scene 9 ……のち、嵐
美優の『駆け込み訴え』発表を以て音響監督レッスンが終わり、酒井講師と支倉音響監督が使用していた会議机とパイプ椅子は部屋の片隅に片付けられた。代わりに引っ張ってこられたのはまっさらなホワイトボード。
支倉音響監督はレッスン生をホワイトボードの前に座らせると、ペン受けから青と黒のマーカーを手に持った。
「皆さんお疲れ様でした。他社養成所の講師は初めてでしたが、今まで出会ったことのないタイプの声優のたまごさんの演技をたくさん見ることができて有意義な時間になりました。やはり『個性とバラエティの東京ボイスアクターズ』の謳い文句に相応しい、そんな才能に触れることができたことを嬉しく思います」
支倉音響監督はそう挨拶をし、続ける。
「先ほど『個性とバラエティの東京ボイスアクターズ』と言いましたが、我が事務所は『実力と実績のオフィス五十嵐』、そしてエスさんは『堅実性と信頼のエス・プロデュース』と呼ばれています。そして、東京ボイスアクターズスクールでは多分こういうことはしていないと思うんですけど……」
そう言うと、さらにペン受けから赤のマーカーを拾い上げ、ホワイトボードの上から等間隔でSとAのアルファベットを記し、その隣にMVPと記していく。
何が始まるのだろう。
美優がホワイトボードに目を向けると、支倉音響監督が振り返った。
「某歌劇団の生徒募集のポスターには成績によるポジションがあります。そして声優も、好きな声優やら声が可愛いやら、演技力が高いやら歌が上手いやら、何かとランキングづけられる職業です。我が五十嵐塾では、二ヶ月毎にレッスン生にランクがついて、本人や周りに掲示にて知らされます」
支倉音響監督はそう告げると、ホワイトボードの傍に立つ酒井講師に青色のホワイトボードマーカーを手渡し、こう続けた。
「自分の今のポジションが如実に現れることから、発表当日は殺伐とします。だけどそれをまっすぐ客観的に受け止め、次に繋げていける人材こそ、伸びる表現者であると思います」
支倉音響監督が言い終わると酒井講師がホワイトボードに進み出て、上から文字を記していく。
「酒井講師には、レッスン開始時から今日までのランクを、僕は今日だけみたランクをつけます。ただし、B以下は記載なしとさせていただいてます」
そう説明すると支倉音響監督も、ホワイトボードに向き直った。
確かにこのクラス限定で言えば課題の一番最後にMVPを発表するが、それ以下は知らされることがない。
皆、緊張の面持ちで酒井講師と支倉音響監督がつけていくランニングに注目していたが、ついに両者がホワイトボードから離れた。
そこに記載されたランキングに、皆それぞれ何を思ったのだろうか。
MVPは酒井講師も支倉音響監督も、同じレッスン生の名を書いた。
北原さより。
さよりの名前はSランクの一番上にも記入されていて、その実力が抜きん出ていることがわかる。
が、美優はホワイトボードに書かれているランキングに息を呑んだ。
支倉音響監督が美優をAランクに記入していた。A+がついた最上さんと十時さんよりは下に書かれていたけど、実力はこのクラスの半分より上だと評価してくれたのだ。
じゃぁ、酒井講師は。と目線をずらした一番下。さよりや最上さんや十時さん、早坂さんと共に、A−として藍沢美優と記載されていた。
本科土曜十四時クラスの落ちこぼれだったあたしが、担当講師に認められ始め、外部講師からもちゃんと評価してもらえた。
そのことが嬉しくてにやけてしまいそうで、美優は唇を噛み締める。
早く森永さんに伝えたい。
酒井講師にも、頑張りを認めてもらえるようになりましたって。
そんな美優の逸る気持ちを、支倉音響監督の声が遮った。
「先ほども言った通り、あなた方が飛び込もうとしている世界は、常にランキングとの戦いです。『ランキングなんて関係ない。わたしはわたし』と言う意識でいても、頭の片隅に自分はどの立ち位置にいるんだろうと自覚しておいていただけると幸いです」
支倉音響監督はレッスン生を見回して告げると、レッスン生に立つように促した。
レッスン生が立ち上がると、支倉音響監督は今一度全員と目を合わせて続ける。
「では、今度はスタジオでお会いしましょう。ありがとうございました」
その挨拶にレッスン生も、ありがとうございましたと頭を下げた。
支倉音響監督は酒井講師にも頭を下げると、手荷物をまとめてレッスン室を出て行った。
酒井講師もその後に続き一旦はレッスン室から出たが、磨りガラスの扉を開けると、目的の人物に声をかける。
「さより」
酒井講師がさよりを名前呼びしはじめたのは、一ヶ月ほど前。最近知ったことだが、酒井講師はお気に入りの女子レッスン生を名前で呼ぶようだ。
そのお気に入りを果たしたさよりが振り返り「はい」と答えると、酒井講師は表情をそのままに告げる。
「着替えが終わったら荷物持って五階に来るように」
「はい、わかりました」
さよりが返事をすると、酒井講師はそのままロビーへと出ていってしまう。
「……何かしら?」
若干訝しげに小首を傾げたさよりがロッカー裏へと歩き出したので、美優もそれに並んだ。
「……もしかして、支倉音響監督直々にオファーだったりして!」
「……いや流石にそんなに人生甘くないと思うわよ、美優」
渾身の冗談を夢見すぎだと嗜められながらロッカー裏へと周り、各々早々に着替えを済ませる。
ロッカー裏奥では早坂さんのグループが美優たちを睨んでいたが、あえて気づかないふりをした。
睨まれる理由は美優でもわかる。
今まで散々美優がダメ出しを受けているのを嘲笑っていたが、支倉音響監督にダメ出しを出す理由を告げられたこと。そして、支倉音響監督が発表したランキングに、三人とも名をあげてもらえなかったから。
だからって、美優は彼女たちを嘲笑ったりはしない。
緩やかに気にしないことにしてやり過ごせば、いつか彼女たちも飽きるだろう。
そう思いながら着替えを済ませてレッスン室へ出て行くと、ちょうど最上さんと十時さんと鉢合わせになった。
未だ少し浮かない顔の最上さんは、前髪を厚く下ろしたまま。
最上さんはハムレットの時にすごくお世話になった人。そんな彼が落ち込んでいる。
「……最上さん」
美優が駆け寄ると、最上さんは眉尻を下げて笑う。
「へへっ、怒られちゃった」
それでも最上さんの評価は、酒井講師と支倉音響監督共ども、A+。あのリアルリアリティを抜きにしても実力は認められていると言うこと。
「……最上さんの演技、すごかったです」
胸が締め付けられて。と付け足したら、嫌な気持ちになるかなと思い、美優はそれ以上を口にしなかった。
「……ありがと。美優ちゃんもすごく良かったよ」
最上さんはそう笑ってくれたけど、やっぱり普段通りというわけにはいかないのだろう。すぐにメガネの奥の瞳が寂しげに揺れる。
が。
最上さんの背をバシバシと叩く者が現れた。
さよりだ。
「らしくないわよ、そんな顔。最上さんは『僕余裕です』って笑ってなきゃ! ね、十時さん」
急に話題を振られ、慌てた十時さんだったけど。
「まぁ、そうだな。オンがそんなだと調子狂うし」
そう言って、最上さんの背をバシバシと叩く。
最上さんは叩かれまくってよろよろとよろけたけど、「そうだね」と呟くと顔を上にあげた。
「今日は目一杯落ちて、明日からまた頑張る。みんなのことも頼りにするからよろしくね」
それは支倉音響監督からのダメ出し『ネタが思い浮かばない時は本とか映画とか友達とか、外部に頼りな』のアンサーなのだろう。
「あたりめーだろ」
真顔の十時さんが最上さんの脇腹をこつくと、さよりさんもにっこり笑う。
「年下で性別が違うからこそ、最上さんが知らなくて私たちが知ってる物もあるのよ。ねぇ美優」
話を振られ、美優は頷いて続ける。
「最上さんに比べたら人生経験浅いですけど、あたしも力になります」
美優たちの言葉を受けて最上さんは少し驚いた表情をしていたけど、やがてその言葉を自分の中に落とし込んだのか、うんと頷いた。
「頼もしいね。みんな、ありがとう」
やっと、いつもの最上さんの柔らかな笑顔の戻ると、さよりが安心したように微笑んで歩き出した。
「それに、『リアルとリアリティ』の貴重なお話も聞けたし。最上さんには借り1ってとこね」
「……さよりちゃん、それ複雑なんだけど……」
なんて話しをしながら、美優たち四人はロビーに出て下駄箱へと辿りついた。そして各々の靴をリノリウムの床に落とし、足を通した。
美優がサンダルに足を通す中、一番真っ先に靴を履き終えたさよりが扉を開けると、鶯谷の空はまだ昼間のように明るい。けれど、ふと新宿の方を見れば黒い雲がこちらに流れてくるのが見える。
さよりは「……迎えはパパに頼もうかしら……」と憂鬱そうに呟くと、上階への階段を一段登って美優たちを見下ろした。
「雨降りそうだし話長いか短いかわからないから、先に帰ってて。お疲れ様でした」
そう言うと、階段を颯爽と上がっていく。
美優たちはそれぞれ挨拶を返すと、お互いの顔を見合わせた。
「藍沢はこの後どうするの?」
十時さんに尋ねられて、美優は少しだけ考える。
森永さんに、今日のことを伝えたい。
だけど、雨も降りそうだし……。
だけど、ちょっとだったらいいよね。
「ちょっと寄りたいとこあるから、ここで」
喫茶店で働いていることも、ワークショップのことも、森永さんと毎週会っていることも、三人には言っていない。
美優がそう告げると、十時さんは「そう」と相槌を打って続ける。
「俺は雨予報だし、こいつ慰めながら帰るわ」
「じゃあ、慰められながら帰る」
最上さんは苦笑しながら十時さんを横目で見たけど、瞬きと共に美優を見て手を上げる。
「じゃぁね、美優ちゃん」
「藍沢もなるべく早く帰れよ。お疲れ」
十時さんも手を上げながら踵を返して階段を降り始めたので、美優も手を振って二人を見送った。そして、外階段の段を少し上がったところで、肩にかけていたトートバッグからスマートフォンを取り出す。森永さんにアポイントを取るためだ。
メッセージアプリを開いて、白猫のイラストアイコンとともに記された森永響の文字をタップする。そして、開いた会話画面の下の文字入力部分にタップしたそのとき、足元で扉が乱暴に開かれたと思った瞬間、ゆったりとした甘い声が美優の鼓膜と心を揺るがした。
「なんなのあの子! あんなに褒められて気に食わない!!」
早坂さんだ。
そう思った瞬間、美優は咄嗟に口に手を当て、息を潜めた。
「なんでわたしが一回しか発表できなかったのに、藍沢美優はもう一回、しかもフル掛け合いでやらせてもらえてるの? おかしくない?」
早坂さんの言う『あの子』が自分であることは粗方わかってはいたけど、いざ名指しで不平不満がぶち撒かれていると思うと、心が一気に硬くなる。
美優は足元の砂一粒も踏んで音が鳴らないように体をこわばらせると、さらに声が重なった。
「ジュニア上がりなのに……。支倉講師、あの子のこと気に入ってるんじゃないの?」
この少しボーイッシュなこの声は、秋名さん。
後から少し掠れた住石さんの声も聞こえてくる。
「ランキングだってA付けてたし、絶対気に入ってるよ。どうやって取り入ったんだか知らないけど」
二人とも、美優の悪口をイライラと吐き出した。
と、少しの間黙っていた早坂さんが大きくため息をついたのが聞こえてきた。
「……酒井センセもあの子のこと認め始めて、やな感じ。……もうレミ我慢できない。あの子の姿を見るのも、声を聞くのも嫌。……藍沢美優を無視しよ? 無視していじめて、養成所辞めさせる方向に仕向けない?」
言い終わりと当時に、三つのも足音が階段を下っていく。
その音を聞きながら美優は自分の心臓が抉られるような感覚に苛まれ始めていた。
こんな露骨に、いじめの提案を聞いてしまったのは初めてだ。
しかも、それが自分が知らない他人への敵意であっても胸が騒ぐと言うのに、その敵意の矛先は、間違うことなく自分に向いている。
心臓が早鐘を打ち、胸が張り裂けそうになる。
美優は荒くなった息が漏れないように手で口を覆う。
半階上でいじめの標的この会話を聞いていたなどと知ったら、彼女たちはどうするだろう。
美優の悪口に花を咲かせながら遠ざかっていく足音を聞きながら、美優は息を殺し続ける。
大丈夫。
あたしはこの気持ちのやり過ごし方を、もう知っているはずだ。
心を殺せ。
何も感じなければ、あんな言葉。
ただの音の振動じゃないか。
自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、息ができなくなる。
喉が詰まる。
思わず美優は、喉を鳴らした。
この感覚を美優は覚えていた。
それは、声を失う一瞬前。
また声を失ってしまったら、リハビリに何ヶ月も費やさなきゃならなくなる。
そうしたら、森永さんとの約束はどうなる?
ダメだ。
こんなあたし、森永さんに見せられない。
早く帰ろう。
今日、夕方からのバイトがないのがせめてもの救いだ。
三人の賑やかな声が大通りの角を曲がるのを確かめて、美優は階段を全速力で降り始めた。
何度も何度も踊り場で方向転換し、やっとの思いで階段を降りきり、大通り方面とは反対側に走り出した。
大通りを通れば、名ならず彼女たちを追い越すことになる。
その時に走っていたら、きっと、彼女たちは思うだろう。
あの子、盗み聞きしていたんだ。
だったら今潰しても、なんら変わらないよね。
だったらちょっと大回りしてもいいから、彼女たちをやり過ごそうと思った。
早く帰って、一人になりたかった。
だけど目をぎゅっと瞑ると、浮かぶのは森永さんの少し照れたような微笑みで。
美優はその面影を降り払うように走り出した。
西の空から流れてきた黒雲は、やがて上野の空を覆い始め。激しい雷鳴を轟かせ始めていた。
それはまるで美優を責めているようにも急かしているようにも聞こえた。
あんたはどこにいても虐められる存在なんだよ。
早く、早く安全な場所に帰らなきゃ。急いで!
だから一刻も早く、誰にも会わずに家に帰ろうと思った。
大丈夫。足は動く。
あの町中華屋さんの奥の路地を曲がってこのまま一駅、雷雨の中でも走ってもいいと思った。だって、止まってしまったら、頭の中を嫌なものばかりがぐるぐると回るような気がして。
また、声を失ってしまうような気がして。
雷鳴の音でいつもは竦んでしまう体も動くのは、一種の興奮状態だからかもしれない。だからこのまま自然に足に任せればと思った矢先、角を曲がって細路地に入ったタイミングで、右足に鋭い痛みが走り派手に転んでしまった。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
気がついたら地面に這いつくばっていて、右足と左膝にそれに左の腕に痛みを覚える。
ゆっくりと体を起こすと、肩にかけていたトートバッグが前方に飛んでいて。右足を見れば、サンダルの足の甲を渡っていたバンドが切れている。そこから目線をずらしていくと、左膝から脛にかけて派手に擦りむいていて、ワンピースのスカート部分が腿まで裂けてしまっていた。おそらく、左腕も擦りむいて傷ができているのだろう。
だけど、このまま蹲るわけにはいかない。
美優は再び立ちあがろうと地面に手を右足に力を入れた。
その時だった。
「藍沢さん!!」
前方から聴き慣れた大声が聞こえ、美優は顔を上げることができなくなった。
なんで。
なんでこんなにタイミングが悪いの……?
今、一番会いたくなかった。
その人はもう一度美優の苗字を叫ぶと、スニーカーを鳴らして走ってくる。そして美優の前に飛んだトートバッグを拾い上げると、美優のからわらに膝をついた。
「大丈夫ですか?」
彼は美優に声をかけると、美優の今の状態を一通り眺めたのだろう。自分が肩にかけていたトートバッグから何か服を取り出した。
黒い、サマーカーディガンだろうか。
「立てますか?」
そう言って差し出してくれる手に、まだ美優は縋ることができない。
なんで、こんな雨が降りそうな時に、こんなところを歩いてるんですか?
聞きたかったけど、声が出ない。
彼は自分の手を掴まない美優に業を煮やしたのか、美優の左腕を掴むと半ば強引に立ち上がらせた。そして美優の腰にカーディガンを結びつけると、あの日のように両肩を掴んできた。
「藍沢さんっ!!」
強く呼ばれ、美優は思わず顔を上げてしまう。
森永さんが、真剣な表情で美優を見据えていた。
顔を見たら、糸が切れてしまうことなんてわかっていた。だから顔を上げなかったのに。
胸の奥の強張りが一気に緩み、目頭が熱くなる。鼻の奥もじんじん痛くなって、もう歯止めが効かない。
もう止まらない。
「……あぁぁぁぁぁぁ……!!」
雷鳴が轟き、美優の慟哭は彼にしか聞こえない。
次第に大粒の雨がポツポツと降り落ちて、徐々に強まってくる雨に、道路の色が濃くなっていく。
森永さんは、強い雨の打たれても構わず子どものように大声で泣く美優に一瞬戸惑ったようだけど、美優の右足に目を落とすなり左肩をぎゅっと抱いて自分の体へと引き寄せた。
「……走るよ……」
耳元で力強い声が聞こえたけど、もう美優には何も考えることができなかった。
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