ハウリング

@hytan

壱の章【消えない想い】

プロローグ『それは大切な約束だから』


 泣いている。


 あの子が泣いている。


 泣いてほしくないって、あなたには笑っている顔のほうが似合ってるって、そう言ったはずなのに。


 もう寄り添うこともなく。名を呼ぶこともなく。わたしはただ、それを見届けることしかできないけれど。


 ずっと一緒にいると約束した日を思い出す。握り返してくれたてのひらの、花のようなぬくもりを覚えている。それがいまはこんなにも遠い。


 あるいは初めからこうなる運命だったのかもしれない。


 おまえは失ってからしか気付けないと、かつて言われた。


 だから、きっと。


 わたしたちは、こうして別れるために出逢ったのだろう。











 ハウリング 壱の章【消えない想い】











「……どういうこと?」


 朝、いつものように目が覚めた少年は、さっそく自分の正気を疑う必要性に駆られていた。


 普段とはなんら変わりのない目覚めだったはずだ。カーテンの隙間からこぼれる白い陽射し。見慣れた天井。ひんやりとしたシーツの感触。頬を撫ぜる空気でさえひどく慣れ親しんだものだ。ここは彼の十九年の生涯においてもっとも長い時間を過ごした自室なのだから当然である。


「んぅ……」


 だれかの寝息が聞こえた気もするが、ひとまずそれは置いておいて、まず少年は昨夜のことを振り返ってみた。でも残念ながら、たったの数秒で現実逃避は終わった。普通に寝たのだ。語ることも悩むこともない。夜更かしは控えたし、戸締りも完璧だった。


 果たして、これは夢なのか? それとも現実?


 それを確かめるために彼は手を伸ばして、目の前にある豊満に実った双丘にそっと触れてみた。想像していたよりも遥かに弾力があって、それ以上に柔らかかった。


「……やべえ」


 もはや疑う余地はなかった。どうやらこれは現実であるらしい。


 だから意味不明だった。


「だれだよ、この女……」


 少年の視線の先、長い銀色の髪をした女が裸で添い寝していた。何事もなかったかのようにのんびりと寝息を立てているのがむかつく。


 いや、実は何事かあったのかもしれないけど。






 その日の朝、平凡な大学生である萩原夕貴にいつもと違うことがあったとすれば、夢を見たことだ。


 とても悲しい夢。泣いていた。だれかが泣いていた。それだけの夢。


 どうしてこんなに胸が締め付けられるのかわからない。夢だとしても泣いている人を放っておくのが嫌だったのか。何もできない自分が悔しかったのか。とにかく目覚めたときには頬を涙が濡らしている程度には、夢の余韻を現実に引きずってきたことは確かだった。


 だからもしかしたら、これも何かの間違いで夢から持って帰ってきたものなのかもしれない。


「……え?」


 まず初めに、手がなにか柔らかいものに当たった。指先に伝わるのは滑らかな肌触り。温かくて、しっとりとした質感。


 なんだ、これ?


 ひとまず揉んでみる。この感触をどう表現すればいいのだろう。中身がパンパンに詰まっているのに、指を動かせばどこまでも沈んでいきそうなぐらい柔らかい。あまりの気持ちよさに思わず声が出そうだった。


「あっ……」


 というか、実際に出た。男の夕貴にしては考えられない、女性のように甘い吐息だった気がしたけれど。


 もちろん勘違いだ。恋人がいない独り身の男の部屋でそんな声が生じるはずもない。唯一の肉親である母親ですら実家に帰省しているので、いまこの家には夕貴しかいないのだ。


 そのはずなのに、こうしているいまも、すぐそばから知らない女の艶美な声が夕貴の耳を蕩かせる。


「いやいや、どれだけ欲求不満なんだよ」


 ぎこちなく笑って自分に言い聞かせながら、夕貴はひときわ強く指先に力を込めてみた。たちの悪い幻なら、これで消え去ってくれるだろう。そう心から信じて。


「ん、やっ……」


 その切ない喘ぎを聞いて、ぴたり、と夕貴の動きが止まる。もはや自分に言い訳するのも限界だった。手に伝わるぬくもりは、一つの予感を猛烈に告げてくるから。


 夕貴はゆっくりと顔を横に動かしていく。まず目に入ったのは雪原。そう思わせるだけの深い白皙の肌が、二本の長い脚となってベッドに伸びている。


 布団の端からのぞく細い腰には不釣り合いの、たわわに実った大きな胸。重力に従って僅かに横に流れているのが逆に妙なリアリティを感じさせる。それでもたっぷりと張り詰めた肉感がまったく損なわれず、乳房のかたちが崩れていないのは瑞々しい肌の張りのおかげなのだろうか。


 ──と、まったく知らない女の胸を揉みながら、夕貴は自分でもびっくりするぐらい冷静に分析していた。


「…………」


 人間という生き物は、驚きすぎるとほんとうに声が出ないらしい。やっぱりまだ夢の中にいるのかもしれなかった。


 でもそれを見た瞬間、夕貴はあっけなく現実に引き戻された。


 ベッドに広がっていたのは降り初めの雪。そんな季節外れの錯覚を抱かせたのは、眩いばかりに輝く銀色の髪。その一本一本は溶けて消えてしまいそうなほど細く、そして長い。


 雪に埋もれた寝顔。氷の彫像のように隙がなく、永遠を感じさせる美貌。だが頬に差した赤みと、穏やかに吐息を落とす唇が、絶対零度の表情を柔らかく溶かしていた。


 年の頃は二十歳ほどだろうか。しかしカーテンの隙間から差し込むかすかな光に照らされる顔は、どこか幼い少女のあどけなさも併せ持つ。


 あまりにも幻想めいた美しさに、夕貴は息をすることも忘れて見つめ続けていた。


「……どういうこと?」


 だからこそ疑問はますます深まるばかりである。断言してもいいが、昨夜、夕貴は一人でベッドに入って就寝した。恋人はむろんのこと、一夜をともにするような関係の女性もいないし、外国人の知り合いなんてもっといない。


 ようするに、こいつはだれだ?


「んぅ……」


 小さな寝息。混乱の極まった夕貴とは対照的に、彼女はとても穏やかに眠っている。きっと悲しい夢なんか見ないだろうなと、そう思った。


 その直後、起床のために設定していたアラームが鳴りひびいた。この非現実によくわからないまま流されていた夕貴は、やっと我に返る。


「……ってだからだれだよこいつは!」


 もはや恐怖だった。興奮なんてまったくない。見ず知らずの他人がいつの間にか侵入していて、あろうことか自分のベッドで寝ているのだ。もはや生殺与奪を握られているに等しい出来事である。


 夕貴はベッドから飛び起きると、むずがゆそうに目元を歪める女から距離を取った。


 彼女は、やがてまぶたを開き、身体を起こした。


「──あ」


 目が合う。その髪と同じ色彩を湛えた白銀の双眸。透き通った虹彩は、鏡のように夕貴の姿を映し出していた。まだ少年の幼さを残した表情と、凛とした芯の強さが入り混じった容貌。彼の母親によく似た顔立ちの少年がそこにいる。


 ゆっくりと彼女は立ち上がる。男のなかではやや身長が低い夕貴よりも、もう少しだけ低い目線。しばらく見つめ合ったあと、彼女は何か耐え難いものから逃げるように目を逸らしてから、少年の膝下に恭しく跪いた。


「え」


 そう。跪いたのである。恭しく。裸のまま。


「……マジ?」


 夕貴の震える声を耳にしても、銀色の女は目を伏せたまま微動だにしない。静寂が痛すぎる。こんなにも時間の流れが遅く感じるのは初めてだった。


 それからしばらくして、ようやく彼女は口を開いた。


「私は《ソロモン72柱》が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス」


 紡がれる声は、粉雪に似て粛々と。心に柔らかく降り積もるような声だった。


「ゆえ、いと小さき王ソロモンを崇め奉り是とし、蒙昧なる詩人グリモワールの予言を憎み蔑み非とみなす」

「……あの、すみません。ちょっと」

「今この時を以て《ナベリウス》は御身と共にあり、悠久と添い従うことを我が真名において、ここに誓い致します」

「…………」

「……っと、はい終わり。やっぱり最初はちゃんとしとかないとね。何事も初めが肝心だから。第一印象とか」


 荘厳なる空気を纏って口上を述べたあと、それで役目は終わったとばかりに彼女は相好を崩した。とてもリラックスした表情である。凄まじい妄想である。


 夕貴は思った。これは本気でやばい。


「あ、あ……」


 そのナリで第一印象を意識してるつもりかてめえ、とツッコミを入れたかったが、あまりに頭がパニックになりすぎて上手く言葉が出なかった。


 いけすから上げられた魚のように口を開閉する夕貴は、実のところ呼吸の仕方も忘れてしまうぐらい狼狽して、必死に酸素を求めていただけである。でもそれが彼女には、運命的な出逢いに感極まって言葉も出ない様子として映ったらしく、柔らかそうな唇がうっすらと笑みを描いた。


「安心して。わたしはあなたのためにいる。知恵と万象の王の名のもとに、わたしはあなたの運命とともにあることを約束しましょう」


 凍てつく銀世界を思わせる人間離れした美貌も、理解不能な言動と合わされば未曾有の畏怖でしかない。人知れず蝕む病魔にも似た、日常がじわじわと侵食されていくホラーを夕貴はいま体感させられていた。


「そ、そうなんだ。凄いですね……」

「それほどでも。こんなのは建前みたいなものだから。あとはまあ追々ってところね」

「あ、そうですか。じゃあそういうことで、俺ちょっと急用ができたんで……」


 夕貴は相手に警戒されないようにゆっくりと後ずさると、次の瞬間には階下に向けて走り出していた。全力の逃亡だった。


 しかし、それが叶う前に、夕貴は腕を引っ張られてしまった。


「ちょっと、どこいくのよ?」


 ほんとうに分からないとでも言いたげに首をかしげる仕草は、ありふれた女性のそれだった。どこからどう見ても人間にしか見えない。ついさっきまでは現実味がなく、銀幕のワンシーンを見つめるだけのようだった彼女の美しさも、触れ合える確かな温もりだということに気付かされた。


 でもそれとこれとは別なのだ。夕貴は速くなる鼓動を根性で黙らせて、悪魔に魅入られた自分を叱咤するためにも語気を強めて叫ぶ。


「決まってんだろ! おまえのいないどこかだ! だいたい誰だおまえ! なんで俺のとなりで寝てんだよ! しかも裸で!」

「でも気持ちよかったでしょ? わたしもほら、いろいろと気持ちよかったし……これはもう責任取ってもらわないと」

「これが悪夢ならとっとと消えてくれー!」 

「残念。そう簡単には消えないわよ。だってわたし、悪魔だし」


 朝方から元気に謎の電波を受信している彼女は、夕貴に寄りかかるようにして抱きつくと、さも愛おしそうに彼の胸に頬ずりした。


「……お、おまえ」


 そのとき、夕貴は心の芯が急速に冷えていくのを感じた。


 艶めかしい女の肢体。ふんわりと甘い匂い。濡れた唇も、きめ細かな肌も、男なら誰だって心がときめくはずなのに。


 だが触れる指先から伝わるのは、少し力を込めれば壊れてしまいそうな、危うく繊細な手応え。


 その儚さは、どこか雪解けの日の薄氷めいて。


 夕貴は拒絶することも問い質すこともできず、ただ何かの間違いで彼女が砕けてしまわないように、そっと寄り添うしかなかった。


「……大丈夫よ」


 自分に言い聞かせるように彼女は呟いた。不思議と、抵抗する気力はすでに失せていた。ゆっくりとかたちになる彼女の声を、夕貴はちゃんと聞いておかなければならない気がした。


「これからはわたしが──」


 それは誓いの言葉だった。大切な約束だった。


「──ずっとあなたのそばにいるから」


 その告白にどんな意味があったのか、夕貴にはわからない。背負わなければならない運命を、逃れられない血の業を、まったく知らされずに生きてきた彼はまだ知る由もない。


 そんな平凡な少年にも、一つだけわかることがあった。


 ある日、忽然と現れた女。名も知らず、正体も不明で、ただ夕貴のそばにいるとだけ語った銀色の悪魔。


 そんな彼女も、静かに頬を濡らす一筋の涙だけは、人間とまるで変わらなかった。


 露と消えにし燈火のように。


 それは、全ての始まりだった。





 次回 1-1『かつてどこかで見た笑顔』

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