余韻を残したまま、しばらく考え込むように雨の向こうを見ていた。


「でも、そうだね。もしもの話だけど」


 彩は言う。さりげない口調で。


「もし、わたしが困っていたら。もし、わたしがどうしようもなくなっちゃったら」


 少し恥ずかしそうに唇を噛み、彩は振り向いた。


「そのときは、夕貴くんがわたしを助けてくれる?」


 こちらを見上げる瞳には信頼が、薄く上気した頬には親愛があった。夕貴が彩のことを気にかけている分だけ、彩も夕貴のことを信じてくれていることがわかる。


 出逢ってから日は浅く、付き合いもまだそう長くないが、二人で築いて積み上げてきたものも確かにある。


 それが嬉しくて、夕貴は、ただ本心のままに彩の想いに応えた。


「ああ、そのときは俺がなんとかしてやるよ。こう見えても、いちおう男だからな」


 冗談げに混ぜ返すと、彩はさらに薄い微笑を重ねた。ありがとう、と唇が動いた。


 雨は降り続ける。足元の水溜りはずいぶんと大きくなっていた。肌寒いと思ってみれば吐息もいやに白い。自然、肩を寄せ合うかたちになったのは、無意識のうちに少しでも体温を欲したからだろう。


 いつの間にか、視界から人はいなくなっていた。ぶるりと、身体が震える。


 会話が途切れてからもうどのぐらい経つのだろう。彩は遠い過去を懐かしむような目で、雨に濡れる街をずっと見ていた。


 ざあざあと、雨は少しずつ激しさを増していった。


「……あのときも、雨が降ってた」


 その声は、夕貴には聞こえなかった。傘の一つでもあれば彩を庇いながら駅まで行けるのにな、と現実的な思考を巡らせていた彼には。


 夜霧にけぶる無人の街並みの中に、彩はそれを見た。


「……咲良、ちゃん?」


 彩が呆然と呟き、馴染み深くなった名を夕貴が逃さず捉えた、その瞬間だった。


 耳鳴り。


 耳鳴りがした。


 鋭く、ただ鋭く、錐のような鋭利さで耳をつんざくそれは、雨音さえ消し去るほどの音の暴力となって、夕貴を襲った。


「――また、か!」


 耳を抑える。直接、脳髄に反響でもしているのか、塞いだ手は意味をなさない。ふらつき、たたらを踏んで耐える。身体だけでなく意識すら傾いだ。頭が、脳が、心が、撹拌されていく。


 以前のものと比べて、今回のハウリングは明らかに生じる痛みが増していた。


 五秒、十秒と、ひたすらに押し寄せる音の波濤に、自分が決壊しかけた堤防にでもなった気がした。嵐が過ぎ去るのを待つしかない。


 ざあざあと、けたたましく地を叩く雨音が、少しずつ耳朶を打ち始める。余韻も、残響もなく、夕貴の意識は元の世界に戻ってきた。


 だがそれは彼の知る日常と同じものだったのか。


 目の前に広がる虚無の街並み。色褪せて見える景色。美しい桜を咲かせていたはずの街路樹も、一瞬、枯れ切って痩せた枝だけを伸ばす冬木に錯覚した。


 寒い。凍てつくように吐息が白い。気温は下がっていないはずなのに、体感的には四季が巡ったかのごとき寒さを覚えた。もしかしたらそれは悪寒だったのかもしれない。


 予感がした。


 嫌な、予感が。


「……彩?」


 すぐとなりに佇む少女は、大きく目を見開いたまま遠くを見ている。夕貴の声なんて聞こえていない。


「おい、どうしたんだよ?」


 返事はない。ふらりと、細い脚が伸びて、足首を彩るアンクレットが揺れる。白のパンプスが、暗闇に濁った水溜りを躊躇なく踏んだ。どこかに消えてしまいそうな彩の腕を夕貴は掴む。


「彩!」


 振り向きもしない。自分がいま手を握られていることさえ気付いていないのかもしれない。


「どこにいくんだよ、濡れるぞ」


 彩を行かせてしまうと、取り返しのつかないことになる。そんな漠然とした恐怖に駆り立てられて夕貴は話の穂を接ぐ。違う、ただ静寂が怖いだけだ。


「雨が止むまで待とう。それかちょっと濡れてもいいなら、走ってそのへんの店にでも入ろう。一緒にいるから」


 ざあざあ。沈黙がうるさかった。


「……ありがとう」


 ふっと力を抜いて彩は微笑んだ。その儚げな微笑は、息が止まるぐらい美しくて。


 彩の身体が、夕貴に寄り掛かる。自分よりも小さな少女の存在。目と鼻の先に、彼女の人柄を表すように一度も染められたことのない濡鳥の髪があった。突然の接触に、夕貴は驚きというより緊張した。


 抱きしめていればよかったのか。しっかりと両肩を掴んで、彼女の目と向き合って、言葉を交わせばよかったのか。


 もう遅い。


 次の瞬間、彩は夕貴の胸を軽く押すと、その反動で勢いをつけて大雨のなかに飛び出した。そんなに強い力ではなかったのに、大して足を踏ん張っていなかった夕貴は、よろけてシャッターに背をぶつけた。


 彩は走る。濡れることも厭わない。グレーのカーディガンを、白いワンピースを、天の恵みと謳うはずの水の奔流が、またたく間に台無しにしていく。吹き荒れる雨にかきけされて、彩の姿は秒刻みで見えなくなっていく。


「くそっ……!」


 舌打ちして、泣き止むことのない空を恨めしげに睨んでから、夕貴は雨のなかに身を躍らせると迷うことなく後を追った。






 櫻井彩は走る。頬を打ち付ける水滴が痛い。目に入って涙が出る。髪が肌に張り付いて邪魔だ。でも怯むことも、速度を落とすこともなかった。


 見えているのだ。ずっと向こうに、かつての親友の、遠山咲良の背が見えている。だから追いかける。確かめたい。知りたい。


 そして、やり直したい。


 遠い日の記憶が蘇る。片時も色褪せたことのない景色。目も眩むほど美しい朱の色と、泣き笑うだれかの顔。ざあざあと静かに、うるさく降りしきる雨。血に染まる、大好きだったはずの桜。


 あの夜も、こんな雨が降っていた。


 予感があった。願望だったかもしれない。今夜なら届く。また逢える。そんな気がした。彩は前を向いて走り続ける。振り返らなかったのは、彩を間違いなく追ってきてくれている少年の顔が見たくなかったからだ。


 もしいま彼に無理やりにでも抱きしめられたら、彩は一歩も動けなくなってしまうかもしれない。咲良を追うことより、夕貴に甘えることを優先してしまうかもしれない。痛くて辛い過去より、優しくて暖かい現実に逃避してしまうかもしれない。


 そんな弱い自分が、彩は大嫌いだった。


 甘えてはだめだ。わがままなんて論外。ちゃんと我慢して諦めろ。おまえはいったい何度間違えれば気が済む。何度喪ってしまえば理解する。


 ああ、だから萩原夕貴と出逢うべきではなかったのだ。


 どこか遠山咲良と似た少年。不器用で、一生懸命で、とてもまっすぐで。いつも前を向いていて、ひたむきで、諦めることを知らなくて。


 少しずつ、自分のなかで彼が特別になっていくのがわかる。かつての咲良と同じように。


 それを素直に嬉しいと思う。でも胸が温かく膨らんだ分だけ、心に刻まれた恐怖が蘇る。


 もし彼までいなくなってしまったらどうしよう。こんな弱くて情けない自分のことを知ったら、きっと彼は失望して離れていく。いやだ。怖い。もう見捨てられたくない。だれかに置いていかれるのは、あの世界から取り残されたような冷たい孤独は、もう二度と味わいたくない。


 こうして彩が走っているのは、咲良を追いかけるのと同時に、夕貴から逃げているのかもしれなかった。優しい彼が、彩を見限る前に、自分から離れている。傷つけられるぐらいなら、傷ついたほうが楽だから。


 そしてそれ以上に、きっと彩は夕貴のことを傷つけてしまう。


 咲良は、いつもと同じようにゆっくりとした歩みで遠ざかっていく。まるで距離は縮まらない。角を曲がると、その次の角に咲良は消えていく。滑稽な鬼ごっこを繰り返すうちに、かつての親友は細い路地に入っていった。


 ふと、月明かりが差した。


 違和感がきざして、彩は空を見上げる。当然ながらそこにあるのは厚い雲だけで、空の欠片も見えはしない。ならば自分はなにを月と錯覚したのか。


 近くのビルの屋上に並ぶ二つの影があった。小さく、輪郭がおぼろなそれを、目を凝らして観察する。まず見えたのは、風にはためく長い髪。影絵のごとく切り取られた美しい女のシルエットの中に、絶世の色彩を湛えた双眸だけが輝いている。


 その傍らに佇むのは、この暗闇の中でもはっきりと浮き彫りになるほどの昏い影だった。漆黒の衣を身にまとっており、人が想像し得るかぎりのありとあらゆる凶兆がそのまま人の形を成したような、ひどく不気味な気配を感じさせる。となりにいる者よりも遥かに禍々しい不吉の塊。無造作に伸びた黒髪の合間から、どこまでも黒く淀んだ瞳が覗いて、彩のことを睥睨していた。嘲るように。


 目が、合った。


「……え?」


 果たしてそれは現実だったのか。彩がまばたきをした半舜後には、もう屋上のふちにはだれの姿も残っていなかった。


 彩は強く瞳を閉じて、ぶんぶんと頭を振った。しっかりしろ。足を止める理由を作るな。あれは真実を確かめるのが怖いと思った、自分の見せた都合のいい幻に過ぎない。こんな大雨の中、どうして屋上に人がいる。


 己を叱咤して、彩は細い路地に入っていった。また咲良との距離が開いたかもしれない。だから見通しが悪くなっても、ほんの数メートル先の足元も満足に見れない薄暗さであっても、それを理由に足を止めてはいけない。


 結果としてその意気込みは、正しく、間違っていた。


「あっ……!」


 十メートルほど進んだところで彩は何かに躓いて、大きく転んだ。駆け抜ける勢いもそのままに前に倒れる。薄汚れて濁った雨水に両手をつく。顔から突っ込むことだけは阻止したが、両手の骨が軋むほどの衝撃が走り、てのひらを鋭利な石片かガラスで薄く切ってしまった感触があった。その証拠に、水溜りに血が流れている。赤く、どこまでも赤く、染まっている。


 あれ、おかしい。


 なんで、こんなに、血が、流れて。


「……な、なに?」


 募る恐怖を覚えて彩は、ついさっき自分を転ばせた物体を見る。暗くてよくわからない。もっと注視する。そして後悔した。


 死体。


 人の死体。


 見たこともないだれかが、そこに死んでいた。


 年若い少女の亡骸。自分の両手でしっかりと握りしめた刃物で、胸を突き刺して亡くなっている。墓標のごとく突き立った包丁は、新鮮な血を吸って、いまなお鈍く輝いている。驚きはしなかった。人の死はもう見慣れた。心が麻痺して感情を凍えさせる程度には。


 一年前に、大切な人を殺されたから。


「――あ」


 だが仰臥する遺体の顔を見た瞬間、彩は時の流れが止まってしまったかのような感覚に陥った。呼吸どころか、心臓の脈動さえ忘れてしまうほどの意識の断絶。自分という自分の動かし方がわからなくなる肉体の凍結。


 浅黒い血管が浮いた白い肌。空を見上げる瞳は昏く、剥き出しになった眼球を雨が叩いている。長い髪が大きく広がって、くらげみたいだ、と場違いな印象を抱いた。


 そして忘れられない、忘れてはいけない顔だった。


「……なんで?」


 遠山咲良が死んでいた。


 いつかと同じような光景の中で、いつかと同じような死に様で。


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