『元日』side伊織(1)


 薄い眠りを繰り返した体に、電車の揺れが心地よく刻まれる。

 足元から吐き出される暖かな空気に、冷えて固まっていた体が緩んでいく。

 左側から感じる体温の心地よさに耐えきれなくなった俺は、静かに目を閉じる。

 俺は少しだけ背中をずらし、その大きな肩に頭を置いた。

「……」

 夢と現実の間を行き来する意識の中、ぼやけた視界の先に見える見慣れた横顔にそっと息を吐き出す。今はまだ夢の中でいい。


 止まってしまった心地よいリズムに目を開けると、大和が俺と視線を合わせてから小さく笑った。

「伊織、降りるよ」

「あ、うん」

 体を起こし、立ち上がった俺を確認してから大和は開いたドアを振り返る。

 出口へと向かう人の流れの中、見慣れたはずの大きな背中が俺をかばうように前を歩く。

「……」

 そのなんでもないような些細な仕草が、繰り返し繋がる視線が、ぼやけていた頭の中に確かな熱を蘇らせる。

 ホームに降り立った途端、体を包み込んでいた暖かな空気は消えてしまったけれど、それでも、コートのポケットにしまい込んだ俺の手は少しだけ温かくなっていた。

「うわ、さむっ」

 改札を抜け、容赦無く吹き込んできた風に、大和が大きな背中を丸めるようにして体を縮ませた。

「風冷たすぎ」

 俺は巻きつけたマフラーに顔を埋めながら、ダウンのポケットに突っ込まれている大和の両手へと視線を向ける。

 今は、その手を取ることができない。

 今は、その熱を確かめることができない。

 そんなこと、わかっている。

 わかっているから、俺も大和も自分の上着のポケットに両手を入れている。

「このまま列に並んじゃっていいよな?」

 駅の出口で立ち止まり、少しだけ鼻の先を赤くした大和が俺を振り返る。

「あ、うん。とりあえずお参りしてから、どっかであったまろう」

 俺は振り返った大和に合わせるように、顔を上げる。

「だな」

 そう言って踏み出した大和だったが、その足がすぐに止まった。

 後ろをついていこうと思っていた俺の体も止まる。

「?」

 不思議に思って見上げると、大和がその視線を待っていたかのように、少しだけ照れ臭さそうに困ったように小さく笑って見せた。

「……隣を歩くのは、いいよな?」

「!……いいんじゃない?」

 次第に増えていく参拝客の流れに溶け込むように、俺と大和は一緒に足を踏み出す。

 遠くに見える神社に向かって顔を上げると、冷たい朝の空気の中に暖かな日差しが混ざり込み、思わず白い息が漏れる。突き刺さるような寒さは相変わらずだったが、新しい年が始まったばかりの朝の空気はどこまでも澄んでいて、丸まった背中を伸ばしてくれる。

 ——ほんの少しだけ、何かが許されたような気がしてしまう。

 些細なことで嬉しくなって。

 小さなことで悲しくなって。

 それでも、どんなに些細でも、どんなに小さくても、また喜びを感じられるなら、それでいい、と思わせてくれる。

 そういう日々が、この幸せが、ずっと続けばいい。

 ——そんなふうに、神様にお願いしてもいいだろうか?


 大きな鳥居を抜け、列を作りながら流れていく人波を一度外れた俺たちは、『古神札納所』と書かれた仮設テントの下にいた。表面が毛羽立ってしまった白色のお守りを大和が惜しむように両手で握りしめてから、設置された木箱の中に置く。

 その仕草を静かに見守っていると、大和が俺の視線に気づいて振り返った。

「あれ?伊織も返すものあるの?」

「!……あ、まぁ。ご利益あったからな」

 俺は手にしていた薄い水色のお守りを両手で包み込んだまま箱の中へと持っていく。神社の名前が書かれた面を上にして、そっと手を離すと、ふわりと舞うような冷たい風が頬に触れた。いつもなら首を縮めてしまいそうになるけれど、その冷たさが不思議と心地よく、俺は静かに息を吸い込んだ。

「伊織でも神頼みするんだな」

 そう言って意外そうな顔をした大和の背中はまっすぐ伸びていた。

「?」

「伊織は神様に頼らなくても、余裕で合格圏内だっただろ?」

 そう言って笑う大和に、俺は「そうでもなかったよ」と小さく笑って返してやる。

 ——うん、そうでもなかった。

 むしろ、叶わないとさえ思っていた。

 白色と薄い水色。同じ形だけど色の違うそれらは、古神札やカラフルなお正月飾りによってすぐに埋もれてしまうだろう。それでも、また一緒になれたのだから、十分だ。

 大和は「いや、伊織のあの成績で受からないはずないでしょ」とブツブツ繰り返していたが、「……先、行くよ」と俺が歩き出すと、すぐにその大きな体を俺の隣に並べた。

「そこは『一緒に行こう』じゃないの?」

「どうせすぐ追いつくじゃん」

「!……それもそうだな」

 そうやって大和が俺の隣で笑ってくれるから、俺はきっとこの先も神様に感謝するのだろう。そして、結んでくれた縁が切れないように、また祈るのだろう。

 ——そうやって繰り返していったら、いつかそれが『永遠』になってはいないだろうか。


     *


 突き放すように離された唇には、まだ熱が残っていた。

「……」

 目を閉じても、眠れそうにない。

 暗くなった部屋の中、そっと自分の手を口元に持っていく。

 指先で唇をなぞってみるが、そこにあるはずの熱には触れられない。

「どうして……」

 あの時——

 痺れるような感覚に、何かを考える余裕は俺にはもうなかった。

 最初に触れ合わせたときは少し冷たかった大和の唇が、俺よりも熱くなっていた。

 重なる息が吸い込んだそばから溶けるように消えていき、頭がうまく回らない。

 それなのに、どこか突き動かされるように体は動いてしまう。

 初めての感覚に生まれた恐怖心は、体の中を巡っていく快感に塗りつぶされる。

 止まらない。

 止めたくない。

 ——もっと、近づきたい。

 気づけば、大和の大きな肩に触れていた自分の手に力がこもっていた。

 そして、大和もそんな俺に応えるように、その高くなった体温で俺に触れてきた。

「……ん、」

 太い指先で優しく撫でるのが、なんだかくすぐったくて、笑いそうになるのをなんとか堪える。

 けれど、それがゆっくりと首に向かって下りていった時、肌から心臓に向かって何かが直接走り抜けるような初めての感覚に、俺の肩が震えた。

「……、」

 俺が思わず大和の名前を口にしようとしたその瞬間、溶け合っていたはずの熱を振り切るように、大和が俺から顔を背けた。

 ——応えてくれたのだと、大和も同じように感じてくれていたのだと、そう思ったのに。

「……」

 もう一度。

 もう一度だけ、あの体温に触れたい。

 体を起こし、ベッドを抜け出した俺は、足元に揃えていたスリッパに足を通す。

 部屋を出ると、その冷たい空気に体は震えたが、暗さに慣れた目を廊下の先にあるリビングのドアへと向ける。

 広いリビングを襖で仕切った先の和室に、大和は寝ている。

「……っ、」

 引き離された唇も、背けられた顔も、まだはっきりと覚えている。

 それでも俺は、震えそうになる手を握りしめ、静かに足を踏み出す。

 最初に手を振り払ったのは、俺だから。

 それでも向かってきてくれた大和から目を逸らし続けたのは、俺だから。

 今度は、俺が——


     *


 お賽銭を入れる乾いた音が途切れることなく耳に届く。

 そっと目を開けると、隣に立つ大和はまだ手を合わせていた。

 ゆっくりと動いていくまぶたを見つめていると、俺の視線に気づいた大和が小さく振り返る。

「……」

「……」

 繋がった視線を確かめてから、合わせていた手を解き、二人で顔を正面に向ける。

 向き直った視線の先、目には見えないけれど、そこにいてくれると信じて。

 俺たちは呼吸を合わせるように深くお辞儀をした。

 当たり前だと思っていた日常が、決して当たり前ではないとわかったから。

 こうして隣にいられることが、『特別』なのだと気づいたから。

 ——この時間が少しでも長く続くように、と願わずにはいられない。


「あ、おみくじ引く?」

 参拝客の列を抜け、静かな本殿前から大勢の人々が足を止める賑やかな方へと俺は足を踏み出す。石畳の上、一回り大きな足が横に並び、何かを考えるような表情をした大和が俺に視線を向ける。

「そうだな。おみくじと……それとお守りも買うかな」

「お守り?なんの?」

 そう言って見上げた俺に、大和は「……なんだっていいじゃん」と呟くように言って、俺の視線から逃げるように顔を上に向けた。紺色のマフラーの先、吐き出された息は白く、隠しきれない頬は赤い。

「……」

 ——黒のダウンのポケットへとしまわれた両手は、温かいだろうか。

 それを確かめることなんて、今はできないけれど。

 でも、もし大和が買おうとしているお守りが、さっき自分が手放したものと同じだったら。そうだったら——

「伊織?」

 立ち止まってしまった俺を大和が振り返る。

「あ、ごめ……」

 自分でも気づかないうちに止めてしまっていた足を再び踏み出そうとした、その瞬間、立ち止まっていた俺と大和を追い抜くように横をすり抜けた人の肩が背中にあたり、俺の上半身が揺らいだ。

「!」

「伊織!」

 とっさに差し出された大きな両手が、バランスを崩した俺の腕を掴む。

 勢い余った俺の頭は、分厚いダウンジャケットに包まれた大和の胸に受け止められた。

「!」

 肌に触れる柔らかな感触と、飛び込んできた大和の匂いに、俺の心臓は大きな音を立てて跳ね上がる。

「あっぶな。伊織、大丈夫?」

 そう言って大和は俺の顔を覗き込もうとしたけれど、俺はさっきよりも深く顔をうずめた。

「……伊織?」

「……」

 耳の先まで温度が上がるのが、自分でもわかる。

 掴まれたままの腕も熱い。

 その手に自分から触れることはできないけれど。

 それでも、許されるならもう少しだけこのままでいたい。

 今なら、今だけなら、ちょっとしたアクシデントで許されないだろうか。

「……ふ、ふは」

「!」

 触れられた先から伝わる振動と、頭の上に落ちてきた笑い声に、そっと視線を上に向ける。

 そんな俺を待ち構えるように、ニヤリと大和が笑う。

「伊織の方が甘えたがりじゃん」

「な、」

 顔を上げると同時に大和の手から逃げようとした俺を、先ほどよりも強い力で大和が引き止める。

「ちょ、もういいから離せって」

「……自分から甘えてきたくせに」

「!」

 大和の言葉がまんま核心をついてきて、恥ずかしくなった俺は顔をうつむかせる。

 力づくで大和の腕を振り払い、俺は自分でもわかるほど熱くなった顔を片手で隠す。

「転びそうになっただけだからっ!」

「……そうだな」

「え、……!」

 離れたはずの大和の腕が、今度は俺の肩を強く抱きしめる。

「ちょ、大和!?」

「転びそうになった伊織を俺が受け止めた。……それでいいじゃん」

「!」

 先ほどよりも近くに感じるのは、速くなっていく大和の心臓の音。

 そしてそれに重なるように俺の心臓も動く。

 大きな大和の体に包まれた俺には、声をあげて吹きつける冷たい風さえ遠くなる。

 そしてその心地よさに、俺は抵抗を諦めた。

「……ありがと」

「ん?」

「受け止めてくれて、ありがとう」

「!……どういたしまして」

 それは、きっととても短い時間だった。

 誰かの足を止めることも、視線を向けられることもないくらいの、一瞬の出来事。

 それでも、この一瞬が俺たちにとっての『特別』だから。

 それがいつか『永遠』になればいい。

「……」

「……」

 どちらからともなく離された体を向かい合わせ、俺たちは視線を繋ぐ。

「行くか。大和の『縁結び』買わないとだし」

「!……え、ちょ、なんで」

 顔を赤くする大和に背を向け、先に歩き出した俺は視線だけを振り返らせる。

「俺、水色な」

「?」

「俺の分も買ってくれるんだろ?」

「!」

 俺の言葉に柔らかく笑った大和が、大きな一歩で俺の隣に並ぶ。

「そしたら、次はお昼ご飯を伊織が奢ってくれるの?」

「いや、次はおみくじだから、お昼は大和の番じゃん?」

 ——自然と両手がしまわれてしまっても。

 ——その温度に簡単には触れられなくても。

「……順番とか決めてないし」

「……自分から言ったくせに」

 ——それでも、こうして並んだ歩幅が。

 ——当たり前に返ってくる言葉が。

 ——そっと胸の中を温めてくれる。

「んー、じゃあ、おみくじの結果が良かった方がお昼奢るってのは?」

「なんで良かった方?」

 ざわめきで満たされる人の流れに沿って歩きながら、大和が不思議そうに顔を傾けた。俺は前を行く着物姿の女子たちに歩くスピードを合わせながら、視線だけを大和に向ける。

「悪かった方はそれだけでダメージでかいから」

「なるほど」

 大きな仕草で頷いて見せる大和に、小さく息を吐き出した俺は止まった草履の音に合わせて足を緩める。顔を上げると、授与所の窓口から伸びる列が横に広がっていた。

「じゃあ、大和はこの列な」

「?」

「俺、先におみくじの方行ってるな」

「え、一緒にいてくれないの?」

 最後尾で一度止めた足を列の外へと向けた俺は、少しだけ不安そうな声を出した大和に振り返って言ってやる。

「俺は一人で買ったことあるから、今度は大和の番なの!」

「え、それどういうこと?」

 聞き返してきた大和の声を振り切り、俺は途切れることなく増えていく人の間を抜け出す。多くの人が行き交う場所を避け、少しだけ離れた木の陰で足を止めた俺は、列の中に残してきた大和の方へと顔を向ける。

 混み合っている窓口前でも、頭一つ飛び出した大和はすぐに見つかる。大きな体をしているのに、周りの勢いに押されて不慣れな様子がここからでも見て取れる。

「!」

 大勢の人が入り乱れる中、振り返った大和が俺を見つけて、笑った。

 どうやらちゃんと買えたらしい。

 白い紙に包まれたお守りを大事そうに手に持って、こちらへと歩いてくる。

「……なんか、初めてのおつかいみたいだな」

「?」

 小さく笑った俺に、人混みを抜け出した大和が不思議そうな顔をする。

「ありがと」

「……すっごい恥ずかしかったんだけど」

 耳の先まで赤くした大和が差し出してくれた袋へと俺は手を伸ばす。受け取る瞬間、ほんの一瞬、指先が触れ合う。温度を感じ取れる程の時間ではなかったけれど、それでも、触れた先から自然と自分の体温は上がっていった。

「……じゃあ、次おみくじな」

「あ、あぁ」

 結ばれた視線を同時に解いて、俺と大和は並んで足を踏み出す。

 冷たい空気を吸い込んでみても、速くなっていく鼓動は止められなくて。

 おみくじの結果に一喜一憂する人々の声を聞きながら、俺は大和の横顔よりも先の空へと視線を向ける。

 赤く彩られた屋根の先、広がる空は雲ひとつなく晴れ渡り、吐き出された白い息が遠くまで続く青色に吸い込まれていく。

 ——当たり前に広がる冬の景色が、今の俺にはとても眩しかった。


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