八、光⑦

「右手が私をさらいに来たね」

「こんなものにお前を渡すものか! 守ると言っただろう!」


 しかしこんなに血を吐きだしてしまって、もうどうすることもできなかった。

 夜の闇から抜け出てきた黒い手が、ザワザワと近寄ってくる。奪われてたまるかと、直義はヒカル隠すように自分の体で覆った。


 耳元で、かすれた声がささやいた。


「返事、今でも間に合うかな」


 腕の中のヒカルは、うつろな目でこちらを覗いていた。


「当たり前だ」


 歯を食いしばってそう言ってやると、嬉しそうに笑った。

 薄い唇に血が化粧をし、涙にぬれた顔で微笑んでいる。こんな時なのに、美しいと思ってしまった。


「私を守って。私の魂を。直義の傍にいられるなら、あの星空でなくたって……」

「ああ、守ってやる! 守ってやるとも!」


 その証に強く抱きしめた。胸の中で、ヒカルは小さく頷いた。


 腹の脇で、ヒカルの手がごそごそと動いた。そしてぐいと何かを引っ張った。


「ヒカル?」


 何をしているのかと問おうとすると、胸の辺りがじわじわと熱くなってきた。

 また血を吐いたのではないかと慌てて腕を広げると、青みがかったまばゆい光が、大きく溢れだした。


 何が起こっているのかわからなかったが、光に慣れてきた目を凝らして見ると、ヒカルは直義が身に着けていた短刀の柄を引っ張り上げ、刀身を直接握っていた。

 青白い光はそこからもれていて、どんどん大きく膨れ上がった。


「その光は、まさか――!」


 光の奥で、笑っていたように見えた。

 刹那、渾身の叫びが響いた。


「黄泉の国の番人! 魂だけは、絶対に喰らわせはしない!」


 光はいっそう強まった。それが何の光かは、もうとっくに直義にはわかっていた。だから震えが止まらない。その光が消えてしまえば、お前はどうなるというのだ。


「やめろ! まだいくんじゃない!」


 ヒカルが解き放つ光は力強く、黒い手を退けていた。

 力強い、何にも負けない魂。その輝きは目がくらむほど大きすぎる光だった。


「私を置いていく気か、ヒカル! まだいかないでくれ! 私の想いは、まだほんのひとかけらしか伝えられていないのだぞ!」


 溢れる光を押し込めるように、ヒカルを抱きしめた。

 腕に伝わるヒカルの体は、細く、柔らかい。冷えてるとは言っても、血の通った温かさはある。それなのに、歯を食いしばってどれだけ強く抱きしめても、魂は残酷に美しく輝いていた。


 光の中で、耳元にわずかな吐息が触れた。


「酷いことばかり言ってごめん。どうしたらいいのかわからなかったんだ」


 光が、次第にしぼんでいく。


「生きてきた意味を教えてくれて、ありがとう」


 ヒカルの体から、力が抜けていく。ああ、駄目だ!


「大好きだよ、直義」


 消えゆく光の中で、そう聞こえた気がした。


 大きな光が納まると、すぐそばにあどけない寝顔があった。

 寝息すら伴わない、深い夢の中へいってしまった。あれだけ大きく暴れていた喉さえ静かになって、短刀を握りしめていた手も意志を無くし、ぱたりと落ちた。


「ヒカル」


 腕の中にあるのは、もうぴくりとも動かない亡骸。ついさっきまで微笑みながら露の涙を流していたヒカルはどこに行って、そして腕の中のこれは一体何なのだろうか。

 もう二度と開かぬ大きな瞳、流れた涙の筋、そして生意気な言葉すら発さない血に染まった口元。血潮の引いた肌はどんどん温もりを失ってゆく。まるで、作り物――人形のようだ。


「ヒカル」


 もう一度名を呼んでも、返事など返ってくるはずもなかった。


 静けさは、残酷に現実を向き合わせる。

 奥歯がギリリと鳴った。涙がぽたりぽたりと、ヒカルの白い頬に落ちた。


 ズッ……ズッ……ズッ……


 遠くから、何かが引きずられる音が聞こえる。


 咄嗟に振り返っても、何もない。

 黒い手もいつの間にかなくなっているが、森の静けさは、気づけば驚くほど異質なものに変わっていた。

 背筋を氷の欠片が滑り落ちたような、鋭い寒気が襲う。


 ズッ……ズッ……ズッ……


 行灯あんどんの残骸に残るくすぶった火が、ほんのり山道を照らしていた。

 奥から何かが地面を這ってやってくる。嫌な予感がして、奪われまいとヒカルの体を抱き寄せた。


 ズッ……ズッ……ズッ……ズッ


 炎がやっと照らすところで、それは止まった。

 黒い手が来るのかと思っていたが、現れたそれは意外なものだった。


「蝉丸……?」


 地面を這いつくばっていたのは、寿命でこと切れたはずの蝉丸だった。

 しかしその体勢は不自然で、肘を張った奇妙な四つん這いだった。

 ただし片腕がなくて片足を引きずっているので、四本とは言えない。ありえない角度に曲がった首でこちらを見上げている。


 ぞっと背筋が凍った。蝉丸は死んだはずだ。なのに蝉丸の体は動いている。おかしい!


 底知れぬ恐怖が湧き上がると同時に、森に奇妙な音が響き始めた。

 ドスンドスン、ガシャンガシャンと山道の奥から荒々しい物音が近づいてくる。


 それは数々の人形たちだった。

 まだ四肢のない人形は芋虫のように這い、頭だけの人形は毬のように弾んでいる。

 他にも着物のない裸の人形や、手だけ、足だけというのもいる。

 いつの間にか、作りかけの人形たちが集まっていた。


 逃げなければならないのはわかっているが、どうしても体は動かなかった。人形たちの生気のない目が、直義を捕らえている。


 頭上に、またズルズルと何かが近づいてきた。上は獣道と繋がる崖だ。

 動かせる視線だけで見上げると、茂みの影からぬっと何かが出てきた。それは土にまみれて髪がぼさぼさになった、埋めたはずの逆髪だった。


 泥まみれの着物と髪を引きずって、崖の手前で足を止めた。逆髪の体には、あの黒い手が幾重も絡みついて、蛇のようにうねっている。


 唐突に、逆髪の開いたことのない口が、洞窟のように大きく開いた。


“カラダヲヨコセ!”


 まるで谷底の風の唸りのような、人ならぬ低い声が幾重にもなって飛び出した。

 とたんに、集まっていた人形たちは目の色が変わり、この時を待っていたとばかりにこちらに突っ込んできた。


 やっと動いた体で、直義はヒカルを抱えて逃げようとした。

 しかしようやく立ち上がったその足に、人形たちの手が絡みつく。

 とんでもない力の人形たちの指が、直義の足の肉にめり込み、骨を軋ませた。歯を食いしばって耐えて、逃れようと必死に足を踏み出そうとしても、どんどん別の人形たちが足をつかみ、上へ上へと登ってきた。


 足伝いに登ってきた幾つもの手は、ヒカルの体をぐいぐい引っ張り始めた。そして我が先にと人形たちはヒカルにしがみつき、ついにヒカルの体は直義の手から離れてしまった。


「ヒカル!」


 直義の手から引きずり降ろされたヒカルの体には、人形たちが我先にと群がった。

 ヒカルの体が見えなくなるほど覆い尽くして、ブチブチ、グチャグチャと、生々しい音だけが聞こえた。


 ありったけの力でもって引きはがそうとも、人形たちの人ならぬ力には足元も及ばなかった。

 直義は膝を折って耳をふさぎ、その音をかき消すように叫んだ。


「やめろ! やめてくれっ!」


 蝉丸や逆髪を含め、己の手で慈愛を込めて作った人形たちに、ヒカルは喰われていた。

 これが魂を操った者の最期。直義の叫びは届かず、その体は人形たちにむさぼられてゆく。


 しばらく狂ったようにヒカルを喰い荒らすと、突然全ての人形が力を失って地に落ちた。


 さっきまでの暴食が嘘のように、行灯のくすぶる炎に照らされて、無垢な瞳で虚空を見て、頬笑みさえ浮かべている。

 しかし血まみれになったその顔は、鬼の形相に見えた。


 血を吸いきれてない着物の上に残ったヒカルの体は、何一つ形を成していなかった。そして明らかに大部分が欠けていた。

 骨に肉塊が所々こびりついたものが散らかされているだけだった。てろてろと光る塊が二つ落ちていた他は、臓物ぞうもつも見当たらない。


 突然湧きあがった酸味の強い逆流を、直義は必死に抑えた。


 あの凛とした大きな瞳も、美しい薄い唇も、細く長い手も、柔らかな髪すらも、何も残っていない。

 もうなくなってしまった。黄泉の番人の食べ残しは、ただの残骸だ。


 森は、普段の静けさを取り戻していた。張りつめた空気は消えていて、木々の間を秋の空気が漂っていた。

 もうここに黄泉の番人はおらず、いつもの森だった。その証拠に、ふくろうがそこの木にとまった。


 梟は血の臭いでやってきたのか。そう気付くと、直義は転がっている石を投げつけて追い払った。

 バサバサと飛び立って、梟はどこかへ消えた。


 涼やかな虫の声が聞こえる。


 立ち尽くしていた直義は、その場に崩れた。

 美しい鈴虫の声が心に虚しく響き、悔しくて悲しくて、地に手をついてむせび泣いた。


 やっと伝わったのに、あの美しい手はするりとどこかへ消えてしまった。もっと伝えるべきことがあったのだ。ただ唇を重ねただけで、この心全てが伝わるはずはないのに。


 無残な姿にされてしまった。

 咲き誇る牡丹のように美しかった体は、もう触れることすらできない。触れてこの温もりを伝えることも叶わない。しかしこの心は、いってしまったヒカルの心に届いているだろうか。あの美しい星空へいってしまった、ヒカルの魂に。


 急にすうっと頭が冷えた。

 大きな勘違いをしていることに気がついたのだ。


「どこだ!」


 直義は急き立てられるように、地面を這いつくばって探した。

 そしてようやく見つかったそれは、散らばった骨の近くの、枯葉が重なり合う土の上に転がっていた。


 手に取ると、月明かりで刀身がぼんやり光って見える。


「ヒカル」


 呼びかけても応えるはずはない。しかしどうしても、呼ばずにはいられなかった。


「そこにいるのか……?」


 死の間際、魂の輝きはこの短刀に宿っていた。

 そう自分が信じなくて、誰がその事実を知るというのか。短刀には人形のように動く身体も、喋る口もないのだから。


 ほんの少しの願望は、微かな希望を根付かせた。

 直義は短刀をさやに納め、大切に握りしめた。

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