1-4 『あなたの名前』


 三度目の出逢いは、昼下がりの喧騒の中だった。


「もう知ってると思うけど、改めまして。この子は櫻井彩。よろしくね」

「……なんでおまえがよろしくするんだよ」


 動揺しつつも、響子の投げやりな紹介に反応できたのは長年の経験によるものだった。


 夕貴の視線の先には、どこか所在なさげに立ちすくむ少女がいる。肩口よりも少しだけ長く伸びた艶やかな黒髪は、流行のファッションを我先にと実践し始める大学生の中では一際珍しく映った。


 きれいな二重瞼に彩られた瞳も、すっと通った鼻梁も、かたちのいい薄い唇も、ほとんど化粧の色が乗っていないにもかかわらず生まれ持った顔立ちのおかげで、ただ俯くだけの仕草でさえ絵になる。


 そんな少女はいま、落ち着きなく目を泳がせて、愛想笑いと苦笑いを足して割ったような何とも言えない表情をしている。たぶん、夕貴もほとんど同じ顔をしているだろう。


「なにしてんの? 彩も座ったら? せっかくこいつらが席取っといてくれたんだし」

「……う、うん」


 頷きはしたものの、少女はまだ微動だにせず立ち尽くしている。しかし、すでに他の選択肢がないのも事実だった。もう周囲のテーブルに空きはない。


 数年前に改築されたばかりという真新しい三階建ての食堂には、午前中のスケジュールから解放された学生たちが我先にと押し寄せて大いに賑わっている。一階は混雑すると予想して、三階の日当たりのいい窓際の席を早いうちに陣取ることに成功したのは、もともと人混みを嫌う傾向にある玖凪託哉の勘が冴えた結果だった。


 そこまではよかった。争奪戦に出遅れた響子は、今朝の約束通りに夕貴を頼って相席しようとした。だが響子は一人ではなく、友人を連れていた。


 櫻井彩である。


 まさかこんなに早く再会するとは思ってもいなかった。同期ではあるが学部が違うため、偶然にすれ違うようなことも基本的にはないはずだったのだ。だれかの画策がなければ。


 昨日のことを振り返る。男性に絡まれていた彩を助けてあげたり、手を繋いで走ったり、日が暮れるまで街をそぞろ歩いたり、それなりに交流を深めることはできたと思う。和やかに談笑した時間は、日没を惜しむほどに楽しかった。


 しかし、なぜだろう。自然に話しかければいいだけなのに、妙に照れくさくて声をかけるどころか目を合わせることもできない。それは彩もまた同様で、とくに意味もなく夕貴のことを見ては、目が合いそうになると慌てて響子に視線を避難させている。


 さすがに違和感に気付いて響子が問いかけた。


「ん? どしたの? そんな恋する乙女みたいな顔して」

「……おい。なんでそれを俺の顔見て言うんだ?」

「わあ、ごめんごめん。つい間違えちゃったわ。どうしたのよ、彩?」

「おまえわざとだろ? そんなバカみたいな棒読みで誤魔化せるとでも思ってるのか? ええ?」


 それぞれ椅子に腰かけて、てきぱきと自前の弁当箱を取り出す響子と、いろいろな尊厳を踏みにじられて憤る夕貴と、マイペースを崩さず手元の雑誌を見ながら購買のパンをかじる託哉。


 そんな中で、櫻井彩だけが一人取り残されて佇んでいた。相変わらず微妙な表情をしたままで。


 親しい三人組の、それも男子が二人もいるところに、いきなり混じれと言われても気が引けるのだろう。それだけだと夕貴は思いたかった。


「えっ……と」


 困り顔だった彩は、そのとき夕貴と目が合った。びっくりして二人とも勢いよく視線を逸らす。


「なに? あんたたち、そんな仲良かったっけ?」


 思春期丸出しの反応をしている二人を交互に見て、響子が首を傾げる。


 彩は慌てて両手を振って否定しようとして、それに夕貴も便乗した。よく考えれば否定する必要がないことに気付くだけの冷静さがないところからも、少年と少女の動揺のほどがわかるというものだ。


「いや、あのね、ちがうの。わたしと萩原くんは、その、仲が良いっていうか、ね?」

「そうそう。まあちょっといろいろあっただけで? べつに響子に勘繰られるようなことは一切ないっていうか、なあ?」

「へーえ。いろいろ? いろいろかー」


 響子の口元が意地悪く歪む。びくっ、と夕貴と彩の身体が同時に跳ねた。それから二人は顔を見合わせる。


「あの、萩原くん? さっきの言い方だと逆に怪しかったんじゃないかな。いろいろって……」

「いや、まあでも、それ言うなら櫻井さんのきょどり方も半端なかったと思うぞ」

「きょどるって、それこそ嘘だもん。わたし、ちゃんとしたよ?」

「あれでよく言えるな。ね? ってなんだよ。ね? って。あれでだれがわかるんだよ。じつは俺でもその時点で怪しいと思ってたわ」


 夕貴の揶揄を受けて、彩はわずかに頬を膨らませた。


「それを言うなら、なあ? って何かな、なあ? って。それ聞いた時点でわたしはもう終わったって思ったよ?」

「終わるって何がだよっ」

「そ、そんなのわかんないよっ」


 少しずつヒートアップしていく夕貴と彩は、やがて響子と託哉の不思議そうな視線に気付くと、すぐに口論をやめた。二人とも顔はわずかに赤くなっていた。


 ほどなくして四人は、同じテーブルで昼食を摂った。まず夕貴は、みなに邪推される前に昨日の彩との出逢いを簡潔に説明した。これについては真実だったので口下手が証明されたばかりの夕貴の話も疑われることなく受け入れられた。


 からかうネタに尽きない話題だと語らいながらも夕貴は自負していたが、しかし響子は、なぜか満足げな微笑みをたたえている。そこに他意は見受けられない。


「夕貴ってさ、昔からそういうとこあるのよ」

「そういうとこ、って?」


 彩が首を傾げる。響子はひときわ明るく笑った。


「困ってる女の子がいたら放っておかないんだ、こいつ」


 どことなく自慢風な表情が、妙にくすぐったかった。


「……うるさいな。どこかのだれかさんがすぐ勝手に困るからそういう癖がついたんだろ」

「ほら、すぐ照れてそういうこと言うー」

「照れてねえよ。それにこれはけっこうマジだからな? 自覚しろ?」


 いまでこそ落ち着いたほうだが、響子は昔から男勝りな少女だった。そのフォローをしていたのは主に夕貴であり、たまに気が向いたときの託哉だったりした。とくに近所というわけでも親が知り合いというわけでもないのにここまで縁が続いているのは、きっとそんな幼い日があったからだ。


「そっか。萩原くんらしいね」

「でしょ? 夕貴らしいでしょ」


 おそらくお人好しだと言いたいのだろう。心当たりはありすぎる。たとえば、正体不明の悪魔女をあっさりと家に泊めたりする男はそうはいないだろうから。


 昼食の最中、響子は何やら意味ありげに、しきりに頷いたりしていた。たまに目配せしてくる。勘繰ってやがるのだ。


「そういうのじゃないからな」


 響子にだけ聞こえるように言う。


「そういうのって? あたしはなんも言ってないけど?」

「ならいい。そのままずっと黙ってろ」

「いやぁお目が高いわ。夕貴くん、君は見る目があるよ。うん、いい買い物をした。売ってくれるかどうか知らないけど」

「さっそくなんか言ってるじゃねえか」


 夕貴と響子がこそこそと話をするのをよそに、彩はおっかなびっくりといった様子で、託哉と何やら話している。どうやら互いに最低限の自己紹介をしているらしいが、そこに温かさはない。


「ふーん。櫻井、ねえ」


 託哉が雑誌に目を落としたまま興味なさそうに呟く。冷めた瞳がわずかな間だけ彩を見て、それだけで少女は身を竦ませていた。まるで眠れる獅子にそっと近づくウサギと、たまたま腹を満たして獲物にそそられない肉食獣といった絵面である。


「苦労するかもよ? 彩ってめちゃくちゃモテるんだから。しかも大人しい顔してるくせに、スタイルいいし。出るとこ出てるし」


 まあそうだろうな、と夕貴は思う。彩が着席してから周囲の視線が明らかに増している。ちなみに響子の台詞の後半は、意識してしまいそうなので聞こえていないことにした。そんなの言われるまでもなく服の胸元を大きく押し上げる膨らみを見ればわかる。


「夕貴ってさ。女に夢見てるとこあるじゃない? 清楚な子が好きだったり」

「清楚な子が好きだったら女に夢見てることになるのかよ」

「よかったね。あんたの好みドストライクでしょ」

「ほっとけ。あと男に夢見てるおまえには言われたくねえよ」

「ほー? あたしが男に夢見てると? ほー?」

「ガキのころ、白馬の王子様が迎えに来てくれるってリアルに言ってたのはどこのどいつだよ。ちゃんと覚えてるからな」

「でゅくし」

「痛っ。なにすんだ」

「訂正しなさい。ガキのころじゃなくて、いまもよ」

「痛いなおまえ!」

「二回も言っちゃう? そんなに強く叩いてなかったでしょ」

「ちゃんと一回と一回だよ!」

「夕貴ちゃんがなに言ってるのかさっぱりわからないわ」

「そりゃそんな夢見る頭じゃ理解できねえよ! あと夕貴ちゃん言うな!」


 もはやトラウマである。夕貴の顔立ちは母親似で、それはつまり女性的にも見えるということで、子供の頃はよくからかわれた。


 とりわけ響子と託哉には、多感な時期をさんざん虐められてきたので、夕貴は自分の容姿にいまいち自信がない。野性味溢れるワイルドで硬派な男に憧れてしまうのはその頃の経験が間違いなく影響している。


 夕貴は子供の頃から空手を習っていたが、それは唯一の家族である母親を守りたいという想いと同じぐらい、男らしくありたいと願ったからである。


 そんな許されざる一幕もあったが、ランチは思っていた以上に楽しい時間だった。響子が盛り上げて、託哉が茶々を入れる。夕貴はからかわれてばかりだったが、それも慣れたもので苦にはならず、むしろいつも通りの日常の感触が心地よかった。だれがなにを言っても場から笑顔は絶えなかった。


 空気が変わったのは、託哉が流し見していた雑誌がテーブルに置かれたときだ。それは主にゴシップ記事を取り扱う三文誌。普段なら気にもとめないその表紙には、もはや馴染みのある文字が羅列している。


 ――少女の連続自殺事件、四人目の――


 思わず目で追っていると、響子が溜息交じりに言った。


「ちょっと。そんな雑誌早くしまいなさいよ。仮にも女子が二人もいるんだから」

「しまえねぇよ」

「いちおう聞いてあげるけどなんでよ」

「かばん持ってきてねぇからな」

「え、あんた何しに学校来たの? いらないならせめてちゃんとしたところに捨てなさいよ」

「ちゃんとしたところに捨ててんじゃねぇか」

「屁理屈ばっかり。あのね託哉、前から言おうと思ってたけど……」

「響子ちゃん」


 そこで割り込んだのは彩だった。彼女にしては大きく、強い声だった。


「もしよかったらわたしが捨てておくよ。これ以上、大きな声出したら目立っちゃうよ?」


 宥めるように言って、彩はテーブルにあった雑誌を手元に引き寄せる。響子は唇を噛んで表情を険しくした。怒りとも苛立ちともつかぬ、何かを逡巡するような顔色。


「わたしは平気だから、ね?」

「……わかったわ」


 託哉と口論を続けても得るものはないと思ったのか、響子は渋々といったていで引き下がった。


 珍しい、と夕貴は思った。たしかに響子は感情的な面もあるが、ここまで細かいことにこだわる女ではない。そこには雑誌の取り扱いに関する批判だけではなくて、もっと他の背景があるように感じられた。


「いいわよ、彩。あたしが捨てとくから。貸して」

「ううん、大丈夫」

「でも……」


 友人に、幼馴染のずぼらを押し付けるのは気が引けるのだろう。響子は躊躇いを隠せない面持ちだったが、そこに彩の微笑みが咲いた。


「お礼。席取っておいてくれたお礼だと思ってくれればうれしいな」


 じーん、と響子の総身に震えが駆けあがる。


「……はぁ。あたし、彩のこと好きだわ」

「ありがとう。でも残念。わたしのほうが響子ちゃんのこと好きだと思うよ」


 そんなこんなで、なぜか一件落着した。響子は仏のような顔で何度も頷いている。女子という生き物はたまにわからない。


 彩は黒髪を揺らして振り返る。


「玖凪くんも、いいかな?」

「ああ。ちゃんとしたところに捨てといてくれるならな」

「はい託哉。あとで屋上」


 懲りずに軽口を叩く託哉の肩にぽんと手を乗せて、響子は親指で天を指し示す。血が降られても嫌なので夕貴は仲裁に入ることにした。


 その最中、彩は所有権を譲渡されたばかりの雑誌を手に取ってぱらぱらとめくって中身を確かめたあと、それを大切そうにかばんの奥にしまいこんだ。


「もしよかったらさ、このあとみんなで遊びに行かない?」


 昼休みも佳境に入った頃、多くの学生たちでごった返すキャンパスを歩きながら響子が提案した。この時期の一回生は、午前中いっぱいも時間を使えば大抵の用件を済ませられる。私的な用がなければ午後も大学に逗留する必要はない。


「オレはパス。じゃあな」

「あんたは来るのよ。どうせ暇でしょうが」


 私的な用で帰ろうとした託哉が瞬殺される。


「俺も別にいいけど」


 夕貴が同意すると、響子は待ってましたとばかりに彩を向いた。


「彩も行くよね?」 

「わたし、は……」


 彩は表情を曇らせて、しばらく黙して俯いた。やがて響子を見て、そして夕貴を見て、迷いを振り切るように笑顔になった。


「……うん、わかった。わたしも行く。行っていいかな?」

「もちろん。そうくると思ってたわ。夕貴も来るわけだしね、夕貴も」

「おい響子。あとで屋上」


 響子の肩をぽんと叩いて親指で天を指し示す。やはり勘繰っているのだ、こいつは。


 彩の顔がほのかに赤くなったかと思うと、慌てて響子に駆け寄って耳打ちする。夕貴の鼻先を、風に流れた黒髪が掠めていった。ふんわりと甘いシャンプーの香りがして、夕貴は知らずのうちに一歩引いていた。鼓動が少しだけ早くなっていた。


「ちょっ、響子ちゃんっ」

「え、違うの?」

「違うって何が? わたしは別にあれだよ、なにもないよ? ほんとだよ?」

「そんな下手くそだと逆に怪しくて草生えるんだけど。ちょっと面白半分だったのに」

「……もういい。響子ちゃんなんて知らないもん」

「あー、もうっ、ほんと可愛いなぁ彩は!」

「わっ、響子ちゃん!?」


 女子二人が何やら姦しく話したり抱きしめあったりしている光景を、男子二人は静かに眺めていた。会話は聞き取れなかったが、とりあえず仲が良いことだけは夕貴にも理解できた。


 まだ陽は高く、夕暮れまで時間はたっぷりある。自称悪魔によって培われた煩悩という名のストレスを発散するにはちょうどいい機会になりそうだった。






「というわけで、あたしは今日バイトがあるから先に帰るわ」

「それはいいけど、遅くなったからとかいって俺を呼ぶなよ」

「大丈夫だって。十時前には上がるし、寄り道せずまっすぐ帰るし。今日はお母さんが夜勤だから、弟のご飯も作ってあげなきゃだし。そんじゃまたねー」


 ボウリングとカラオケを梯子して、店を出た頃にはもう午後五時を回っていた。発起人である響子は、託哉の大型バイクの後ろに乗せてもらって颯爽とアルバイト先に向かっていった。


 そんなこんなで彩と二人きりになったのだが、そのまま店の前で解散するのもおかしな話だったので、とりあえず彼女を駅まで送っていくことになった。


「仲、いいんだね」


 夕暮れの帰り道を歩いていると、思い出したように彩が言った。


 夕貴は横目だけでとなりを窺う。彩は前を向いたままだった。わずかに細めた目は何を見ているのだろう。うっすらと笑みを描く唇は、リップクリームを塗っているのか、瑞々しく濡れている。


 そんな横顔を、夕貴はしばらく見ていた。目が離せなかった理由は、よく考えてもわからなかった。


「響子ちゃんから聞いてたけど。ううん、聞いてたよりも、みんな仲がいいなって思って」

「そうか?」

「そうだよ」


 さすが幼馴染だよね、と声が続く。


「だってあれでしょう? 子供の頃、一緒にお風呂入ったりもしてたんだよね? お嫁さんになるって約束したり、朝起こしに来たり、怪我をした響子ちゃんを背負って山から降りたり」

「どこの漫画だよ。夢見すぎだって。そんな幼馴染なんてもう絶滅危惧種だろ」

「危惧ってことはまだ絶滅したわけじゃないんだ?」

「それはまあ、ほら、日本中探せばどこかにはいるかもしれないからな」


 夕貴は白々しい口調で誤魔化した。事実として風呂はないし、将来を誓い合ってもいない。しかし、朝起こしに来ると見せかけてコーヒーをたかりにくる程度なら度々あるし、艶っぽい話ではないが萩原家に泊まったりすることもよくある。


「櫻井さんには幼馴染とかいないのか?」

「うーん、そうだね。子供のときからずっとっていうのはないかな? 中学の頃には引っ越したりもしたから」


 いわゆる家庭の事情というやつか。確かに地元が変われば縁が途切れることもあるだろう。


「でも、親友はいたよ」


 彩は顔を上げて、すぐそばにある街路樹の桜を見つめる。重たげな枝の先から、雪のように降り注ぐ花びら。


「そういえば今年は、例年よりも開花予想が早かったな」

「え?」

「桜だよ」

「……よく、覚えてるね」

「ちょっとした家庭の恒例行事みたいなものがあってな」


 母と子で、その年の桜の開花時期をどちらがより正確に言い当てるのか競うのは、いつからか萩原家に生まれた暗黙の勝負のひとつだった。だが夕貴の勝率は芳しくない。彼の母親は桜が好きで、その愛がなせる業なのか、必ずといっていいほど母親が言った日に咲くのだ。なにか変なものでも見えているとしか思えない精度である。


 例外として、今年だけは夕貴が言い当てた。つまり、初めて勝った。そのときの母親の顔を、なぜかよく覚えている。子供の成長を喜ぶような、それを思い知らされて感傷的になったような、そんな曖昧な表情だった。


「家族の恒例行事って?」


 そこに彩は強く興味を示したが、すぐに答えを返せなかった。夕貴は唯一の家族である母親をなによりも大切に想っているつもりだが、それを公然と口にするのは憚られる、ちょっと難しい年頃なのである。


「毎年、母さんと花見みたいなことしてるんだよ。桜は、母さんが二番目に好きな花だから」

「二番目なの? その流れだと一番じゃない?」


 ちょっとおかしそうに彩が笑う。そっちにツッコミが入ってよかった。


「お母さんのこと、好きなの?」


 急に直球すぎる質問がきて夕貴はたじろいだ。夕貴の言動の節々から、不器用ながらも確かな親愛の情を感じ取ったのかもしれない。ここで変に誤魔化しても恥を上塗りするような気がしたので、夕貴はいっそのこと素直に答えた。


「まあ、な。幸せになってほしいとは思ってるよ。ガキのころから苦労ばっかりかけてたし」

「そっか」


 なぜか彩は今日一番の笑みを浮かべた。どこか羨むように夕貴を見やりながら。それが自分に向けられたことが妙にくすぐったくて、夕貴は話題を元に戻した。


「やっぱり、なんか嬉しいんだよな。早く桜が咲いてくれると。春が来たって感じがするし」


 夕貴の横顔をしばらく眺めてから、彩は視線を桜に戻して、力なく笑った。


「そうだね。また、春が来たんだ」


 桜を見上げたまま、彼女は唇を震わせる。


「萩原くんは」


 うっすらと目を細める。長い睫毛が憂いの翳を落とす。


「今年の桜が、きれいに見える?」

「まあ見えるけど。人並みには」


 なんでそんなこと訊くんだ、と夕貴が目だけで問いかけると、彩はそれに気付いていないかのように押し黙ったままだったが、やがて口を開いた。


「わたしは……」

「櫻井?」


 背後から第三者の声がふたりの間に割って入る。


 振り返ると、そこには彼らと同い年ぐらいの青年が立っていた。穏やかな顔つきに清潔感のある身なりだ。身体もほどよく引き締まって、健康的なスポーツマンといった風貌だった。どこかで見覚えのある気がしたが、まったく思い出せない。


「久しぶり。卒業式のときが最後だったから、たぶん一か月ぶりぐらいか? 元気にしてた?」


 男は、いくらか高揚した声でまくし立てた。


「……山添(やまぞえ)くん」


 彩はわずかに目を見開いて、喉の奥から絞り出すように声を上げた。ふたりの態度には、はたから見ていてもわかるほどの温度差があった。


 しばらく無言の時間が続いたが、やがて彩は目を逸らして訥々と答える。


「……うん、久しぶり。元気だったよ」

「そうか。ぜんぜん連絡返してくれないから、なんかあったのかと思って心配してた」

「ごめんなさい」

「いいよ。気が向いたときにでも返してくれたら、それだけで」


 ほがらかに話す彼とは違い、彩は贔屓目に見ても歓迎していない。そんな彩の様子をまるで斟酌することなく、彼は親しげに言葉を足していく。


「ところでさ」


 それまで和やかだった目つきが、やにわに冷たくなって夕貴を捉えた。彩はさりげなく夕貴の前に立つ。


「萩原くん。わたしの、その、お友達」

「友達?」


 足のつま先から頭のてっぺんまで値踏みするような視線。そうして夕貴の顔をまじまじと見るうちに、彼の顔色が変わった。


「……待て。ちょっと待ってくれ。萩原? あんた、萩原って」


 いままでとは趣の異なる反応だった。垣間見えていた悋気は影を潜め、その瞳は信じられないとばかりに小さく揺れている。


「俺のこと知ってるのか?」


 そうとしか思えず訊いてみると、逆に男は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「さあね。逆に聞いてみたいんだが、俺のことは知らないのか?」

「……悪いけど」

「そうか」


 男は短い言葉に、しかしはっきりと落胆の意を感じさせた。数秒の沈黙のあと、男は告白した。


「俺は……いや、俺も空手をやっていたんだ。まあいまもだけどな」

「ああ、それで」


 萩原夕貴という名は、空手を嗜んでいた者なら聞いたことがあってもおかしくない程度には有名だった。同じ街に住んでいて同じ学年なら、こんな奇縁もあるだろう。


「あんた……いや悪い、萩原はどうなんだ? 空手、もちろん続けてるんだろう?」

「いや、もうやってないよ」

「は? なんでだ?」

「なんでって、理由はいろいろあるけど、それはいま説明しなきゃいけないことか?」


 食ってかかるような男の態度に面食らいながらも、夕貴は彩のことが気になっており、早々に会話を切り上げようとしていた。


 彩の面持ちは固い。そんな横顔を、そんな横顔なんて、夕貴は見ていたくなかった。理由は考えるまでもなかった。


 いつまでも立ち話に興じるわけにもいかない。夕貴と彩はもう帰るところだし、男もまたこのあとに用事が控えているようだった。別れぎわ、男は多少なりとも夕貴に無礼な態度を取ったことを恥じるように目を伏せる。その一連の所作だけでも、彼が本来は真面目な気質をしていることが伺える。


 逆に言えば、彼にとって夕貴の存在は、夕貴が思っていた以上に衝撃的だったのかもしれない。


「行こう、櫻井さん」

「……うん」


 夕貴が促すと、彩はすぐに従った。二人分の足音。背中に視線を感じた。


「なあ、櫻井」


 去りゆく彩に向けて、男は言った。


「もしかして、まだ咲良(さくら)のこと……」


 その名が出た瞬間、彩の肩が危ういほどに震えた。いつも優しく、淑やかな光を湛えた瞳が、ひどく険しく細められる。唇をきつく噛みしめているのは、溢れ出そうになる言葉を抑え込んでいるかのようだ。


 なまじ隙のない整った顔立ちをしているからだろう。取り立てて激しい感情を浮かべていないはずなのに、いまの彩は、他のどんな冷酷な形相よりもかえって凄味を感じさせた。


 彩はほんの少しの間だけ足を止めたが、振り返ることなくふたたび歩き始めた。


「櫻井! また、連絡するから!」


 彩は返事をすることもしなかった。






 二人きりになった途端、明らかに彩は口数が減っていた。その原因に当たりがつけられないほど夕貴は愚鈍ではないつもりだったが、あえて掘り返すのも野暮というものだ。さりげなく世間話を振って、ぽつぽつと自然に言葉が戻るのを待つ。


 そうしているうちに会話には花が咲く。彩に笑顔が戻るのに大して時間はかからなかった。それが空元気に見えるのは、ついさっきの一幕を知っているからだろうか。それとも彼女のことを少しでも理解できているからだろうか。


「だから、わたしも普段から運動してたほうがいいのかなって思って。ちょっと遊んだだけなのに体中が痛いから」

「実は俺も。ボウリングなんてたまにしかしないからな。普段はあんまり使わない筋肉使わされた感じがする」

「だよね。ずっと手とか足が痛いもん。とくに右のふくらはぎとか、もう大変」

「ああ、どうりでさっきから歩き方がおかしいと思ってた」

「えぇっ? うそでしょ? わたしそんなに変?」

「なんて冗談を真に受けて筋肉痛を隠そうとするから、めちゃくちゃ変になってる。おばあちゃんみたいな歩き方になってるぞ」

「あ、ひどい! それって萩原くんのせいじゃない!」

「もっと運動しとけばよかったな。お互いに」

「……どうせわたしはもう歳だもん」

「十八歳がそれ言っても嫌味にしか聞こえないけどな」

「同い年の萩原くんにはそう聞こえてほしくないけどね。あとわたしはもう十九になってるよ?」

「ていうことは四月生まれか?」

「はい、そうです。こう見えても萩原くんよりちょっとだけお姉ちゃんなんだよ」


 芝居がかった仕草でわずかに胸を張ってみせる彩。


 彩とは自然とこうして軽口を叩き合える程度には仲良くなれたと思う。だからこそ言葉や表情の中に潜んだ、かすかな違和感にも気付けてしまう。あの山添という男子と会ってから、彩の言動には良くも悪くも無理が見える。


 それなりに歩いてから、彩が切り出した。


「高校の頃の、ね。同級生なの」


 彩も説明する機会を伺っていたのかもしれない。夕貴は静かに耳を傾けた。


「それだけ。山添くんとは、なにもない」


 かぶりを振って、そう言葉を足した彼女の瞳には、また険しい色が戻っている。もしここで彩が普段通りの楚々とした振る舞いを徹底できていたのなら、夕貴も深く追求はしなかった。


「また連絡するって言ってたよな」


 連絡を返してくれないともこぼしていた。そして一方的とはいえ、彩とも親しげに話していた。ただのクラスメイトとは思えなかった。


 夕貴は根掘り葉掘り訊くつもりはなかった。あくまで彩が困っているのなら相談に乗るという姿勢である。こうして改めて切り出したということは、彩もまた胸のうちをだれかに吐露したいという気持ちがあったはずなのだ。


 彩は迷っていたが、うやむやにするのは逆効果だと判断したのか、やや気まずそうに切り出した。


「……告白、されたの」


 そういうことはあまり自分の口から言いたくなかったのだろう。ここまで彩が口を閉ざしてきた理由の一端がわかった。


「あ、断ったんだよ? 高校の頃に断ったの。でも」


 なんとなく話が掴めてきた。あの感じだと、いまでも彩のことが忘れられず、頻繁に連絡を寄越しているといったところか。


「もともと山添くんは、わたしの友達の彼氏で」

「……なるほどな」


 彩が過ごしてきた青春時代の苦い部分をほんの僅かに垣間見た気がして、夕貴は悄然と相槌を打つことしかできなかった。勝手なイメージだが、女子はそのあたりの関係がややこしそうだ。


 もちろん男のほうも、それが易しい道ではないことは承知していたはずだ。それでも現在に至ってまで彩に懸想しているのは、よほど彼の想いが強いのか、あるいは。


「……なにがいいんだろうね」


 投げやりに彩は呟いた。それが傲慢を気取っているのだと、いまの彩を見て言える者はいない。そう断言できるような、自己嫌悪さえ感じられるほどの暗い顔色だった。


 そんな彩の思いを嘲笑うかのように、すれ違う男たちはみな目を大きくして彼女を見る。次いで、連れ添う夕貴を見るや否や、面白くなさそうに歩みを早めていく。


「まあそう深く考え込まなくてもいいんじゃないか」


 彩の過去を夕貴は知らない。でもいまの彩のことなら知っている。夕貴は笑っている彩が好きだった。辛そうな顔なんて見たくなくて、だから笑わせてあげたいと思った。


「そんなにせっかく、び……」

「び? え、なに?」

「……び、び」


 美人に産んでもらったんだ、親に感謝しとこうぜ――なんて粋なセリフを言おうとしたところで、とたんに我に返ってしまい気恥ずかしさが勝った。そのままの勢いでさらっと口にすれば場を和ますジョークの一つとして捉えられただろうに、いまとなっては彩のきょとんとした顔のせいもあって凄まじく気まずい。


「……その、あれだよ、あれ」

「あれって?」

「だからな」

「うん」

「せっかく美人に産んでもらったんだから、的な……?」

「…………」


 そして、こんな空気になってなお、そのまま言ってしまうあたり夕貴は確実にアホである。もはや彩の反応を確かめるのも怖い。沈黙がこれほど痛いとは思わなかった。ドン引きの気配を感じる。


「……ふふ、あははっ」


 だが耳に入ってきた声には嘲笑の色などなく、ただ純粋な微笑ましさだけに満ちていた。


「萩原くん、急にどうしたの? そんなこと言うキャラだったっけ?」

「そんなこと言うキャラじゃないけど言ってみた俺の努力をまず評価してから罵ってもらっていいか?」

「評価って言われても、萩原くん、すっごく不安そうな顔してたよ? こっちが恥ずかしくなるぐらい」

「はい」


 死のう。ひっそりと夕貴は決めた。


「でも、うん、そっか。そうだよね」


 何度か頷いて、頬を緩めて、目尻を下げて、でも瞳には変わらず愁いの影を落としたままで、彼女は続けた。


「萩原くんがそう思ってくれるなら、それでいいかな」


 彼女なりに折り合いをつけたらしい。というか夕貴の無様さを見ていると悩んだり落ち込んだりするのが馬鹿らしくなったのかもしれない。


 なんか悔しい。やられっぱなしは性に合わない。


 彩に一泡吹かせてやろうと、夕貴は妙案に思い至った。それはよく考えれば、一歩間違うとさらに目も当てられない結末になりそうな選択だったが、とにかく思いついたときには最高に冴えたやり方に見えたのだ。落ちるところまで落ちたからもう羞恥心なんて邪魔者は、このときだけ感じられなくなっていたのだ。


「ああ。俺がそう思ってるからそれでいいってことにしとけよ、彩」

「ありがと。なんかごめんね。笑ったりしちゃって……って、えっ?」

「なんだよ。変なこと言ったか?」

「そんなことないけど、でも、いま……」


 今度こそ夕貴は、堂々と胸を張って、一切恥じることも臆することもなく言った。こういうのは思い切りが大事なのである。


「彩って言った。悪いか?」

「わ、悪いってわけじゃないけど」


 あえて初めのうちから下の名で呼び合うことで親交を築くという方法があることを、夕貴は身近にいた藤崎響子という名のサンプルから学んでいた。


 こういうのは時間が経てば経つほど呼び方を変えるのが難しくなる。響子という共通の友人がいるのだから、萩原とか夕貴とか、櫻井とか彩とか、呼称がいちいち異なるのは不便なので統一したほうが効率的なのだ。


 そうやって夕貴は自分に言い聞かせて、自己の正当化を図る。


 開き直った夕貴が、あまりにも開き直っていたからだろう。まっすぐに目を見ながら自分の名を呼ばれて、彩は頬を赤くして俯いてしまった。期待通りの反応である。さっきまで散々に人を笑った報いだ。


「……じゃあ」

「ん?」

「ゆ、夕貴くんっ」


 しかし、たっぷり十秒の間を置いてから飛び出した彼女の意趣返しに、今度は夕貴が戸惑う番だった。いきなり女の子に名を呼ばれるのはかなりの破壊力だった。でも怯んではいられない。これは男の意地と女の矜持をかけた勝負なのだ。


「彩」

「夕貴くん」

「彩っ」

「夕貴くんっ」

「彩!」

「夕貴くん!」


 なんだこいつら青春しやがって死ねばいいのに――という恨みつらみの視線を周囲から浴びせられながらも、夕貴と彩は決して譲らなかった。


 むー、と二人は睨みあっていたが、それも長くは続かなかった。張りつめていた緊張はいつの間にか霧散して、柔らかな空気が二人を包む。


「……まったく、なんだか子供みたいだな」

「ふふ、そうだね。ちょっと否定できない、かな」


 意味のわからないところで我を張っていた自分に夕貴は苦笑して、彩ははにかみに頬を染めた。


「でも、そっちのほうがよかったかも。あんまり名字で呼ばれるの、好きじゃないから」


 彩が呟いた。その言葉の真意を気にする間もないほど話は弾み、流れで連絡先を交換することになった。


「夕貴くんって、この字で合ってるかな?」

「どれ?」


 横並びで画面を見る。ふわりと黒髪が舞った。優しい香りは、シャンプーか柔軟剤だろうか。肩がほんの少しだけ触れていた。すぐ近くには彩の顔。真剣に画面を指差して確認を取る表情。ずっと見ていても飽きないだろうなと、そんなことをぼんやり思った。


 反応がないことを怪訝に感じたのか、彩が夕貴のほうを見た。肩がぴたりと密着した。驚きに黒い瞳が大きくなった。


「……この字で、合ってるかな?」


 じんわりと赤くなる頬は、とても女の子らしくて。


「大丈夫。ちゃんと合ってるよ」

「うん、よかった」


 さりげなく離れていく身体は、人混みに紛れそうなぐらい細かった。


「ていうか、変なとこしっかりしてるよな」

「しっかりっていうか、なんかフルネームで登録しないと落ち着かないっていうか」

「わかる。実はそれ俺も」

「ふふ、なにそれ」

「笑うなよ。ほら、今度は俺の番だからな。櫻井彩ってこの字で合ってる?」

「はい、合ってます」


 夕貴の手元を覗き込んだ彩は、満足げに頷いた。さっきより身体の距離がかなり離れていたのは気のせいだろう。


 それより夕貴は、彩の携帯に取り付けられた真新しいキーホルダーが気になっていた。忘れるはずもない。昨日、夕貴が彼女にプレゼントしたものだった。とっさの思い付きで贈ったものとはいえ、それを彼女が確かに大事にしてくれていると知って嬉しかった。


 宵の口に立つまで、二人は適当に繁華街を散策した。すぐ帰るはずだったのに遠回りをしてしまったのは楽しかったからとはっきり言える。


 夜になる前に、駅前まで彩を送っていった。


「じゃあわたし、お母さんが待ってるから、帰るね」

「ああ。またな」


 手を振って別れる。彩がいつまで経っても動かないので、夕貴から歩き出した。しばらく進んで肩越しに振り返ると、彼女はまだ人混みのなかに佇み、少し寂しげな微笑を浮かべていた。


 ばいばい、ともう一度だけ、小さく唇が動いた。






 その夜、夕貴のもとに一通の電話がかかってきた。


 藤崎響子の弟からだった。


 まだ中学生の彼は、姉譲りの活発な性格に見合わない、ひどく心配そうな声でこう言った。


 ――予定していた時間を過ぎても、姉がぜんぜん帰ってこない。連絡もとれない。なにか知りませんか。


 時計の針はもう十二時を指して、日付は変わっていた。


 響子の行方がわからなくなった。






 次回 1-5『不安という名の病』

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