第24話 噂

 複数に囲まれるのはどれくらいぶりだろうか。まだ一月も経っていないはずなのに何十年も経っているような気さえした。

 運び込まれた少し大きめの卓に四人向かい合うように腰掛けて、目の前に置かれた茶碗と茶菓子に目を落とす。花を象った可愛らしい饅頭が、とうに成人した男達の前にもちょこんと置かれている。

 わざわざ席を設けたというのに、取り計らった誰も一向に口を開かない。皇子は憮然として饅頭にかぶりついているし、桂澄達はそれをにこにこと見つめている。


「甘いものは好きだろう。ほら、私の分もお食べ」

「いりません」

「おや。兄上のが嫌なら、私のをあげようか」

「いりません」


 どちらにも即答した皇子に、兄二人は苦笑を浮かべて笑い合う。

 ずずっ、と皇子の茶を啜る音がやけに響いた。


「…………食わんのか」

「え、あ……食べる、けど……」


 急かされるように楊枝ようじを手に取る。拳大のそれを一口分取り分けて、口に入れると餡の程甘さが口いっぱいに広がった。懐かしい味だった。


「さて、一息吐いたし、話をしようか」

「ようやくですか。さっさと理由を教えてください」

「うん? 何の話だい? これからするのはお前の昔話だよ、さっきまでしていただろう?」


 ガン!

 皇子が卓を叩きつけた。


「ーー申し訳ありませんが、無駄話に付き合う暇はありませんよ」

「……やれやれ、気の短い子だねえ、まったく」


 どれほどきつく睨まれても桂澄は戯けたまま、「おお怖い」とうそぶきまでする。あくまで揶揄からかいを止めないつもりの兄に、鵬瑛は仕方が無いと溜め息まじりに口を開いた。


「兄上が面白い噂話を持ち込んだのですよ。ーーあなたが唯一人の女人に入れ込んでいる、とね」


 皇子の目が細められる。いつかも見た。彼の心の針が振り切れる瞬間の目。

 かと思えば、桂澄も鵬瑛も同じ目をしていた。性格はそれぞれ違うが、やはりよく似ている。


「どういうことか、わかっていますね?」


 穏やかなのにひやりとしたものを感じさせる口調。

 皇子は固い声音で肯定した。


「情が深いのは結構。それは確かに美点と言えるでしょう。ーーですが、履き違えないように」

「はい。……肝に銘じます」


 しおらしく頭を下げる皇子に、鵬瑛はやっと表情を和らげた。ぱちんとひとつ手拍子を打って、断ち切るように深く笑みを刻む。


「さて、重苦しい話はこれでおしまいですよ」

「おっ、ならばここはひとつ、清翔の昔話を」

「やめてください!!」


 言い争いながらも険悪にはならない彼らに、見せかけではないらしいと安堵する。敢えて物は言わず、けれどほっと肩の力を抜いた夏蓮を、一人だけが見ていた。


「確かに、見る目はありますね」


 誰にともなく独り言ちて、慈愛を一滴彼女に与える。

 悪くはない。余計な感情を排除して、彼はどこまでも冷徹に評価を下した。




 人のいなくなった室で、夏蓮はぐったりと卓にうつ伏せた。普段ならしないだらしのない格好だが、そんなことを気にしていられないほど参っていた。

 控えめに扉が開かれる。視線だけを向けると、そこには同じく疲れた様子の皇子がいた。心なしか、衣装もくたびれて見える。


「…………茶でも飲むか」

「……そう、ですね………」


 そういえば喉が渇いた。

 準備をしようと重だるい体を起き上がらせたところで、かちゃりと陶器のぶつかり合う音がした。鳴らしたのは、皇子。


「ご自分で淹れられるようになったんですか?」


 この前は茶葉の違いも知らなかったのに、と目を軽く瞠ると、彼はどうしてか口をもごつかせて、はっきりとは言わなかった。


「わたしがやりますよ」

「いや、いい。疲れてるだろう、少しでも休め」


 そう言う間にも、皇子はかちゃかちゃと用意を進めていく。それなら、と夏蓮は言葉に甘えることにした。

 することもないので、彼が淹れる様子を眺めてみる。

 どうして先ほど明言しなかったのかは、見ていればすぐに分かった。やけに手つきが慎重というか、よく見ると震えている。

 それでも茶葉の量だとか、湯の注ぎ方だとかは間違える様子はなく、心落ち着かなくはあったが、夏蓮が手を出すことは最後までなかった。

 覚束おぼつかない手つきで差し出された椀から漂う芳醇ほうじゅんな香りを胸一杯に吸い込む。それからそっと口をつけると、熱い液体が口の中いっぱいに香りを広げた。


「ん、美味しい」


 呟くと、皇子はあからさまに安堵して、それを隠すように椀に口付けた。

 二人の間に会話はない。無言で茶を飲むだけの空間。なのに、不思議と落ち着ける。


「兄上たちは、……」


 不意に皇子が口を開いた。その面差しは神妙であり、慎重でもあった。


「兄上たちに、悪気があったわけではない。そうは、思えなかったかもしれないが」

「それくらい、言われなくてもわかってますよ」


 見縊らないで、とは口では言いながらも、最初こそは疑っていたのだからそれ以上は言えない。乾いた口の中を潤すべく、夏蓮は少し多めに茶を口に含んだ。

 彼らに悪意は確かになかった。それは顔を合わせた当初からわかっていたことだ。

 けれど、夏蓮は確かに感じていた。親しげを装う態度の中に押し隠された猜疑さいぎ心を。


「いいお兄様達ね」


 素直にそう思った。

 いくら末弟とはいえ、本来彼らの関係は緊迫したものであるはずだ。にも拘らず兄として立ち回れるのだから、賞賛するより他にない。

 皇子は照れくさそうに、生意気ぶった態度で顔を背けた。


「執務はいいんですか?」


 尋ねると、彼は一瞬言葉を詰まらせたが、ややあって「今日の分は終わらせた」と答えた。

 なら、どうしてそんな罰の悪そうな顔をしているのだろうか。胡乱気にじっと見つめていると、皇子は分かりやすく動揺して、「本当に終わらせたからな!」と語気荒く言い放った。


「だったらどうして目を逸らすんですか。後ろめたいことが何もないなら、堂々としているはずでしょう」


 毎日なんとか合間を縫ってやってくることを知っているのに。

 思いがけずきつくなってしまった言葉にも、皇子はやはり同じことを繰り返すばかりだ。

 これ以上の問答に何の成果も見いだせず、夏蓮は諦めて手元の茶を静かに啜った。


「…………逃げないんだな」

「逃げてほしいんですか?」


 呟きに問いで返すと、彼は顔をね上げて尋常ではない形相で夏蓮を睨みつけた。

 自分から言い出したくせに。

 ふんと鼻をひとつ鳴らして涼しい顔をしていると、皇子はそれが気に食わないようで、盛大に舌打ちした。


「絶対に逃がさないからな」

「……いつまで続くんだか。見物ですね」


 地を這うような声音にも淡々と返す。

 不意に、皇子の瞳が剣呑な光を帯びた。


「どういう意味だ」


 凄まれて、わざとらしく肩をすくめる。


「殿下は、わたしがあなたの思う通りにならないからムキになっているだけでしょう? そんなもの、そうそう長続きしないもの」


 あなたが飽きれば全部終わる話。

 そう締めくくるより前に、卓が大きく揺れた。

 乱暴に撥ね退けられたそれが倒れる。陶器の砕け散る音が室に響き渡った。

 破片も卓も踏み越えた大きな一歩が、一瞬のうちに間合いを詰める。大きな手が夏蓮の腕を荒く掴んだ。


「おまえは、どうしてまだそんなことを言う!」


 厳しい怒声に思わず怯んだ。

 痛いほどの力で腕が握られている。だというのに、身じろぎひとつしただけで彼はその怒りをいっそう滾らせた。


「な……なんでそんなに怒るの……」

「ふざけるなよ、これが怒らずにいられるか」


 腕の力がさらに増す。痛いと訴えても、手が離されることはなかった。


「本当にお前は、私を怒らせるのが上手いな」


 唸るような声は、心なしか悲しみを帯びているような気がした。

 いや、気のせいではない。彼の表情には、間違いなく悲哀の色が滲んでいる。

 はっ、と。自らを嘲って彼が笑った。


「そうか、そうだな。嫌いだと、そう言っていたものな。所詮、独りよがりでしかなかったということか」


 いつかに言ったことを、どうしていまさら持ち出してくるのか。

 訝る間にも言葉は続く。


「愛していると、いくら言っても聞いてはくれないのだろうな」


 悲しい自嘲の笑みを浮かべて、彼は涙もなく、泣いていた。


「な、にを……」


 強すぎる驚愕は、一時、腕の痛みを忘れさせた。

 受け止めきれず困惑する夏蓮の頬をするりと撫でて、押しのけるように身を離される。


「今日はもう、ゆっくり休め。何も案ずることはない」

「えっ……? ちょっ、ちょっと、まっ」


 止めるよりも早く、彼は扉の外へ出て行った。

 外側から錠のかけられる音がした。


 取り残された夏蓮はただ茫然と、たった一言を何度も反芻はんすうしていた。

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