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またきょうもわたしは朝陽のことを置き去りにして出社した。昼休みに話したくもない相手と話したくない話をして、不自然な「なにか」になろうとしていた。それになったからといって一体何になるのだろう。
帰りの電車で着信音が鳴ったからiPhoneを開くと「新着メッセージを受信しました」と表示があった。開くと木内からだった。心臓が一瞬止まった。
「いとちゃん久しぶり。元気? しばらく連絡取れなくてごめんね。急なんだけど今度の土日って予定どう? 久しぶりに会おうよ」
木内と最後に会ったのはいつだか覚えていないが、たしか朝陽との入籍前だった。
彼との出会いは、藍美に勧められて登録したマッチングアプリがきっかけだった。プロフィールの写真に加工した感じがなかったこと、高収入過ぎず、低収入すぎないこと。朝陽のようなひとだときっと緊張してしまうと思って、中間点を取った。
わたしも「ほんとうに自分はひとを好きになれないのか」という悩みの森の中にいて、藍美の言うように「ほんとうに好きなひと」と出会えれば誰かを好きになれるのかと疑っている部分はあった。そういうのが頑張れるのは体力があるときで、がんばれないときは「なぜ頑張る必要があるのだろう」と僧のような心境になる。
木内と何度か会っても会うたびに好きになるどころかまた「男」と「女」について考えて消耗していくから、がんばれなくなってしまった。そもそもマッチングアプリに登録するようなひとは「交際」を経て、「結婚」もしくは「性交渉」がゴールとしてあるはずだ。木内には明確なゴールがあるのに、わたしはそうでなかったし、会ったときもできるだけ彼に触れないようにして、触れられないようにした。
数か月もやりとりをしなかったのによく連絡をしてきたなと思いながら、荒んだ朝陽の気持ちがわたしに伝播しかけていたので、会ってもいいかな、なんて少しだけ上目線な気持ちになっていた。
家に帰ると部屋の生活感の無さにいつも笑いそうになる。清潔感はあるが、いつもはじめて来たような感覚を得る。わたしと朝陽が一緒に食事をするのなんて土日くらいで、基本的にお互い勝手に生活をしている。三年前、二十五歳のとき、職場が倒産して、転職先やこれからの家賃や生活費をどうしようかと路頭に迷いかけたとき、「そういうことなら一緒に住もうよ」と言ったのは朝陽のほうだった。戸惑うわたしに「いとなら、一緒に住んでもいいかなって思うし」と彼はチェーン店の居酒屋でたこわさを食べながら言った。
「わたしが居たら男連れ込めなくなるよ?」
そう言うと「いまも連れ込んでねえよ」と現在よりもずっと光度の高い顔で笑ったのをよく覚えている。
「ウチでするの好きじゃないんだよ」
そして、わたしの目を見ないでそう言った。
あのとき、もしかすると朝陽は、ゲイだと自覚したときから、ゲイとして生きる人生を諦めていたのかもしれないと悟った。そんなの勘違いかもしれない。余計な思考を埋めるように、一緒に食べた焼き鳥のタレの味や、ピザの歯ごたえを覚えようと必死だった。
次の土曜日まで朝陽と顔を合わせられたのは朝の数分で、ゆっくり話しをする時間などなかった。土曜日の朝、わたしが出かけるときも彼は寝室に居た。
木内との待ち合わせ場所は、池袋のヒューマックスシネマズの前だった。ぼんやりと、ひとびとに邪魔そうにされながら木内は待っていた。
「久しぶり」
わたしが声をかけると少しだけ体をぴくつかせ「久しぶり」と冷静に返した。木内の顔には特徴がない。ひとに説明するときに彼をどう表現したらいいのか悩む。有名人でいうと誰に似てる? というたとえやすい問いにも答えられない。実に可もなく不可もない。それはわたしも同じだろう。身長は一七〇センチくらいで、筋肉質ではないし、痩せすぎてもいない。
「きょうはたまたま映画の招待券をもらったんだ」
それが嘘かほんとうかわからないが、そういう細かいことはこの際気にしないことにした。
映画の内容は調べずに座席に座った。長い長い予告編のとき、木内が何か問いかけていたが、彼の声は音圧に負けていたので、ほとんど適当に相槌を打った。
映画が始まって嫌な予感がすぐに当たった。画面の色調や音楽から、これが恋愛映画だとわかった。特定の相手をつくれない女の子が運命の相手と出会って真実の愛と出会うという内容だった。
主人公の女の子が特定の相手をつくらない理由として「誰にも本気にならないことは楽だから」と言っていて、勘弁してくれとミシマに重ねて思った。相手役の男の子は健気にその女の子を説得する。朝陽は他人に深入りできない性格だからここまで積極的にミシマに詰め寄れないのだろう。せっかくの映画なのに朝陽の恋愛事情に重ねてしまって疲れる。
結構どぎつい濡れ場があって吐き気を堪えるので精一杯だった。なぜ、映画なのにここまでする必要があるのだろう。作品の内容が良ければここまでやる必要ないのに。そして隣で木内が同じものを観ていることが気持ち悪くてたまらなかった。もう帰りたかった。
映画館を出て、ぐったりとしているわたしの姿を見て、木内が「合わなかった?」と訊いた。申し訳ないがはっきりと「苦手なタイプの映画」と答えた。
「ぼくも苦手。ごめんね」
素直に謝ってもらったことは嬉しかったが、それ以上の気持ちにはならなかった。
木内はサンシャインシティの五十九階のレストランを予約していてくれて、そこで夕飯を食べた。イタリアンのコースだった。
「しばらく連絡取れなくてごめんね」
そのことについて謝ってほしいとは思っていなかったが、彼はそう切り出した。よくわからない前菜が運ばれてくる。
「ほかに気になる子がいたんでしょ」
こんな言い方、まるでわたしが木内に気があるように聞こえてしまったかもしれないが、マッチングアプリをやって婚活しているのだから、そう思うのは不自然ではないはずだ。
「ああ、うん」と彼はことばを濁した。
「でも、ぼくはいとちゃんがいちばん好きだと思う」
そう言われて一気に食欲がなくなった。
「いとちゃんって、髪綺麗だよね」
彼は何か褒めないといけないと思ったのか、急にわたしの髪の毛を褒めた。さらに食欲がなくなる。
「一回も染めたことがなくて」
胸元まであるわたしの髪は、ある意味わたしを女たらしめるいちばんの象徴だ。髪を伸ばしていれば、いつかちゃんと「女」になれる気がしていたから。
運ばれてきたペペロンチーノや、豚のローストの味はあまりわからなかった。木内の仕事の話は、中身をほとんど覚えていないのにそれは自慢か? という後味の悪さだけが残った。
駅までの道を歩いていると、手を触られそうになって引っ込めてしまった。
彼の顔は見られなかったけれど「会えて嬉しかった。また会おうね」と言われ、駅で別れた。
木内には、「わたし結婚したんだ」とは言えなかった。別に木内に何かの望みを託したわけではない。彼にとって嫌な情報を与えて、直接強い感情をぶつけられたくなかった。わたしはとてもずるい。しかしやはり自分を「女」として見られることは胸が引き裂かれるように辛い。これは「ほんとうに好きなひと」云々の前に、恋愛に関して「誰かを好きになる」というスタートラインにすら立つことを許されていないような気がした。頭がどんどんネガティブな思考に引きずられていく。
男女の中に友情が成立しますか? という質問が難問とされる意味がわたしにはわからなかった。わたしたちは生まれつきの身体的特徴から「男」と「女」のラベリングがされる。ただそれだけの話だ。必ずしも「男」と「女」の間に恋愛感情が発生するわけではない。性別だけで考えると絶対に交わらない男女はいる。わたしと朝陽がそうだ。
インフルエンザになったように頭の中と関節に熱が溜まった。
家に帰るとリビングで朝陽がパソコンを開いて作業をしていた。
この家のソファで、わたしたちは肩を寄せ合うことなく、手を繋ぐこともなかった。それでよかったし、そんなことをこれからも望まない。だけど、頭がおかしくなって、変なことを口走っていた。
「ねぇ、朝陽」
朝陽が顔をあげて穏やかな顔で「お帰り」と言った。
「子ども、とかさ、つくったほうが、いいんじゃないかな」
「え?」
わたしたちは女と男で、結婚ができるなら子どもをつくることだってできる。ほんとうのことを言えば子どもなんて欲しいわけがなかった。だけど、朝陽がたとえ戸籍上と言えど「女」としてのわたしを利用したならば、それ以上を求めてきてもおかしくはないとずっと思っていた。
「どうした? 大丈夫か? この前の、ウチの母さんの電話なら気にすんなよ。それか、いとのご両親に言われた?」
「言われてない」
朝陽は混乱しているわたしに引きずられはしなかった。
わたしは朝陽に断ってほしかった。そういうことなら、と乗ってこられたら自分を保てないような気がしたし、ここから出ていく理由ができる。だけど、本心はこれ以上朝陽には、朝陽にだけはわたしに「女」を求めないでほしかった。
「俺には、無理だよ」
安堵したのもつかの間、「子どもが欲しいなら、男なら紹介するぞ」と彼はことばを続けた。なんだか裏切られた気持ちになって、彼に近づき平手打ちをした。ぶたれた朝陽は唖然としていたが、怒らなかったし、わたしはすぐに「ごめん」と謝って逃げるように部屋に閉じこもった。なんて、自己中心的なんだろう。わたしは。
朝陽は追いかけて来ず、わたしのことをそっとしておいてくれた。心臓がずっと爆音で騒いでいる。
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