六、霞と糸くず②

 気が付いたら自分がため息をついていて、心がどっと疲れてしまっていた。

 頭がごちゃごちゃになっている。一旦落ち着かせよう。


 木々に遮られて狭くなった空を仰いでから、もう一度歩きだした。

 今度は難しい事を考えないように、静けさと涼しさを求めて森の草木に分け入った。

 そして少しばかり茂みの中に分け入ると、小さな木をいくつも見つけた。


「枇杷か」


 もう実はないが、長細く分厚い葉がついていた。

 枇杷は実や種が万病の薬と重宝されるが、葉も薬になる。咳止めや痛み止め、その他食欲増進や火傷の治療など、薬効は幅広い。

 種が一番効力が強いと聞くが、実がなければ種もないので、葉を摘むことにした。


 蜜のように粘っこくしつこい思考を振り払うように、直義は黙々と枇杷の葉を摘んでいたが、いつの間にか手がいっぱいになっていたので一旦戻ることにした。


 気付けば屋敷からかなり遠ざかっていたようだった。熱い日差しから逃れるように木陰を渡りながら獣道をひたすら進む。


 途中、笠を被った男たちを遠くに見かけ、こんなところにも人がやってくるのかと驚いた。魂を操る人形師の住む山など、物の怪の住みかのように扱われていると思ったからだ。


 実際、この山をつきとめる噂を集めている時に何度も言われたのだ。山に近寄れば魂が奪われてしまうから、行ってはならないと。


 そんな噂があるのなら、今山を降りて行ったあの男たちは、一体何をしに来たのだろうか。もしかすると、人形師の光司郎に何か用事でもあったのだろうか。


 木々が少し開けたところに出た。見上げると、光司郎の部屋がある離れが見える。

 戻ったら蝉丸に水の一杯でももらおうかと考えていると、すぐ目の前に逆髪がいることに気がついた。


 逆髪はこちらに背を向けて足元にざるを置き、屋敷の方を向いて真っすぐに立っているだけだ。

 そしてどういうわけかとても不気味な感じがした。いつの間にか、森も静まり返っている。


 何をしているのだろうかと近づくと、急に暑い空気が引き潮のように失せて、サァッと冷たくなった。

 寒いわけではないが、心の奥がぎゅっと握り潰されるような薄気味悪い悪寒がするのだ。


 それが逆髪から放たれていることに、直義は気付いた。

 いつの間にか、逆髪には瑠璃の時に見たような薄暗いもやがまとわりついていたのだ。手の形はしていなかったが、多分同じものだ。

 それに気付くと同時に、直義の体は強く抑えつけられたように動かなくなり、足は一歩も踏み出せなくなってしまった。


 ゆっくりと、逆髪が振り返った。

 能面の顔は動かないはずなのに、うっすら笑っているように見えた。


 冷や汗が一筋首をなぞり、息が上がるのがわかった。


 直義は咄嗟にひらめいた。息ができるなら、声は出てくれるだろうか。試しに叫んでみることにした。

 あの黒い靄に悟られぬように、息を静かに吸い込んだ。


「逆髪!」


 声は張りつめた空気を突き抜けた。


 逆髪はびくりと体を震わせる。その瞬間気味の悪い空気は消し飛んだかと思うと、急に法師蝉の声が耳に入ってきた。

 直義は四肢が動くのを確認し、ほっと胸をなでおろした。


 逆髪は何があったのかと聞きたげに、不安そうに小首をかしげている。


「黒い靄を覚えていないのか?」


 近くまで行って訊ねても、逆髪は困った仕草をするばかりだ。


 確か、瑠璃もそうだった。瑠璃が乗っ取られそうになった時も、瑠璃自身は何も覚えていない様子だった。

 あの黒いものは一体何なのだろうか。光司郎は知っているようだったが。


 直義は、逆髪の足元に置いてあったざるを取り上げた。

 山菜が摘んである。どくだみの葉も束になってたくさん入っていた。

 ざるを逆髪に返すと、逆髪は丁寧にお辞儀をして、さっさと屋敷に戻ってしまった。


 その後ろ姿を見送ってから、直義も屋敷へ向かった。



◆ ◇ ◆


 離れを回って母屋との間の中庭に出ると、作業場の縁側に光司郎の姿はなかった。

 

 放ったらかしの作業部屋は、光司郎の部屋と同じように雑然としていた。奥の方には布や糸が積み上がっており、縁側の傍になるにつれ木が散乱している。

 まだ形の整わない粗く削られた木や、驚くほど精巧に作られた腕や足も転がっている。頭と思しき塊も、ごろりと転がっていた。


 縁側には何種類もののみや、やすりや木槌が並んでいた。それらがついさっきまで使われていたことを示すように木屑が散らばっていた。


 作業部屋が乱雑に放置されている一方で、庭は目を見張るほど綺麗だった。

 朝は気付かなかったが、庭の植物は森から侵入したものではなく、選ばれて植えられているようだ。

 梅に松、躑躅つつじ石楠花しゃくなげ紫陽花あじさい、そして多分あれは沈丁花じんちょうげ。百合や鬼灯もあり、くずは紫の花を咲かせている。

 離れの近くに植えられた紅葉は、あとひと月とたたないうちに真っ赤に色づくだろう。わざわざ晩夏の山を歩いて見つけた枇杷も、すぐそこで小ぶりな葉を茂らせている。


 庭は植物が植えられているばかりではなく、雑草は取り除かれてこざっぱりとしていた。だから残暑の真昼にも、この屋敷には涼しい風が通る。


 母屋の隅の紫陽花が、ガサガサと動いた。

 紫陽花の茂みの中で、光司郎が立ちあがった。手折った一輪の紫の花に顔を近づけ、香りをかいでいる。

 その可憐な仕草が、冴と瑠璃を思い出させ、どきりと胸が鳴った。


 だが、その女が持っている花は、すみれではなく桔梗ききょうだった。


「ここには桔梗も咲いていたのか」


 何かに揺れた心を落ち着けるように、直義は言っていた。

 声でようやく気付いたようで、光司郎は警戒して振り返った。


「桔梗の根は咳や喉の薬になる。知っていたか?」

「知っているよ。それがただの気休めにしかならないこともね」


 光司郎は直義の意図を挫いてやったとばかりに、フンと笑って見せた。

 桔梗を放り捨てると、草花には興味がないと言いたげに、早々と縁側にやってきた。


「誰か来ていたのか?」


 先ほどの笠の男たちのことを訊ねると、ぶっきらぼうに「あんたには関係ないよ」と返してきた。

 縁側の木屑を払いのけるとそこへ座り、頭と思しき木の塊を拾い上げ、慣れた手つきで削り始めた。


「さっさと帰ったらどうだい。でないと、本当に人形にしてしまうよ」


 こちらに見向きもせず、木屑を払い捨てながら言った。


「不満か?」

「そりゃあそうさ」


 やっと顔を上げてこちらを見たかと思うと、憎らしいものでも見るような双眸を向けてきた。


「ここは私の屋敷だ。なのになぜあんたがさも同然のようにここにいるんだい? 私を殺す気がなくなったのなら、さっさとここを出て行ってくれないか」


 もっともな意見だったが、どういうわけか、意地を張ってしまった。


「一晩頭を冷やして考えを聞かせろと言ったのはお前ではないか。お前にここに残れと言われているようなものだ」


 不機嫌に嘆息して「そうかい」と吐き捨てた。


「それじゃあ、あんたは私のどこをどう恨んで、私に何をしてほしかったんだい?」


 直義はあえて言い切ることにした。


「もう恨んではいない」


 目をしばたたいてから、光司郎は面白そうに聞き返した。


「頭でもぶつけたんじゃないかい? 昨日の勢いは一体どこへいったんだろうね」

「冴を助けようとしてくれていたことには感謝している」


 賭けだった。反応を見て、見極めてやろうと思った。


 しかし、怒るか笑うかのどちらかと踏んでいた直義の予想を裏切って、光司郎は羞恥とも嫌悪とも呼べる複雑な表情に顔を歪めていた。


 一体どういうことだろうと、直義は判断に戸惑っていた。

 そして、この反応は少なくとも喜々として人を殺した者の反応ではないという明白な答えが、ぽっかりと浮かびあがってしまった。


「出て行ってくれ!」


 光司郎はあらん限りで叫んだ。


「そんな目で見るな! さっさとここから消えろ!」


 のみを握れるだけ直義に投げつけると、光司郎は逃げるように離れに駆け込んだ。

 開け放たれていた縁側の戸も閉めて、光司郎の部屋は隠されてしまった。


 幸い、のみの刃は刺さらなかった。

 直義はしばらくそこに立ち尽くしていた。


「まさか、悔んでいるのか……?」


 吐息と共に漏れた呟きは、ぽとりと落ちると、散らばっている木屑のように風に吹かれてカサカサと飛ばされてしまった。

 木屑はあまり飛ばされなかったが、呟きの方は直義の知り得ない答えの方へ消えていった。


 光司郎の目の端に露が光っていたのを、直義は見逃していなかった。

 もしかしてとんでもなく悪いことをしてしまったのではないかと、心がずきりと痛んだ。


 何がなにやらわからなくなってきて、直義はしばらくそこに立ち尽くしていた。

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