一、青い目④

 瑠璃は三日後にけろりとした顔で目を覚ました。

 何事もなく普段の瑠璃で、黒い手も現れることはなかった。


 あの黒い手は何だったのか、瑠璃が言った不可解な言葉の意味はどういうことだったのか。

 瑠璃に訊ねてみたが、瑠璃はすっかり忘れている様子で、首をかしげる仕草を繰り返すばかりだった。


 しかしただ一つ「お前はあの男に作られたのか」という問いには、小さく頷いてみせた。


 この世に魂を操る力など存在するのだろうか。

 しかし実際に瑠璃という命を持った人形がいるわけで、否定できないのも事実であった。


 あの男、宮江光司郎は、自分が瑠璃を作ったと言った。一体何のために瑠璃を作ったのだろうか。

 献上品だと言っていたが、人形にわざわざ魂を込めた理由とは何なのだろうか。

 確かに生きた人形と言えば珍重されるだろう。高値で引き取られれば、あの男の生活は潤う。


 もしそれだけが理由なのだとしたら、瑠璃はなんとかわいそうなのだろうか。売られるためだけに命を与えられたのなら、売られた後の瑠璃はどうなるというのだろう。


「瑠璃。お前はあの男の連れて行くところに行きたいか?」


 瑠璃は首を振った。

 心は決まった。


「ここを出よう」


 光司郎はまた来ると言っていた。次は本気で瑠璃をさらって行こうとするだろう。


 荷づくりの前に、東吉は端切れを合わせて瑠璃の履物を作った。

 瑠璃の素足は関節が丸見えで、いかにも作り物であった。その素足を隠すために、草履の上から足を隠せるものが必要だったのだ。

 そうしないと、誰かに見られた時に面倒なことになる。


 縫いものは苦手だったので、朝から何度もやり直して出来上がったのは昼過ぎだった。あるものでしか作れなかったので見た目は不格好だが、仕方ない。


「すまないな。もっと綺麗に作ってやれたらよかったのだが」


 赤に金糸が映える美しい着物なのに、足元はくたくたの煤色になってしまった。

 瑠璃はこれは一体何だろうとでも言いたげに、足元を見下ろしながらくるくると回った。


 東吉は荷づくりを手早く済ませると、瑠璃の頭に笠を被せた。

 笠は瑠璃にはとても大きく、そのおかげで陶器の顔はうまく隠れてくれた。

 あとは瑠璃のそばに転がっていた毬を手渡した。

 

「よし、行こう」


 瑠璃の手を引いて、東吉はあばら家を後にした。


 目的地は、実はここからとても近いところだった。

 たけのこを採りに行った時に見つけた、この山の裏にある竹林の小屋だ。その小屋は竹林の手入れのためのものだったようで、中にはもう腐りかけて使い物にならない農具に蜘蛛の巣がはっていた。

 きっとあばら家に住んでいた者が使っていたのだろう。


 長い間の住居としてはふさわしくなかったが、一時的に身を隠すには丁度よかった。ともかく急いであばら家を出て、小屋で旅の支度をしようというのが東吉の考えだった。


 もともと人の近寄らない山だったので、幸い誰にも見られることなく小屋にたどり着いた。

 もう日も傾いていたので、薪を集めて火をおこし、焚き火をして灯りを作った。急いで小屋の中身を外に出し、あばら家を掃除するときに作った箒で掃いた。

 あまり綺麗にはならなかったが、すぐに離れるつもりでいるので、外が真っ暗になる前に瑠璃と小屋に入った。


 土と湿った木の臭いが鼻をついた。

 こんなところに押し込んで申し訳ないと、東吉は瑠璃の笠を外しながら謝った。


「せっかくの着物も汚れてしまったな」


 袖や裾にこびりついた土を払って、髪も丁寧に撫でつけてやった。

 無垢な青い瞳が東吉をじっとみつめている。


 いつの間にか東吉は瑠璃に不思議な気持ちを抱いていた。

 人形に宿ってしまった魂は、実は自分の子として生まれてくるはずだった魂であったのではないか。だから瑠璃は自分のもとにやってきたのではないか、と。


 妻を失った絶望から自分を救った瑠璃は、まるで妻と自分の子供のように感じられた。

 妻との間に子供はできなかったが、そういう情の移り方も悪くない。あの世で妻も、かつての眩しい笑顔で優しく見守ってくれているはずだ。

 そのように妻の死を受け入れ始めていることに、東吉は自分で自分に驚いていた。


 小屋の生活は息苦しいものだった。

 小屋に来た翌日から、干し肉を作るために狩りに出かけた。狩りで疲れても、狭い小屋では足を伸ばして休むことはできなかった。そんなことが数日続いた。


 ある程度食糧が揃うと、ありったけの藁を広げて瑠璃のための小さな蓑を作り始めた。身を隠すためにここにいるので、蓑を作る作業は狭い小屋の中だった。


 もうじき梅雨がやってくる。

 東吉は旅路の雨に備えて、急いで藁を編んだ。


 藁を編んでいる時には、これからどこに行けばいいのかと自問自答を繰り返していた。瑠璃を連れてとなると、自分の身一つの旅路とは全く変わってくるだろう。

 銭もたいして持っていないので、食糧のことも宿のことも、慎重に考えねばならない。


 旅のあては定まらぬまま、藁がなくなった。


「ここで待っていなさい。私はすぐに戻ってくる。藁を持ってくるだけだ」


 一旦あばら家に戻るために、東吉は小屋を出た。


「東吉」


 振り返ると、瑠璃は首を振った。


「藁はいらない。蓑もいらない」


 東吉は小屋の中に戻って、瑠璃の目線になるように屈んだ。


「すぐ戻る。誰かが来ても、静かに隠れていなさい」


 それだけ言い聞かせ、瑠璃が頷く前に小屋を出た。


「東吉」


 驚くほど凛とした声が聞こえた。

 思わず振り返ると、小屋からちょこんと瑠璃が顔を覗かせていた。


「東吉は菫もいらない。東吉が他の花を見つけるのが、瑠璃も菫も嬉しい」


 瑠璃が何を言いたいのかよく理解してやれなかったが、雲行きが怪しいので今は聞き返す暇も惜しかった。

 帰ってから聞いてやろうと、「ああ」と言ってから、東吉は山道を走った。


 竹林を抜けて空を見上げると、分厚い雲が空を覆い隠していた。

 立ち止って耳を澄ますと、雨雲の低い唸り声が聞こえた。


「やはり、じきに雨か……」


 降りだす前に戻らなければと、東吉はあばら家に急いだ。


 山道を進むと、途中大きな茂みがあった。その茂みを越えると、すぐそこがあばら家だ。

 東吉は走るのをやめて、山道を反れて茂みに向かった。

 春の日差しを受けて成長した草木は青々として、茂みに混じっている牡丹は大輪の花を咲かせていた。


 すると、その茂みががさがさと音を立てて揺れた。

 東吉は歩みを止め、息を殺した。


「やあ、おかえり」


 茂みが大きく揺れて、茂みの向こう側に優男が現れた。


「この前は夜だったから気付かなかったけれど、立派な牡丹だね」


 男はにこりと笑って、手折った牡丹の花を大切そうに持っていた。

 赤紫の大きな花だった。幾重にも花弁が重なって大きくなり、男の顔が小さく見えた。


「宮江光司郎」


 東吉は低く呟いた。

 それを聞いて、光司郎は面白そうに目を細めた。


「へえ、覚えていてくれたのかい。それは感謝しなくてはね」

「お前、なぜここにいる」


 腰の小刀を抜き、光司郎に突きつけた。

 光司郎は刃を一瞥しただけで、平気な顔で続ける。


「あんたを待っていたのさ。あてのないあんたは必ずここに戻ってくる。こんなあばら家に独りで暮らしている人間に、行くあてなどあるはずはないからね」


 そうだろう、と、光司郎はわずかに首を傾けた。


「一晩泊めさせてもらったよ。穴だらけで隙間風がうるさかったから、二晩は勘弁だ。思ったより早くあんたが現れてくれて助かったよ」

「瑠璃はここにはいない。お前には渡さない。瑠璃がそう選んだ」


 光司郎は面倒そうにため息をついた。


「あんたはあの人形の正体を知らないからそう言えるのさ」

「瑠璃は瑠璃だ。確かに体はお前が作った人形だろうが、心は違う。瑠璃の意思はお前からは独立している。瑠璃を物のように扱うお前には渡せない。帰ってくれ!」

「まるであの人形のことを一番知っているような口ぶりだね」


 光司郎はくすりと笑うと、茂みから離れて背を向け、あばら家の方に歩いた。

 東吉はためらったが、小刀を下ろして茂みを抜けて光司郎の後に続いた。


 あばら家の周りは、どういうわけか見違えるほどすっきりしていた。

 あばら家を埋めつくそうと茂っていた草が綺麗に刈り取られている。振り返ってみると、さきほどの茂みも丁寧に整えられていた。

 生い茂る雑草は刈られ、咲き誇る牡丹の赤紫が際立っている。


 あばら家の脇に、刈り取った草が盛り上げてあった。

 光司郎はそこに手折ったばかりの牡丹を捨てた。草の山に叩きつけられて、大きな花弁がぼろりと散った。


「あんたは今、東吉と名乗っているんだって?」


 東吉は短く息を吸って、そのまま息が止まった。光司郎はそんな東吉を見て、嘲るようにくすりと笑った。


「本当の名はあずま直義なおよしだろう?」


 何も言えなかった。

 捨てた名を、今ここで呼ばれるなどと思いもしなかったのだ。


「事実なら実に面白い話だ。偶然とは思えない。運命という言葉はあまり好きではないけれど、それを感じずにはいられないね。とても興味深い例だよ」

「何の話だ!」


 思わず声を荒らげた東吉であったが、光司郎は面白そうに笑うので、ぐっと感情を飲みこんだ。

 挑発にのってはいけないと、何度も言い聞かせた。


「私はね、もう魂を取り出した人間のことなんていちいち覚えていないんだよ。でも記録が残っていた。蝉丸と逆髪さかがみが几帳面だったんだ。だから一応、調べてみたんだよ。するとどうだい。あの人形の魂の前の持ち主が、さえという女のものだったんだ」


 その名を聞いて、どうしようもなく熱い、煮えたぎるものが湧き上がった。

 ついには、声となって溢れ出していた。


「お前が冴を!」


 東吉は勢いのまま、光司郎に向かって小刀を突き出していた。

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