『誕生日*翌日』side大和(1)


 シワだらけになってしまったチケットを、ポケットではなくお財布にしまう。

「大和、どれからいく?」

 そんな俺には気づかず、先を歩いていた伊織が振り返る。

 吐き出される息は白く、肌に触れる空気には冬の匂いがしていた。コートとマフラーでもこの寒さを消し去ることはできないけれど、足元に影を作り出す太陽の光はとても暖かかった。俺を見上げる伊織の先、カラフルな世界を覆う空はどこまでも明るく晴れていて、昨夜の雪は跡形もなく消えていた。

「んー、寒いだろうけど……絶叫系は外せない」

 俺が広げていた園内の地図を横から覗き込んだ伊織が「オッケ。じゃあ、とりあえずコレ行っちゃう?」と、この遊園地の目玉とも言えるジェットコースターを指差す。

 急に近くなった距離の中で、冬の匂いを隠してしまうほど柔らかな香りが鼻に届く。

 俺はそっと顔を背けながら、「じゃあ、ソレで」と折りたたんだ地図をコートのポケットに突っ込む。

「よし、じゃあ走る?」

 両手を大きく伸ばしながら伊織が小さく笑う。

「なんか俺の誕生日プレゼントなのに、伊織の方がはしゃいでない?」

「そんなの、大和も楽しめばいいんだよ」

「そうだけど」

「ほら、早く行くよ」

 そう言って伊織が小さく眉根を寄せて笑うから、まだなんのアトラクションにも乗っていないのに、俺の心臓は少しずつ速くなっていた。それは俺を落ち着かない不安定な心地にさせたけど、同時に胸の奥をとても温かくもしてくれた。

 ——いつか、この気持ちを伝えたくなる日が来るだろうか?

 ——なんの不安も見せずに、俺をまっすぐ見つめ笑ってくれる伊織に、この気持ちを言ったなら、伊織はどんな表情かおをするのだろう?


「顔冷たいー!!」

 両手で頬を隠すようにしながら、伊織が小さく叫ぶ。

「マジで寒かった。風、冷たすぎ」

 俺は背中を丸め、両手で自分の二の腕あたりを摩る。首に巻かれたマフラーに顔を埋めてみるが耳の先まで寒さが刻まれている。

「いやもう、いっそ手を離してしまいたいくらいだった」

「わかる。安全バーが一番冷たかった」

 とくに何かを言い合ったわけではなかったが、俺も伊織も建物の影を飛び出し、日向へと足を向かわせる。日陰の冷たさから抜け出し、上から降り注ぐ日差しの暖かさに、二人してホッと息を吐き出す。

「寒かった。寒かったけど、もう一回は乗りたい」

 伊織が白い手を重ね合わせ、指先に息を吹きかける。

「わかる。もう一回、いや二回?は乗りたい」

「よし、じゃあ、あと三回は乗ろう」

 俺の言葉にそう言って笑って返す伊織の鼻の先はまだ赤く染まったままだ。

「伊織、すぐ鼻赤くなるよな」

「俺は寒さに弱いんだよ。それでもこうやって付き合ってやってるんだから、大和は俺にもっと感謝……」

 伊織の視線が俺の後ろへと向けられ、言葉が消えていく。

「?」

「大和、とりあえずアレ奢って」

 そう言って伊織が指差す先には、長方形のような珍しい形をした中華まんらしきものを売るワゴンがあった。

「とりあえず、アレ食べて温まりたい」

 俺の返事を待たずに伊織は、ケースが開くたびに美味しそうな湯気を吐き出すそのワゴンに向かって歩き出す。

 見慣れているはずの、俺よりも小さな背中を追いかけながら、俺は息を吐き出す。

「……今日って俺の誕生日プレゼントじゃなかったっけ?」

「だから、こうして一緒に来てやってるじゃん」

「じゃあ、なんで俺が奢らないといけないんだよ」

「プレゼントは、このチケットと俺が一緒に行くことだろう?それに誕生日は昨日じゃん。今日はもう誕生日じゃないし。こんな寒い中、付き合ってやってる俺に何かしてくれてもよくない?」

「そうだけど……」

 なんだかうまく丸め込まれた気がしなくもないが、俺は素直に財布からお金を取り出す。俺の隣では伊織が店員に笑顔を見せながら、商品を受け取っている。

 なんか、納得いかない気もするけど……

あつっ、」

 そう言いながら半分にちぎった片割れを「ほい、半分」と当たり前のことのように差し出してくる伊織を見ていると、そんな気持ちはどこかに転がっていってしまった。

 温かく柔らかな生地を掴む俺の手が、伊織の細く冷たい指先に触れる。

 それは、ほんの一瞬の出来事。

 だから、俺はいつも通り笑って言える。触れてしまった熱をごまかすように。

「うわ、伊織の手、冷たすぎ」

 ——だって、今はまだ、その時じゃないだろう?

「だから、寒いの苦手なんだって……」

 ——伊織もそんなの、望んでいないだろう?

 不意に途切れた言葉の先、伊織が不敵な笑みを浮かべる。

「?」

 油断していた俺の手は、冷たい熱に覆われた。

「!ちょ、伊織、」

「大和の手、あったかいなぁ」

「だから、お前の手、冷たいんだって言って、」

 振りほどこうとする俺の手に、俺よりも小さな手が、俺よりも確かな力で伝えてくる。

「いいじゃん、あっためてよ」

 握られた手の先から伝わってくるのは、小さな震えと変わり始める体温。

「お前なぁ……」

 そう言って抵抗を諦めた俺は、顔を背けながらもう一つの手に握られたままだった、温かな匂いにかぶりついた。

 ——伊織は今、どんな表情かおをしている?

 ——いや、俺は今、どんな顔をしている?

 自分の心臓の音が大きくなっていくのをはっきりと感じながらも、ごまかしきれないほど上がっていく熱を自覚しながらも、それでも俺は顔を戻すことができない。

「……」

 美味しさもわからず無言で手に残った白い生地を飲み込んだ俺は、冷たい冬の空気を大きく吸い込み、体の中で高まっていく体温に少しだけ抵抗を試みる。

 視線だけで振り返ると、伊織ももう一つの手を空けたところだった。

 頬が動くのは微かに見えるが、俯いているその顔を確かめることはできない。

 ——ほんの少し、ほんの少しでも、変わっていいのなら。

 俺は、先ほど通った道へと体の向きを変え、「じゃあ、さっきのもう一回な」と言って、繋がれたままの手を握り返した。



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