『クリスマスイヴ』side大和


「文句言わなーい。それとも、今日なにか予定あるの?」

 大きな瞳で俺を見上げてくる佐渡の言葉に、すぐには言い返せなくて、ほんの少しの間を空けてから俺は答える。

「……ないけど」

 そう、予定なんてない。

 約束なんて何もしていないのだから。

 この言葉に嘘はない。

 だけど——

「だよね?よし、じゃあ、着替えたら校門で落ち合おう」

 佐渡がそう言ってあっさりと会話をまとめてしまうから、俺は頷くことしかできなかった。

「……わかったよ」

 小さな背中で揺れるポニーテールの先を見送りながら、俺はため息を漏らす。

 体育館からはまだボールの音が響いていて、部員たちが掛け合う声も聞こえてくる。本当なら俺もあそこにまだいるはずだったのに。先ほどよりも大きく息を吐き出しながら、俺は部室へと体を向ける。頬に触れる風は動かしたばかりの体にはまだ心地よく感じられ、俺は少しだけ軽くなった足を動かしながら、言葉をこぼした。

「本当に……なんも、ないんだよ」

 ——今日の予定も、この先の約束も、あったはずの出来事さえ、今はもう「なにもなかった」ことになっているのだから。


 コートのポケットにスマホを戻しながら、こちらへと走ってくる佐渡に顔を向ける。

 先ほどまであったはずの熱はとっくに消え、冷たい風に体が縮んでしまう。

「……遅い」

「うわ、ソレ女子に言っちゃいけないヤツ」

 小さく息を弾ませた佐渡が鼻の先を赤くして俺を睨んできたが、俺の頭の中には先ほどスマホで確かめた時刻が刻まれている。どう考えても俺が責められる理由はないはずだ。

「いや、さっき分かれてからどれだけ経ってると思ってるんだよ」

「あのねぇ、女子は男子と違って時間がかかるものなの。そんなだから、今日だって予定ないんじゃない」

「なんだよそれ」

「クリスマスイヴに一緒にいてくれるような彼女いないでしょ、ってこと」

 そう言って俺に背中を向けると、佐渡は自分が後から来たくせに「ついてこい」とばかりに早足で校門を抜ける。俺は歩幅を合わせて、その小さな背中の数歩うしろを歩く。

「いや、お前だってそうだろうが」

「私は先輩マネージャーに気を遣って引き受けただけだもん」

「彼氏いないことに変わりねーじゃんか」

 不意に佐渡が足を止め、振り返った。

「……なんだよ?」

 視線を鋭くしたかと思うと、一瞬にして笑顔を作り出す。佐渡の表情の変化に不気味さを感じた俺は少しだけ上体をそらす。そんな俺の様子に、笑顔のまま距離を詰めた佐渡がスカートの先から伸びる細い足で、俺のスネを勢いよく蹴った。

いてっ」

 思わずかがみ込んだ俺に、佐渡はまるで用意されたセリフを口にするように感情のこもらない声で言った。

「あー、もう。バス停までダッシュだからね」

 痛みに耐える俺の姿は全く見えないのか、佐渡は「ほら、成瀬なるせくんも走って」と声をかけながらも、俺をあっさり置いて駆け出した。

 蹴られた痛みが寒さと合わさって余計に足に響く。それでも俺からリードをとって見せるその背中にはあっさりと追いつけるだろう。俺は小さく息を吐き出すと同時に佐渡には聞こえない声で「……暴力はダメだろ」と呟いてから、大きく足を踏み出した。


 昼過ぎのバスの中は、とても空いていた。俺たちのほかには、シルバーシートに座るおじいさんが一人、運転席の真後ろでスマホを注視するサラリーマンが一人、二人がけの席で小さな女の子を連れた女性がいるだけだった。俺と佐渡は広々と空いている一番後ろの席に並んで腰掛けた。路線バス特有の香りが俺は得意ではなかったが、それでも外で待たされた間に冷え切った体を包み込んでくれる暖かな空気はとてもありがたかった。

 窓の景色が流れ出し、佐渡が膝に乗せたカバンの中からA4サイズの紙を二枚取り出す。「はい」となんでもないことのように一枚を俺に渡し、自分は手元に残った一枚に視線を落とした。俺は手渡されたウィンターカップのトーナメント表を確認しながら、「ありがと」と視線を合わせることなく声を小さくして言った。

 体に響く不規則な振動になれた頃、佐渡が腕時計を確かめて呟いた。

「今からだと二試合は観れるかな」

 頭の中で観たい学校の候補を挙げていた俺は、唸りながら声を漏らす。

「んー、いい学校とこ被ってるよなぁ。どっちメインに行くか迷うな」

 そんな俺に、ふわりと視線を向けて来たかと思うと、佐渡がバスケとはまったく関係のない質問を投げてきた。

「……成瀬くんさぁ、失恋でもしたの?」

「は!?」

 脈絡も何もあったもんじゃない質問に、俺の声は飛び跳ねる。

「ちょ、声大きい」

「いや、お前が変なこと聞くからだろうが」

 隣でわざとらしく耳を押さえた佐渡に、俺は声の大きさに気をつけながらも強めに抗議する。

 なんでこんな昼間のバスの中で、そういうこと聞いてくるかな、コイツは。

「やっぱりアタリか」

 俺の抗議など気にもしていない佐渡は、突き進むことをやめてはくれない。

「いや、ちょっと、俺なにも言ってないけど」

「言わなくてもわかるよ」

 そう言って見上げてきた視線はとてもまっすぐで、先ほどまでのからかうような色は見えなかった。

「え?」

「最近笑ったところ見てないもん」

 その言葉に、不覚にも俺の胸の中は小さく疼きだす。

「いや、そんなことないでしょ。俺だって一日一回は笑うわ」

 向けられる視線から逃げるように、俺は背もたれに体を預けつつ前方に表示された次のバス停名へと顔を向ける。目的地のバス停まではあと二つ。

「……ま、それだけショックだったってことか」

「なに勝手に納得してんだよ。そもそも失恋なんてしてないし」

 停車ボタンが押され、バスの中にアナウンスが流れる。

 機械的な女性の声が途切れると、バスの中にはエンジン音と静けさが戻ってくる。

 佐渡の静かな視線に耐えきれなくなった俺は、少しだけ首を振り返らせる。

「なんだよ」

 佐渡が呆れたように息を吐き出しながら、小さく笑った。

「成瀬くん、自分が嘘つく時のクセ、気づいてないでしょ?」

「!」

 今日の佐渡からは予想外の言葉ばかりが飛んでくる。

「いや、そんなのあるわけ、」

 上擦った俺の声に構うことなく、佐渡は表情を変えずに言葉を重ねてくる。

「うん、そんなのないけど、元気がないのはバレバレだからね」

「!」

「まぁ、今日はそんな成瀬くんへのクリスマスプレゼントだと思ってくれていいよ」

 柔らかくかけられたブレーキに、体が少しだけ前に揺れる。

 ドアが開くと、寒さを増した風が車内へと吹き込む。

「監督から押し付けられたって言ってたよな」

「成瀬くんと行くことを決めたのは、私だもん」

 俺の視界から母親と手を繋いでバスを降りる少女の姿が消えていく。

 小さな揺れとともにドアが閉じられ、入り込んだ冷気をバスの中の空気が包み込む。

「……それは、どーも」

「どういたしまして。あ、お礼に何かくれてもいいよ」

「タダでもらったチケットにお礼かよ」

 新たに入ってきた乗客が席に着いたのを確かめてから、バスが再び動き出す。

「……そういうところがフラれた原因なんじゃない?」

「だから、フラれてないって言ってるだろうが」

「……わかりやすすぎるのも罪だね」

「なんだよ、ソレ」

「あ、次で降りなきゃ」

 次の停留所名を確かめた佐渡が手近な降車ボタンを押す。

 俺は手に持ったままだったトーナメント表をカバンにしまい、佐渡とは反対方向の窓の外へと顔を向ける。

 葉の落ちたイチョウの木が並ぶ先、丸みを帯びた大きな屋根が見える。

「……」

「あ、あれかな?」

 バスがゆっくりと曲がるのに合わせて、佐渡が窓の外に見える会場に声を弾ませる。

「だな」

 俺は声のトーンを無理矢理変えてみるが、胸の中にワクワクとした感情を見つけることができない。それよりも疼き出してしまった痛みばかりが主張してくる。俺の頭の大部分を占めるのはこれから観る試合のことではなく、声をかけることもなく分かれた伊織の姿だった。

 そう、声をかけることすら、できなかった。

 俺が教室を出るとき、伊織の姿はすでに女子たちに囲まれていた。

 それでも、今までなら声をかけていただろう。

 伊織は俺の声に必ず振り返ってくれる。

 そう頭ではわかっていたけれど、蘇る苦い記憶が俺に言葉を飲み込ませた。

 俺は伊織に見つからないように静かに教室を後にした。

「……」

 失恋?フラれた?その方がどれだけ良かっただろうか。

 ちゃんと言葉にして吐き出して、その答えを聞けたなら、ここまで苦しまなくて済んだのだろうか。今の俺は、壊すことも、元に戻すことも、どちらもできないまま、どこか中途半端に変わってしまった世界をさまよっている。変わりきる勇気も、変わらずにいる覚悟も、どちらも足りないままに。

 ——俺のこの想いはどこにも行けないまま、ずっとこの胸の中でくすぶり続けるしかないのだろうか。



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