三、ある晩秋の切望③

 今日は珍しく、光司郎は昼餉ひるげの後、自室にこもって書をしたためていた。


 あの男が依頼に来てから、すでに十日以上が経過していた。預かっている米俵には一切手をつけていないが、だからと言って男に代金を急かしに行く気もなかった。


「光司郎様」


 部屋の手前で正座をした蝉丸が、声をかけてきた。


「なんだい。今忙しいんだ」

「承知しております。しかし、あの男のところへ銭を受け取りに行かぬままで良いのですか? 銭三貫の代わりがあのような少しの食糧では、逃げているやもしれません」


 光司郎は最後まで書きあげてから、ようやく顔を上げてやった。


「行かずとも、近々あちらから来るよ。聞くのもわずらわしい文句を土産に、質草のわずかな食糧を取り返しにね」


 墨が乾くと、光司郎は丁寧に書を折り畳んだ。


「それより、ひとつ使いを頼みたいのだけれど」

「承知いたしました。いかようなご用件で?」


 丁寧な物腰で傍までやってきた蝉丸に、光司郎は今しがた書きあげた文を渡した。


「これを御屋形様の屋敷へ届けてほしいのさ」

「人形作りに必要な材料の品書でしょうか」

「そうだよ」


 光司郎は姿勢を崩し、傍らの火鉢に手をかざした。


「今度の注文には御屋形様も目を剥くだろうね。本当は御屋形様の間抜け面が見たいんだけれど、そんなことに時間を割くのは馬鹿らしいから、頼んだよ」

「はい。それで、目を剥くほどのものとは、一体何を注文されたのですか」


 光司郎はたまげた領主の顔を想像して、くすりと笑った。


「びいどろだよ」

「びいどろ、ですか。聞き慣れませんね」

「そうだろう。あの太閤に見せてもらったんだけれどね、それは綺麗なぎょくのようなものなんだよ。石ではないそうで、南蛮なんばんで作られると聞いた。贅沢太閤は青いびいどろを人形の目にしろと言ってきたんだ」

「南蛮渡来の物でしたら、それはさぞ値が張るでしょうね」


 自分の知ったことではないと、光司郎は肩をすくめてやった。


「あんな男の感性はよくわからないけれど、南蛮人の中には青い目の者がいると聞いた。そんなに憧れるなら、南蛮人を養子にすればよかったのにね」


 そんな皮肉を言ったところで、表の戸が乱暴に開けられる音がした。


「どうなっているんだ! 出てこい、この偽人形師め!」


 思わず光司郎はふき出した。


「ほうら、やっぱりあちらから来たよ。さて蝉丸、山を降りる準備をしようか。大切な米俵も忘れずにね」


 支度は蝉丸にまかせ、光司郎は表へ出た。


「やあ、早いね。もう銭三貫揃ったのかい?」


 光司郎がそう言うなり、男は喰らいかかるように罵声を飛ばした。


「お前、あれは一体どうなっているんだ!」


 自分勝手な言い分だ。予想通り魂移しの仕事に文句をつけにきたのだろうが、失敗の可能性の高さには同意していたはずだ。

 あの時一体何のために念を押したのか、この男はわかっていない。その無知と推測の浅はかさに光司郎は苛立ちが湧きあがった。


 光司郎はやや上目づかいで男を睨み上げた。

 男はその眼光に気押されたように、用意していたであろう次の文句を飲み込んだ。


「だから私は念を押したんだ。失敗するかもしれないし、失敗すればとんでもないことになるだろうってね。あんたたちはその危険性を承知して、自然の流れに逆らったんだ。その見返りを見せつけられただけさ。私がお勧めしないと言ったこと、ようやく理解してもらえたかな?」


 男は勢いを失って呆然となり、蝉丸もやってきたので、村に向かうことになった。


 村に着いたのは、もう夕暮れ時だった。

 茜色の夕日が、男の背を物悲しく照らしている。冬の始まりを告げる風が、カサカサと枯葉を擦った。


 男の粗末な家がもうすぐのところまできた。近づくにつれ、強烈な異臭が漂ってくる。


 男が戸を開けると、蒸し暑い空気に乗って異臭がさらに強さを増した。そこには以前と同じように女が子供を抱きかかえている。異臭はまさにその女の方から漂っていた。

 囲炉裏にかかった鍋から湯気が上がり、冬も手前なのに家の中は蒸し返っていた。


 光司郎に気付いてか、女は青ざめた顔を上げた。


「腐っているね」


 光司郎は簡潔に見たままを述べた。


 赤子は乾ききった涎の跡をつけたまま、目を動かすのをやめ、四肢を放棄していた。口元や乾いた眼球には虫がとまり、血の気のない肌は変色して青黒かった。

 しかし時折呼吸のために鼻がくんと動き、舌が動いているのも見えた。


「死んどりません。まだお乳、飲むんですよ」


 うつろに言う女に光司郎は頷いて、傍らに座って赤子を覗きこんだ。

 臭いは赤子の口から広がっていた。体も腐っているだろうが、飲んだお乳の方が酷く腐乱しているようだった。酷い臭いと共に、アーアーと低い声が漏れている。


「まだなんとか生きている。死ぬ前に私を呼んだのは手柄だよ」


 光司郎は、放心状態で家にも上がれないでいる男に言った。


「一度抜きとった魂を、同じ体に交わらせるのは難しい。魂を入れ直した時、この体はもはや死体という器でしかなかったんだろうね。だから魂は入ったけれども、一旦死んだ体が息を吹き返すことはなかったのさ。人間は決して生き返らない。これは自然の摂理だ。だから私たちは、死を受け入れるしかない」

「そんなこと、わかっていたなら――!」

「言ったよね、私は」


 男の言葉を遮って、光司郎は強く言った。


「私にだって、実際どうなるかなんてわからなかった。でも死よりも恐ろしい結末が待っているかもしれないと、私はあんたに言った。そしてあんたはそれでもいいと言ったんだ。私があれだけ念を押した意味を理解できなかったのは、あんたの落ち度だ」


 光司郎は目で男を射た。

 何も言えない男は、声にならない声をあげてうずくまった。


「さて、お代をいただこうか。蝉丸、その食糧は返してやりな」

「銭三貫なんて、うちにはねえ……」


 うずくまった男は、力なく言った。


「フン。だれが銭をよこせと言った。あんたは腐りゆく子供をこのまま育てるというのかい?」


 男が不安げな顔を上げる。

 それを、光司郎は軽蔑の色で睨みつけた。


「魂ひとつで見逃してやると言ったろう。それとも、あんたは本当にこのまま我が子の体が腐りきるのを見届けるのかい?」


 男の返事を待たずに、光司郎は放心状態の女にささやいた。


「絆の強い魂は引き合う。いずれまた会えるから、今はこの子を輪廻の星空へ還してやりなさい」


 女は表情一つ動かさなかったが、光司郎を見上げたまま幾重もの涙を流した。


 光司郎は、女の抱く生きる屍の着物をはだけさせた。小さな胸の皮膚はまともだった。しかしこの皮を剥げば、中は溶けて混ざり始めているのだろう。


 光司郎はそっと赤子の胸に左手を当てた。目を瞑る。意識を集中させると、そこにはあの輝く魂があった。

 それは今にも消えそうで、しかし時折燃え上がる。青色と夕日色が入り混じり、不安定に揺らめいていた。


「さあ、おいで。勤めは終わったよ」


 すくい取るように感覚だけの左手にのせた。そして色も形も定まらないそれが崩れないよう、そっと握った。


 魂の濁流が左腕を通して入ってきた。左手と赤子の胸の間からは、青と橙の入り混じった奇妙な色が輝いた。


 魂のほとんどを吸い込んでから、濁流の途切れた勢いで光司郎は後ろに倒れた。いつものように、蝉丸が抱きとめる。


 魂を吸い込んだ左手は、何かが足りないと告げていた。

 きっと、糊のために仕込んだ自分の魂の欠片が消し飛んだからだ。一度抜き取った魂は、同じ体に交わるのは難しい。


「光司郎様、どうされましたか?」


 何もかもを放り出したい気持ちになった。その光司郎の変化をいちいち見落とさず、肩を支える蝉丸の力が強くなった。


「どうもない」


 蝉丸の手を払って上半身を起こすと、胸がずしりと重く、光司郎は小さく呻いた。

 居場所を探し、赤子の魂はこの体の中でうごめいている。

 吐き気をなんとか堪えながら、光司郎は蝉丸の腕を押しのけ、女の腕の中を覗いた。


 それは、ただの腐乱した死体となっていた。


「お代はちゃんといただいたよ。それを埋めてやるのは、あんたたちの仕事だ」


 光司郎は放心状態の夫婦を残して、薄暗いその家を出た。

 しばらく歩いてから、遠くの方で「人殺し!」と叫ぶ声が聞こえた。


◆ ◇ ◆


 蝉丸に負ぶさった、空も半分が星を出した家路で光司郎は言った。


「これでお前もわかったろう。生きたものではなく、無機質な人形に魂を込める理由が」

「はい……」


 光司郎は頭を蝉丸の肩に預ける。


「死んだ人間と全く同じ人物を蘇らせることができたなら、それこそ人間は理性を失ってしまう。生きることも死ぬことも価値を失って、人は人でなくなるのさ。神の力を得た、無能な動物になり下がるんだよ。そうさせまいと、魂たちは生と死を巡る。この私でさえ諍うことのできない輪廻をね」


 内の魂が騒いだ。

 光司郎は、そっと目を閉じる。


「だからね、人間なんてのは偶像崇拝みたいなもので充分なのさ」


 それだけ言って、己の内に意識を集中させた。自分の魂を何者とも交わらせることなく、確実に維持しておくために。


 押し込められた赤子の魂は、ごそりごそりと、まるで胎動のように光司郎の中を這い回った。

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